塔歌天命

伊島糸雨

塔歌天命


「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。苳河とうか苓濘れいねいの背中越しにその言葉を聞いた。果香璃かかりの瑞々しく爽やかな香りが、色素の薄い髪に匂っていた。〝チャンス〟とは何か、という旨を訊くと「天命のこと」と彩鏡さいきょうの〈史骸しがい〉を前に苓濘が答えた。彼らには四度の天命があったの、と続けて言うので「そう何度も繰り返して大丈夫なの」と苳河は重ねた。

「大丈夫。行き着く先は同じだから」

 薄暗い隠れ家で、彩鏡の明滅する光ばかりが鮮やかだった。微風に乗って流れ込む青々とした木々の匂いに混じって、盲雀くらめの伸びやかな声が反響する。求愛かな、と推察していると、つがいと思しき歌が応えるように続いた。蒼褪樹そうたいじゅの薄蒼い花弁がはらはらと足元に散った。萌芽の季節、と苳河は思った。運ばれてくるのは、緩慢に過ぎゆく時間と、生命の鼓動。四度も生まれるというのなら、彼らは幾度の季節を巡ったのだろうと、束の間遠くに思いを馳せた。

 彩鏡の表面では奇怪にうねる文字が無秩序に踊り、終わらない段差の渦がその背景で蠢いている。「チャンスは残り三回です」重ねて声が告げるけれど、苳河にはそれがどのような意味を持つのか判別ができない。

 これ、本当に生きてる……。えも言えぬ不安に突き動かされて問いかける。苓濘は「死んでる。でもこれは悪くないかな」と笑うと、静かに彩鏡を閉じた。声は消えたが、何かを弄ぶような音の連なりは耳の奥に残り続けた。

「苓濘は、何回くらいあると嬉しい?」

 戯れに訊ねると、当人は特段考えるでもなく「一回」と答えて言った。

「言葉が残れば、それでいい」

 端正な横顔を、黄金の髪の穂先がそろそろと撫でていく。緑に埋む灰の〈史骸地しがいち〉、その近辺に広がる花園から、微かな芳香が風に乗って流れてきた。苳河は深く息を吸った。胸の奥が潤いに満たされて、得体の知れない恐れの感覚も紛れていった。

 そろそろ行こう。苓濘の声に頷き、立ち上がって隣に並ぶ。新芽の色の双眸はここではないどこかを見つめている。しかしその先の至る場所は、十七年を共にしても、苳河にはわからないままだ。

〈史骸地〉の隠れ家を去り、ふたりは森の秘路を辿って穀物の緑が揺れる東地第六蜂櫛ほうしつの元へと帰り着いた。補修を繰り返した石畳の、種々の材質と色が混じる通りを歩けば、人々の視線は自然と苓濘に吸い寄せられた。おかえり、と声がかかるのに応じながら、街の中心部、〈記述師〉の詰める正六角柱の塔書庫へと入っていく。

「ああ、苓濘、苳河。収穫はあったかな」

 ふたりの師であり、苓濘にとっては義母でもある萃漣すいれんがにこやかに出迎えた。赤子の苓濘が発見されたのは苳河の生まれと同日であったといい、〈史骸地〉の調査に赴いていた先代〈記述師〉の萃漣が、崩塔の麓で布に包まれて眠っているのを拾ったのだという。苓濘が肌身離さぬ彩鏡は、その際に傍らに置かれていたものだ。

 苓濘が頷くのを見てから、苳河は懐から汚れた小さな筒型と長方形の記録体をいくつか取り出した。「あの辺りはもうこの種の〈史骸〉しか残ってないです。そろそろ場所を変えてもいいかも」苳河が答えると、萃漣は記録体を受け取って「まぁ、さすがにあらかた取り尽くしたろうね。今度審議にかけようか」

 渡したものはすべて、隠れ家で確認の上、苓濘が不要と判じたものだった。記録体の中にはたいてい文書や映像などが収められており、〈記述師〉は紙の書物などと併せて、これらを収集、保護、管理することを主な務めとした。皆を守るため、と萃漣は言った。何から? その問いにはわずかな沈黙を挟んで「塔の崩壊から、ね」とふたりの髪を掻き混ぜた。少しごつごつと骨張って、けれど温かな感触だったと苳河は時折思い出す。十七年の先を生きる女の、語られることのない労苦が手に宿り、未熟と蒙昧の幼さを柔らかに啓くようだった。

 記録体の紐解ちゅうかいと解析は未だ萃漣の職分であり、苳河たちは探索と収集を終えれば自由になる。塔書庫の大扉を出ると、街の通りを斜光が照らし、道端には休息を終えた露店が再び品を出し始めていた。「今夜はどうしようか」訊ねると、宙に視線を彷徨わせてから苓濘は言った。「今日はお肉の気分」

 東地第六蜂櫛は近辺に河川と森林を備えており、穀物に果実の採集、栽培から、獣の狩猟と畜産までを自給自足で賄えた。〝東地〟や〝第六〟といった呼称の起源は定かではなく、他に蜂櫛が存在するのかも不明ではあるが、人々は飢えることのない日々を享受していた。そのように〈史骸〉を活用し豊かさを得るにあたっては、〈記述師〉による必要に応じた知識の選択と教育が不可欠であり、その意味で〈記述師〉の存在は都市に欠かすことのできないものであった。露店で食材を買う時も、人々は必ず一度、手を合わせてふたりを拝んだ。古くから続く習慣であるといい、程度の差こそあれ、〈記述師〉は敬意をもって迎えられた。

 相談しながら通りをそぞろ歩き、完成図を組み立てながら材料を揃えていく。苓濘の要望に沿って黒毛の鵺鵝やが肉を、苳河の好みから川辺で採取できる白い老供菜おぐなを買い、落日を横目に帰路を急いだ。

 主菜となる肉の処理を苓濘が、付け合わせと調理を苳河が担う。生まれて以降を〈竟導体きょうどうたい〉として共に過ごし、三年を同じ屋根の下で送れば互いの息も掴めるもので、支度はすぐに整った。貯蔵された穀物を練ってつくった慈穂包じすいほうと併せて食卓が整うと、ふたりは向かい合って席につく。「今日もするよね」苳河の問いに苓濘が頷く。「もちろん」

 互いの手を差し出し重ね、森閑とした夜の気配に唇を濡らす。苓濘が口を開く。苳河は続いて囁きかける。


 天を道と言祝ぐのなら

 流るる雨も大河となろう

 宿命さだめは塔に 崩れぬように

 巡る萌芽は四を数える


 祈り、と苓濘は言う。それは感謝、あるいは懺悔であり、生活の普遍性に潜む瑕疵を雪ぐための祝詞である、と。数年前、まだ〈記述師〉見習いであった頃、こつこつと塔書庫や隠れ家に通っては何かを調べ続け、「ようやくできた」と口ずさみ始めたのがこの歌だった。おそらくはふたりの他には誰も知らない隠れた秘儀は、ある種の切実な宝のようでもあった。苓濘が大切に胸に抱くものを、自分も大切にしていたいと苳河は思う。彼女の声が紡ぐ言葉は寂しくも温かで、何よりも美しかった。言葉は快楽だ。交わし合う誓いはどんな果実よりも甘く瑞々しい。

 床につき、微睡みの淵を彷徨う夜半、苳河は何日おきかに扉の軋む音を聞いた。多くの場合は気に留める間もなく眠りの底へと転げ落ちたが、時折、ふと目を覚ました途端に、言葉にならない恐れが湧くことがあった。空白は星の降る夜に限定され、静まり返った街の陰翳の間で、苳河いつも空を見上げた。北の極星、螺旋の花は果香璃の星座。生々流転と円環を示す高位の象徴は、いつまでも人々を見つめている。

 足跡を追った先、塔書庫は高く聳え立ち、苳河は鍵の開いた外階段を夜風を嗅ぎながら上っていった。色褪せた黄金に絡みつく這鱗しゃりんの肋に足をかけ、遠ざかる大地を置いて星を追う。胸のざわめきは震えとなって肉体の芯に噛み付いている。苓濘、と知らず呟く声は音も立てずに地に落ちる。しかしやがて、微かな旋律が耳に届いた。わずかに心を背ければ消えてしまうほどの、微かな、それでいてあらゆる抵抗を突き抜ける涼やかな、声。最上へと至った時、苳河は見慣れた背中を発見する。そして立ち尽くしたまま、夜気を祓う歌を聞く。


 熾火うずめる灰の跡

 朝は幻 夜は暗がり

 ついいななも枯れる

 三度みたびの夢に返り咲く

 果香璃かかりの花を摘み紡ぐのは

 そそ生命いのちの残り火と知れ


 天を道と言祝ぐのなら

 流るる雨も大河となろう

 宿命さだめは塔に 崩れぬように

 巡る萌芽は四を数える


 傍らに腰を下ろし、ただじっと耳を傾けていた。いつしか歌は途切れ、緑と黒の双眸が宙に混じった。

「何も、聞かないね」

 苓濘は立てた膝に頬を寄せて静かに言った。ここで掴まねばするりと滑り落ちそうだと苳河は思う。しかし、それはこれまで幾度も繰り返してきた感覚でもあった。答えはいつも変わることがない。

「聞かなくても、同じだから」

 うん、と満足げに苓濘が笑う。過去も意図も霧の中に埋もれている。それでも、その言葉の届く限り、苳河が夜に迷うことはないと思えた。肩が触れて、柔らかな重みに腕を回した。中天に座す月光が、流れる金糸に淡い煌めきを灯していた。

「私も、一度きりでじゅうぶんかな」

 うん、と小さな声が返った。深奥の渇きは潤いを得て、現前する瞬間こそを慈しめた。苳河は苓濘がふとした時に見せる憂いの横顔や、身動ぎもせず溺れるような沈黙の正体を知らない。でも、それで構わないと思うから、自分が隣にいられるのだということも理解していた。

 己が半身とも言える異邦の色は、蜂櫛おける特別だった。

 自分たちとは異なる起源を持つ苓濘の血を、人々は憐憫と祝福をもって迎え入れた。何か超常の思し召し──ひとつの象徴的な天命として受容され、同日を生誕とする苳河を〈竟導体〉に大過なく日々を送ってきた。それどころか、成長するほどに苓濘の遠い美貌は神秘を増して、瞳の奥に眠る深い知性は同胞を密かに捕え、静かな敬意を向けさせた。

「〈史骸〉に学ぶだけのことだよ」

 そう言って、彼女は〈史骸〉に刻まれ時には語りかけてくる文字や声を収集しては、ひとつひとつに意味を見出していた。〈記述師〉の役を与えられる以前から、それは彼女の隠れた執着であり、秘密を共有しているのは苳河ただひとりであった。

〈記述師〉はまるで司祭プリースト巫女オラクルのようだね、と苓濘は言う。彼女は時折、苳河さえ知らない言葉を口にした。意味を訊ねると「間を繋ぐもの。あるいは、境界に立つ壊れた高塔」彼方を見つめて、静かに言った。そこには巡る星の軌跡が残り、果香璃は絶えず匂っていた。

 積み重ねた年月の泥濘と、仄暗い光の澱がある。足先を浸しその冷感に震えるほどに、熱とは芯を温めるものだと悟っていく。苳河は苓濘の声を、言葉を、他の誰よりも愛していた。交わり溶ける視線の応酬には深い理解の色があり、想い、慈しみ、寝しなに指先を擦り合う感触は唯一無二の歓びだった。

「また、迎えにきてね」

「何度でも」

 天蓋に背を向け、連れ立って塔を後にする。ふたりは並んで眠りにつく。わずかばかりの漣と不可知の変容を手のひらに握りながら、おそらくはそれだけが生涯持ち得るたったひとつの宝であると、きっとどこかで理解していた。

「おはよう、苳河」

 髪を梳る背中を見た。苓濘こそが黄金の塔オラクルだった。生活の音律があり、流麗に波打つ時間があり、祈りと共に零れ落ちる願いがあった。しかしそれらはすべて泡沫の夢であったのかもしれないと、苳河は思う。

 変わらないはずの日々の合間に、苓濘は忽然と姿を消した。朝、見慣れた光景を失った苳河が彷徨っていると、萃漣がやってきてこう言った。

「あの子は帰って行ったよ。自分の故郷に」

 言葉が残ればいい、と苓濘は言った。

 だから私は、言葉だけを残そうと思う。




 せんせい、と呼ぶ声がある。

 それはかつて私たちが指したのと同じ色で、瑞々しい独特の響きをしている。

 彩鏡さいきょうから顔を上げると、間近に迫る顔がある。まだ幼さの残る面立ちには、隠しきれない知性と思慮の花があり、一抹の不安を添えてこちらを覗き込んでいる。窓から差す陽光が浮かぶ埃を揺らしていた。いつの間に来たのか、記憶は靄に埋もれている。「──ごめん、何?」

 弟子の莩滄ふそうは呆れ混じりに息を吐いてから、「あのですね」と腕を組んだ。

「今晩の献立はどうしましょうか、って言ったんです。やっぱり聞いてないじゃないですか」

 慌てて短く謝意を伝えながら、いくつかの選択肢を思い浮かべる。けれど私は悩んだ末に、結局何も選ぶことができない。「えー、と。お任せで」

 いつもそれ、という声は謹んで受ける他にない。昔は自分であれこれと考えてたものだったが、どこが錆びついたのか、いつの間にかあまり手を出さなくなってしまった。怠慢といえばそれまででしかなく、しかしその理由というのは、いかにも語り難く私の喉を詰まらせている。

「あ、でも、老供菜おぐなはあると嬉しいかな」

「いつも通り、ですね」

 日も落ちますから、あまり遅くならないでくださいよ。彼女はそう言い残して塔書庫を去る。どちらが師だかわからないね、とは〈記述師〉の任を退いた萃漣すいれんの弁で、それには私も概ね同意するところだった。日々の生活の力動においては、今や彼女の方がしっかりしている。街の筆頭〈記述師〉となった私の方は、毎日零れ落ちていく何かを拾うことすらできない。

 彩鏡には書きかけの文字が一定の感覚で踊っている。本来は読み取りと再生のみに使用されるものだったが、密かに記録にも使うようになった。特権だ、と思う。失ったものと引き換えに、人は新たな恵みを得るものだろうか。

 この地位も、自分を慕う弟子も。

 十年の歳月でも埋めることができない、この孤独でさえも。

 暗転した鏡面には陰鬱を浮かべる女の顔がある。しかしそこに求めた色の影はない。立ち上がり、高く広大な塔書庫の閉ざされた森閑のうろを歩む。過去の遺骸、歴史の断片未満の痕跡たちの墓場──そこにはいかなる声も残ることなく、私たちの存在は空白の一行目に溺れている。誰が望み、願い、祈ったことか定かではない。けれどきっと、こんな徒労に意味を求めた人が、どこかにいたのだろう。

 落日は滅びの色だ。一切が眩しく、焼ける街に翳した腕の内で、人々のざわめきが蟠る。霜枯そうこの前の肥沃の季節。風に揺れる黒髪は黄金に燃える。彼らは手を合わせて私を拝む。幻に非存在を見出している。祈り、という言葉は、誰ひとりとして唱えることがない。それは失われた言葉であり、ただひとりの語り手が置き去り持ち去ってしまった、ささやかな光跡の粒と同一だった。

 扉を開けば芳しい香辛料と脂の香りが鼻腔を抜けた。裸紅魚らこうの姿揚げかな、とあたりをつけて調理中の莩滄の手元を覗き込むと、どうやら正解のようだった。ただいま、と言うと莩滄はこちらを一瞥してから「お帰りなさい。これ、持って行ってもらえますか」

 食卓に並ぶ皿の配置に私はこだわった。座る位置だけが反転し、私はかつての日々の影を追い、莩滄は弟子として、師である私の後を追う。見える景色は変わったが、見えているものは、きっとあまり変わっていない。

「今日もやりますか」

「うん」

 代替と伝承のささやかな仕草として、私たちは存在しない手を重ね合う。声には出さず、目蓋を下ろし、ただ静かに、想う。ひとり繰り返していた虚ろな形は、いつしか儀式となり、習慣となり、愚かなひとつの祈りとなった。萌芽の季節は四度の巡りをとうに過ぎ、知恵の塔は未だ崩れることがない。私は意味を失くした旋律に身を横たえる病葉と相違なく、導き手なしにはどこへもいけない哀れな船頭とよく似ている。

 食事を終えると、莩滄は自身の〈竟導体きょうどうたい〉の元へと帰っていく。終わりの日までを共に行く、切なるかたわれ。茜澟せんりんと呼ばれる少女は闊達と好奇心の権化のようで、莩滄は困ったように眉を下げながらも、親愛と慈しみを込めて笑っていた。

「おやすみなさい、師匠せんせい

「うん、また」

 慰めに音はなく、静謐の合間に床を軋ませ、茫と夜を照らす角灯を掲げる。空には螺旋の花が絶えず灯り、果香璃かかりの香りだけが、実体のない未知の大海、その波間にひっそりと沈んでいる。黄金の塔は空を衝く。這鱗しゃりんは蠢きを止めて膠着し、肋の階梯が導くのは、滅亡の痕跡と、遠い闇の色。遺灰はどこにもない。帳が真実の口を覆い隠す。

 森を抜けて至る〈史骸地しがいち〉の隠れ家は、今でも私の宝だった。ほとんどの〈史骸しがい〉は主人によって持ち去られており、未知と既知の間を繋ぐ翻訳家オラクルがいなくなった今、残された記録体に意味を見出すのは不可能と言えた。けれど、私は暇を見つけては不可解を再生し、傍らの感触を幻想しながら時を過ごした。奇怪な声の合間に捻転する偶像の群れを憶えている。「チャンスは残り三回です」私たちは四度の天命を持ち得るという。今が何度目か、証明する術はない。

 口ずさむ歌だけが、反芻と想起に支えられて確かな像を保ち続けた。忘却は記録されず記録されない声は掻き消える。消失に抗うように、幾度でも私は音をなぞった。

 ひとりの家で朝を迎え、柔らかな日の縁取る空漠を指先で撫ぜる。莩滄がやってきては、師匠せんせい、朝ですよ、と扉を開ける。私は目蓋を開く。現実と呼ばれる不可解と虚妄の連続を、少しでも見据えて歩めるように。

 けれど、その日の朝、弟子の足取りは慌ただしく、私は顔が見える前に身体を起こしていた。駆け込んできた莩滄が、荒れた息を整える。「おはよう。何があった?」背を向けて着替えながら問いかけると、それが、と震える声で「異人たちが、師匠せんせいに──」

 こつ、ともうひとつ、足音がした。莩滄が息を飲み、懐かしい果香璃かかりの香りが、微かに匂った。

「おはよう、苳河とうか

 朝日を背負い、黄金の塔は輝いている。それはいつかと望んだ祈りの一端であり──いっそと拒み続けた、断絶の証明だった。

「おかえり」

 苓濘れいねい、と私は口にする。十年間忘れることのできなかった、たったひとつの確かな音を。


「皆は外に待たせてある」

 懐かしい声はそう言って、かつてのように向かい合って腰を下ろした。確認に行かせた莩滄ふそうの報告も踏まえると、彼女は真実単身で蜂櫛内部へ侵入し、私の元へとやってきたようだった。北門の外では様々な容貌の人々が奇妙なまでの規律を保って待機しているといい、苓濘は彼らを〈史徒アポサル〉と呼んだ。

「祈りを共にする同胞たち。彼らは〈史骸しがい〉に学び、そして数える者だよ」

「何を?」

「自らの天命チャンスを」

 私は今一度、正面に座る亡霊を見た。若く麗しかった美貌は年月による洗練を経て、揺るぎない説得力を孕ませていた。声は凛と透き通り、唇の動きのひとつひとつが耳の奥を柔らかに撫でるようだ。それはまさしく私が思い描いた苓濘の到達点そのものであり──遥か遠くへ霞んでゆく、星光の終わりを思わせた。

 何のために、と私は問いかける。何のために、今更。何のために、ここへ。省略されたものを彼女は正しく理解している。その上で、答えはこのように。

「君を迎えに」

 訊きたいことは山ほどある。彼女もそれは承知している。私たちは十年ぶんを語り合う必要がある。しかし、それが許されることはない。

 私が欲してやまなかったもの。彼女はもはや記録ではなく、移ろい隔たる現実として存在している。狂おしく愛おしく胸の内に抱えて蹲るほどに粘度を増していく切なさと疼きの最果てがあり、私たちはもはや共に歩み並び立つことによって交わることさえもないのだろうと直感している。

「あなたはどこで、何を見たの」

 苓濘は微笑む。過去の残影が去来して、奥歯を噛んだ。

「故郷で、天命を。壊れた高塔の先にある、祈るべき場所を」

 私は巫女オラクルだよ、と穏やかに続ける。君と同じ、間を繋ぐだけの存在だ、と。

「見届けて欲しいんだ。私がどこへ向かうのかを。苳河とうか。私の唯一の、愛しいかたわれに」

 返事を待ってる、と苓濘は立ち上がる。私は茫然として、彼女が淡い光の境界に消えてゆくのを見ることしかできない。彼女はまるで非現実の国の女王のように、逡巡に揺れる手をすり抜けていく。

