5
「あなたは戻らなくていいの?」
澪は僕に言った。水面から発せられる青い光が、彼女の白い頬を照らしていた。岸では、白い十字架が二つ並んで立っている。とんでもない。澪は生きている。僕は怒り出したい気分だった。そんな自分が、少しおかしかった。
「戻りたくないんだ」
僕は水面を手でかき乱して、ざっと水しぶきを上げた。その様子を、澪は黙って見ていた。
「今日は、誰と一緒に来たの?」
「迷子に聞いてるみたいだ」
「だって、いつも迷い込むのは子供よ」
「僕は子供じゃない」
水面から手を上げて、答えた。
「母さんと弟と。でも今は一緒に暮らしてない。だから」
戻りたくない。
「でも、つらそうよ。さっきの、子どものころ見たっていう、人形劇の写真を見たときみたいに……」
「勝手に決めるなよ」
僕は吐き捨てるように言った。澪のことだから、つんと澄まして言い返すかと思ったら、何も言わずにうつむいていた。
「ごめん」
思わず謝ると、澪は、ゆっくりと岸に目を移した。こんなふうに、誰かに気持ちをぶつけることは久しぶりだった。さっきまで一緒にいた家族にさえも、心を閉ざしていたというのに。
「君は、外に出たいと思わないの?」
澪は首を横に振った。
「私はあの人のために作られた人形よ。あの人のために、ずっとここで暮らすの」
「君は……澪はそれでいいの?」
澪は僕のほうを見ずに、行く手を黙って見つめていた。
「それは、私が決められることじゃないわ」
澪の言葉に、僕は両親が離婚した日のことを思い出させられた気がした。
「あなたには、帰る場所があるのね」
そのとき、起こるはずのない風が二人の間を吹き抜けた。舟はスピードを上げ、周りの景色を目で追うのが難しくなった。
数十メートル進んだ先に、光の穴が開いている。澪は言った。
「あそこから、外へ帰れるわ」
「でも、澪は」
「私はここにいる」
澪は立ち上がって、風を一心に浴びていた。黒く長い髪が強い風に乱されて、まるで二人で本当に海に出ているようだった。岸には何の飾りも、建物もない。教会も風車も墓標も、すべて通り過ぎてしまった。澪と僕だけが、風の中にいた。
「また、会えるかしら」
舟は進み続け、出口へと近づいている。
澪が船縁に両足を乗せて何もない岸に降り立とうとした時、僕は、澪の手を掴んで舟の中に引っ張ろうとした。
「あっ」
掴んだ澪の白い手は、手首からぽきんと折れ、澪は音もなく岸に倒れ込んだ。何度名前を呼んでも、澪は起きず、倒れたままぴくりとも動かなかった。
僕はそのまま、舟の進むままに洞窟を出た。
アトラクションを降りると、外は夕暮れになっていた。遠くのほうから名前を呼ばれ、声のしたほうを見ると、母さんと弟が心配そうな顔で並んで立っていた。
その時、右手の中に何かがあるのを感じた。ゆっくりと開くと、手の中には白い二枚の花弁があった。
母さんの呼ぶ声が聞こえる。僕は、花弁が手の中で消えていくのを感じながら、それでも、その手を強く握った。
ネクタル 青 @umibashira
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます