「あなたは戻らなくていいの?」

 澪は僕に言った。水面から発せられる青い光が、彼女の白い頬を照らしていた。岸では、白い十字架が二つ並んで立っている。とんでもない。澪は生きている。僕は怒り出したい気分だった。そんな自分が、少しおかしかった。

「戻りたくないんだ」

 僕は水面を手でかき乱して、ざっと水しぶきを上げた。その様子を、澪は黙って見ていた。

「今日は、誰と一緒に来たの?」

「迷子に聞いてるみたいだ」

「だって、いつも迷い込むのは子供よ」

「僕は子供じゃない」

 水面から手を上げて、答えた。

「母さんと弟と。でも今は一緒に暮らしてない。だから」

 戻りたくない。

「でも、つらそうよ。さっきの、子どものころ見たっていう、人形劇の写真を見たときみたいに……」

「勝手に決めるなよ」

僕は吐き捨てるように言った。澪のことだから、つんと澄まして言い返すかと思ったら、何も言わずにうつむいていた。

「ごめん」

 思わず謝ると、澪は、ゆっくりと岸に目を移した。こんなふうに、誰かに気持ちをぶつけることは久しぶりだった。さっきまで一緒にいた家族にさえも、心を閉ざしていたというのに。

「君は、外に出たいと思わないの?」

 澪は首を横に振った。

「私はあの人のために作られた人形よ。あの人のために、ずっとここで暮らすの」

「君は……澪はそれでいいの?」

 澪は僕のほうを見ずに、行く手を黙って見つめていた。

「それは、私が決められることじゃないわ」

 澪の言葉に、僕は両親が離婚した日のことを思い出させられた気がした。

「あなたには、帰る場所があるのね」

 そのとき、起こるはずのない風が二人の間を吹き抜けた。舟はスピードを上げ、周りの景色を目で追うのが難しくなった。

 数十メートル進んだ先に、光の穴が開いている。澪は言った。

「あそこから、外へ帰れるわ」

「でも、澪は」

「私はここにいる」

 澪は立ち上がって、風を一心に浴びていた。黒く長い髪が強い風に乱されて、まるで二人で本当に海に出ているようだった。岸には何の飾りも、建物もない。教会も風車も墓標も、すべて通り過ぎてしまった。澪と僕だけが、風の中にいた。

「また、会えるかしら」

 舟は進み続け、出口へと近づいている。

 澪が船縁に両足を乗せて何もない岸に降り立とうとした時、僕は、澪の手を掴んで舟の中に引っ張ろうとした。

「あっ」

 掴んだ澪の白い手は、手首からぽきんと折れ、澪は音もなく岸に倒れ込んだ。何度名前を呼んでも、澪は起きず、倒れたままぴくりとも動かなかった。

 僕はそのまま、舟の進むままに洞窟を出た。


 アトラクションを降りると、外は夕暮れになっていた。遠くのほうから名前を呼ばれ、声のしたほうを見ると、母さんと弟が心配そうな顔で並んで立っていた。

 その時、右手の中に何かがあるのを感じた。ゆっくりと開くと、手の中には白い二枚の花弁があった。

 母さんの呼ぶ声が聞こえる。僕は、花弁が手の中で消えていくのを感じながら、それでも、その手を強く握った。

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ネクタル @umibashira

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