師匠せんせい、あの人って」

 混乱した様子で莩滄が駆け寄る。ああ、と私は呻いている。顔を覆い、幾度となく繰り返した雪と滅びの季節を思い出す。寄る辺ない震えの源は内奥にある。抉り出すこともままならない、肉体の記録の奥底に。

 言葉などなくとも、抱きしめられればそれでよかった。孤独の最中に空想した、あの日の熱と皮膚の感触、溶け合うほどの理解と思慕を。

 しかし、それが二度と訪れないということを、私は誰よりもよく、理解している。



 沈黙の内に苓濘が去り、あらゆる情動が相互性を失った妄想に過ぎないと知った時、私は自身が持ち得る天命チャンスに縋るのをやめた。ある種の期待や希望が、泡沫のように脆く弱々しいものであるのは明らかだった。

 本来であれば苓濘の席であった筆頭〈記述師〉の後継として、私は萃漣の元で粛々と記録を蓄えていった。彩鏡を通じて〈史骸〉を学び、要請に応じた最小限を教授する。塔が記憶してきたあらゆる過去、言葉として残された息吹を私はこの身に宿していった。それだけが、私を置き去りにした彼女の望みを叶える唯一の方法だった。

 街は騒然としている。百人ほどの〈史徒アポサル〉の一団は、苓濘の指揮の元、壁外で野営をしているといい、人々は噂の合間にその奇妙な光景をひと目みようと集まっているようだった。蜂櫛にとって苓濘が異物であるのは疑いようがない。莩滄には茜澟といるように伝え、私は塔書庫へと急いだ。街の〈記述師〉は既に集まっており、萃漣もまた、その中に佇んでいた。

「苳河、お前はどう考える。あれの意図は」

 先達の葟澪こうれいが口火を切った。誰もが戸惑っていた。怯えていると言ってもいい。消えたはずの象徴、忘れ去られるはずの亡霊の存在に。

 平静を装うのは慣れたものだった。〈記述師〉は語られるべきことを選別する。私たちはあの日から、苓濘の名を語ることさえ拒み続けてきたのだから。

「先ほど、彼女と話をしました。害意は、ないと思います」おそらく、と付け加えてから、萃漣を見た。わずかな歪み。私だけがその意味を見通している。「彼女は私にこう言いました。──迎えに来た。私がどこへ向かうか見届けて欲しい、と」

「……意味がわからんな」葟澪は低く呻いた。苛立つように足先を揺らし、「だが、こういうことか? 要求はお前であり、壁外の連中は、そのための示威に過ぎないと」

 塔書庫の空漠に沈黙が降りる。苓濘は壊れた〈史骸〉の無意味な啓示と変わりなかった。死者の残した言葉には、生者が意味を見出す他にない。私は今一度、ひとりひとりを見回して、言う。

「極力刺激をしないように。彼女とは、私が交渉します」

「異議はない。他に術もあるまい」反論の声はない。葟澪は頷くと、「当面は街の外に出ぬよう皆に伝える。せいぜい、あれが我らに害を為さぬことを願っておこう」近しい数人を連れて、塔書庫を去っていった。私は残った面々にも街の秩序維持のため働きかけるよう指示を下した。真意が不明な今、無用な衝突を避けるに越したことはない。「門の警備を増やすように。連絡は密に取り合うこと」

 最後には私と萃漣だけが残された。意図は訊ねるまでもなかった。

「……話が、ある」

 歳を重ねた師の顔は、語られぬ罪の色に陰っていた。


 私が始めたことなんだ、と苦悶を滲ませて師は言った。切り取られた朝日の中で、顔を覆う陰翳は色濃く映る。「あの子の言葉に偽りはないだろう。けれどね、それだけではあり得ないんだよ」

「あの日、苓濘の失踪を伝えたのは、師匠せんせいでしたね」

 ああ、と呟きほどの答えが返る。どうして知っているのかと、疑問に思わなかったわけではない。それでも訊ねることができなかったのは、ひとえに私が臆病だったからだ。彼女と過ごした美しい日々の裏でどんな思いが蠢いていたかを知ってしまえば、何もかもが変質してしまうと理解していたからだった。

 しかしそれも、彼女が過去の泡沫として現実の底に眠っていればの話だ。私はもう、目覚めてもいい。

「蜂櫛を出る前に、あの子は私の元へやってきたよ。すべての罪を詳らかにするために」

 それは、誰の? 私は訊ねた。師は長年の苦衷を滲ませて、

「私の──あるいは、この街に住まう遍く人の」

 萃漣は言う。あの子は正しく象徴だった。異郷の客人まれびととして、異質な色の輝きとして、閉ざされた街における明らかな希望だった。賢く、麗しく……それゆえにあの声でもって人々を導くだろうと、誰もが信じて疑わなかった。だからこそ、衰退と未知への不安は形を変えて仮託され、あの子は人を繋ぐ巫女になり得た。

 天命と、私たちの境界を繋ぐ、黄金の塔に。

「あの子を見つけた当時、蜂櫛は孤立し、穀物は病害に侵され、誰もが希望を持てずにいた。東地第六蜂櫛──私の親の代には、ここの周辺にも他の蜂櫛があったそうだ。けれど、度重なる天災の余波で、次々に滅びを迎えて行った……。私たちには、寄る辺が必要だった」

「だからあなたは、異郷の赤子を連れてきた」

 萃漣は静かに頷いた。祭り上げるための道具として、街を維持する生贄として。そして〈竟導体〉に私をあてがうことで、彼女に楔を打ち込んだ。かたわれを置いて街を去れぬようにとたばかった。「それが最善と、私は信じていたよ」

 それを聞いて、私は不意にひとつの真実へと思い至る。沈黙の水底に沈み閉ざされ続けてきた光景を幻視する。周辺の街が滅びていたというのに、隠れ家のあるあの〈史骸地〉に赤子が捨てられている可能性はいかほどだろうか? 明確な意志によって苓濘が運ばれたというのなら、その主人はどこへ消えた?

師匠せんせい、あなたは──」言葉は喉の奥で絡まり合って、声にならない。注がれる視線には、悔恨と悲しみ……あらゆる選択が過去の渦に消えたことへの錆びた諦念が混じっていた。

 そうだ、と萃漣は言った。

 私が殺した、と。

「母親だ。子を産み抱えての長旅に疲弊し、衰弱していた。発される言葉を私は理解できず、その不明瞭に壊れた音を私は恐れたよ。出会った瞬間、女は外在するあらゆる未知と不安の象徴となり、得体の知れない恐怖に濁った瞳で私は女を刺した。押し倒すのは容易だった。傍らでずっと、赤子の泣き声が止まなかった……」

 二十七年だ、と萃漣が呟く。

「あの子のことを思う度に、声が聞こえて、止まない」

 ああ、そうか、と私は気づく。彼女が街を去り、戻った理由は明らかだった。

「復讐」

 私は言った。彼女が戻ってきたのは、私を連れるだけではあり得ない。ならばもう、こんな言葉しか残されてはいなかった。静謐を保ちながらも、熱く滾ってすべてを焼き尽くす、こんな言葉しか。

 苓濘が口ずさんでいた歌を思い出す。あの儚くも清廉な調べの奥に潜んでいた怪物の名前は何であったか。郷愁、憧憬、回顧、悲哀、憎悪、憐憫……そして、希望。私は確信する。彼女は流された血の色を憶えている。母親が残したただひとつの歌を憶えている。だからこそ、彼女は翻訳者オラクルとして私たちの言葉で口ずさめた。赤子のその未発達な耳と脳で、それだけを記憶していたのだ。

 ありとあらゆる選択の因果は、天命の果てまで追い縋って私たちを殺し尽くす。思い出も懐かしさも愛おしむ心でさえ、それら連関する天命の前では露ほどの意味もない。

師匠せんせい、私たちは間違えたんです。拾えたはずの天命チャンスを逃してしまった」

 告白に崩れた萃漣を私は見下ろしている。私たちは変わったけれど、それは最初から仕組まれていたことに過ぎなかった。糸は重なり、ほつれ、厳格な秩序の下で到るべき場所へと牽引される。苓濘は二度と戻らない。私たちは彼女を再び迎える術を持ち得ない。万象は滅び終わりへと向かうばかりでしかない。

 でも、と私は思う。そうとわかってもなお、私はまた思い出さずにはいられない。私たちがまだ少女だった頃、世界は不思議なほどに美しかった。移ろう季節の匂いがあり、降り注ぐ光と夜の色彩があった。語ることは山のようにあり、しかし同時に、語られずとも感じられる豊かな思いの果実があった。それは紛うことなき現実だった。輝ける金色の波と私を釘付けにする鮮やかな緑瞳、遠くを知り私を連れて行ってくれると思えた歌声も、どれほど汚れ霞もうとも確かにそこに存在したのだ。

 師匠せんせいの罪、人々の罪、私の罪、それから、苓濘の罪。

 いつか清算されるべきものを、私は見届けるべきだと思う。今やそれだけが、記述され、いくつもの主観の境界面で語られるべきことだと、私は悟る。

 師の元へと歩み寄り、身を屈めて私は囁く。私にしかできないことがある。瞬きの間に過ぎ去る熾火の如き生涯であったとしても、世に在る誰よりも苓濘と言葉を交わし、少女であった日々の微かな煌めきを分かち合った、〈竟導体〉の私だけが導くことのできる終わり方がある。「どこまでも間違うことしかできないとしても」そんなことの積み重ねが、何よりも記述され、後の未来にまで残り続けるものだろうから。

「私は私の最善を尽くします、師匠せんせい

 塔書庫を出る間際、苳河、と名を呼ばれて立ち止まった。萃漣は半ば叫ぶように言った。「あの子はもはや、以前と同じではない。あの意志は、破壊的で、破滅的だ。他者の天命さえ砕いてしまう……」

「ええ」その通りです、と私は答えた。そしてそれを承知の上で、答えは最初から決まっている。もしも、彼女の願いが真に天命を数え語り継ぐことならば、私はそのために生きようと思う。けれどもし、彼女が彼女自身の復讐のためにすべてを道連れにするというのなら、その時は。

「私が終わりを導きます。彼女のただひとりの〈竟導体〉として」

 どれほどの後悔が待ち受けるとしても、それが最善だと、私は信じている。



 日はまだ高度を保っている。澱みの漂う街の空気と裏腹に、空はどこまでも青く涼やかな顔を見せた。〈記述師〉たちの尽力もあって、人々は普段通りの生活を再現しようと試みているようではあったが、やはりどことなくぎこちない。私に向けられる合掌も心なしか力がこもり、彼らの生の道程に現れるはずのなかった異郷の色は、確実に心を蝕んでいた。

師匠せんせい!」「苳河さん、こんにちは!」

 途中、莩滄と茜澟に会った。彼女たちの家は北の区画に位置しており、私が苓濘を訪ねることを見越して待ち構えていたようだった。莩滄は表情を曇らせ、茜澟はどういう胆力かにこにこと嬉しげなのに小さく笑う。彼女のような種の人間には、この危機でさえも心地よい刺激、新しい風と相違ないのだろう。〈記述師〉向きではないが、この街には必要だ。

「なんてことはない。旧友と親交を温めるだけ」

 私はいつかの日に萃漣がしてくれたのを思い出しながら、ふたりの髪を掻き混ぜた。戻ってきますよね、という問いには、微笑みのみを答えとした。

 門の外では、壁から一定の距離を保った〈史徒アポサル〉たちが、設営された簡易的な天幕の下で思い思いに過ごしていた。遠目に見ても、彼らには奇妙な活力があり、私は目を細めた。異様だ、と思う。風が届ける言葉は、私たちのそれとまるで異なっている。わかるのは、それが時に〈史骸〉に刻まれ、苓濘が好んで用いたものとよく似ているということだけだった。

「苳河様」

 突然届いた声に振り向くと、女がひとり、こちらを見つめていた。雨に濡れた土の髪色は、私たちと近しいことを示していた。女は荼潸とさんと名乗り、〈塔主スフィア〉──苓濘の同胞であると言った。

「彼女はどこに?」

「あなただけがご存知と伺っております」

 情報はそれだけで十分だった。私は礼を言って、黄金に色づいた穂の揺れる道を、今一度歩んでいった。


「迎えにきてくれたね」

 解けた僅かな斜光が、灰の隠れ家に降り注いでいた。地を這う緑には足跡が残り、蒼褪樹から零れた白の枯れ葉が点々と散っている。苓濘の声には彩鏡から漏れる音が絡みつく。チャンスは残り三回です。私はその嘲る声を憶えている。

「約束は守るよ」

 振り返った苓濘に私は告げる。私たちの声もいつかは歴史の亡骸になる。けれどそれは今ではなく、忘却の波に攫われるまで、昔日に交わしたものは意味を保ち続けている。

「嬉しいな。その言葉だけでも、戻ってきた甲斐があった」

 拡散する光の境界を越えて、私たちは歩み寄る。沈黙こそが何よりも雄弁だった。手を伸ばした先の抱擁は、強く、柔く──頬に触れた皮膚の熱と背をなぞる指先の感触ばかりが鋭敏に感じ取れた。私は思い出す。かつて、温もりを分かち合い、深い理解の奥底で愛とも呼べぬ泥濘を注ぎ合うのは心地よかった。今はどうか、と自問しても、答えはきっと同じまま。甘く、狂おしく、舌先に残っては現実を犯す。哀れな空想と思っても、胸の内にあいた虚ろな穴は、そんな幻想の他には癒せなかった。

「一緒にきてくれる?」

「どこまで」

「天命の、果ての果てまで」

 どこかで盲雀くらめが物悲しげに鳴いていた。別離の歌。萌芽の季節に子は生まれ、肥沃の季節に親は死ぬ。成長した子供たちは葬送のために歌を捧げ──滅びの季節を越えるための糧として、亡骸を食らい尽くす。骨すらも残らぬように、すべてを自らの血肉とするように。

 揺るぎない摂理に生かされている。盲雀くらめ果香璃かかり鵺鵝やが老供菜おぐな慈穂じすい裸紅魚らこう──私たちも。移ろいゆく世界の中で、刻まれた記録を頼りに、同じことを繰り返している。愚かにも、浅ましくも。他に終わりへ導かれる術を知らぬが故に。

「それだけが、あなたの願いなら」

 名残惜しさを振り払い、私は身体を遠ざける。苓濘は密やかな笑みを浮かべて、

「ぜんぶ、聞いたんだね」

 萃漣によって語られたことを私は語る。それから、私が自ら想像したことも。「あなたは赤子の頃を憶えている。だからこうして、帰ってきた」

 復讐のため、とは言わなかった。それが彼女を辱める言葉であると、わかったから。

 代わりに、私はこのように言葉を選ぶ。「自らの天命を、試すため」

 苓濘は肯定も否定もせず、もう一度私に近づくと胸元に指を這わせた。鼓動を追い、心の臓を愛撫して、自らの存在を刻むように。「私はね、海を臨む街の血を引くらしいんだ」流れるままに手を取り合い、誘われるままに踊りをなぞる。苓濘の律動に導かれ、視線が絡む。

「帰郷を果たして、私は私の起源を知った。北方にある彼の地には、ある信仰が根付いていた。人は四つの天命を持ち、三度生まれ変わる──街の構成員は皆、波濤を照らす高塔で行われる成人の儀式において、自身の天命が何度目かを占うことになる。彼らはそこで定められた季節に則り、今生でなすべきことが決まる。一度目は幼年の〝萌芽〟、二度目は青年の〝繁茂〟、三度目は壮年の〝肥沃〟、そして四度目が、老年の〝霜枯〟。私の母は、〝霜枯〟だった」

 靡く髪と共に、鼻先で果香璃かかりが匂う。十年間待ち続けた思いのひとつひとつが、この応酬、行き交う五感の刺激に変わっていく。その瞳は私の心を惹きつける。深く、遠く……誰も触れ得ぬ秘奥まで。

「四度目を迎えた者は〈竟奴ターム〉と呼ばれ、残る生涯を終の住処の探索に費やすことが運命づけられる。否応なしに街を追われ、その天命の果てるまで、大地を彷徨うことを強いられる」

「でも、あなたの母はひとりではなかった」

「そう」苓濘は頷いた。「胎の中に、私がいた」

 あの歌を思い出す。彼女の母は、身重のまま街を取り巻く渦に呑まれ、一切を捨て去る他になかったひとりの女は、何を思って歌い続けたのだろう。苦難を約束された死にゆくための旅路の中で、我が子を抱いて何を願ったのだろう。

 チャンスは残り三回です。それは馬鹿げた戯言だ。私たちに天命チャンスは一度しかあり得ない。語り終えたと断じられ、無惨で不可避な取捨選択によって生を繋ぐことを拒絶されるというのなら、そんな信仰にどんな救いがあるのだろう。

〈記述師〉も同じだった。知らされるべき過去、語り継がれるべき物語を選別し、緘黙の特権によって真実を覆い隠す。罪を抱えながら罰を定め、矛盾を知りながら抗うこともできない。私たちが苓濘に押し付けたのは、それら捻転し歪みきった祈りの澱みではなかったか。

 その声で、その言葉で、輝ける未来へ導いてくれると期待した。この私も。

師匠せんせいが──萃漣が母を殺したことには、十代の初めにはうっすら気付いていたよ。だから、街を出ると決めたことと直接的な関係はないんだ」

 なら、なぜ? 緑瞳を覗き込んだ。人差し指が、とん、と胸を突いた。

「歌がどこからきたのか、私がどこからきたのか、知りたいと思った。起源ルーツを、ね」

 掲げた腕の間で彼女は回る。どこで覚えたの。訊ねると、「旅先で。あとは〈史骸〉から」

 北方の地はこの辺りと比べて〈史骸地〉も〈史骸〉も多い、と彼女は言った。言葉の対応も正確なものがほとんどで、紐解ちゅうかいも容易だった、と。

「彼らは君たちと違って、〈史骸〉の活用に躊躇がない。良くも悪くもね。だから、文化と呼ぶべきものが残った。秩序を保つための、信仰と一緒に」

 あの歌は元々、臨海の塔で歌われていた。母は少女であった頃、塔の巫女オラクルだったそうだ。祈り、伝え、言祝ぐための。

「それを知って、私はやはり翻訳者オラクルでありたいと思ったよ。断絶を憂うのではなく、繋がることを祝福したい」」

 今度は私が回る番だった。体勢を崩し、ふらついたところを支えられる。苓濘は悲しげに眉を下げた。束の間幼さを帯びた表情を、私はよく知っていた。

「ねぇ、苳河。私たちが互いを知るために必要なのは、同じ言葉を使うことだよ。個人と主観の断絶を越えて繋がるには、巫女オラクルが、翻訳者オラクルがいなくては」

 ふと、足を止めた。手は依然繋がれたまま、私は瞳から目を逸らした。

「……あなたにとって、私は黄金の塔オラクルであれたのかな」

 馬鹿げた問いだった。私を置いて行った苓濘。一切を語らぬまま、姿を消したあなた。私はずっと焦がれ続けて、こんな時になっても歓びは胸を高鳴らせている。十年間自問し続けたけれど、答えは今も出ないまま。

 ややあって、小さな笑いがあった。わかりきったことだとでも言うように、迷うそぶりも見せなかった。

「君が今ここにいることが、何よりの証明だよ」

 さぁ、まだ行けるよね。彩鏡を開いた苓濘が、記録体から歌を流し始めた。それは私も知る旋律をして、私たちの身体に芯を通す。足元で蒼褪樹の枯葉がかさかさと鳴った。手を取り、額を寄せて、私たちは今言葉を交わす。

「復讐は、しなくていいの」

「私と街の架け橋として、筆頭〈記述師〉になった君を連れ去る」

「それだけ?」

「もちろん」

 それに、と確かな意志を宿した声で、苓濘は続ける。「私が憎んだのは、母を追放し私たちを呪った秩序の方だ」

「だからこそ、私は各地を巡りながら〈竟奴ターム〉と同じ境遇の者、行き場をなくした人を集めることにした。〈史徒アポサル〉と名付けて言葉を授け、歴史の亡骸によって生き抜く術を教えた。そして、天命を数える祈りを与え──」

 私はもう彼女の思惑を悟っていた。言葉を引き継いで、言った。

「天命の終わりまでを、語り継ぐと約束した」

 間を繋ぐ塔として。血の轍に朽ちゆく過去の遺骸と、天の光塵を衝いてなお果てることのない余生の、最後の寄る辺として。私のかたわれは、いかなる報いも保証されない泥の道を選んだのだ。自らの願いによって。

「そう。これはいつか終わるべき巡礼の旅だ。だから、落伍者の楽園を見出すまで、私は〈塔主スフィア〉を騙り続ける。君たちが求めたのと同じ方法で、私は偶像として異なる道を選ぶよ」

 途端、世界が水底に沈んだように、蕩け出した光の渦が私たちを包み込んだ。彼女は言った。見届けて欲しいんだ。私がどこへ向かうのかを……と。私が負うべきものがそこにはあった。苓濘が同胞の、〈史徒アポサル〉の行末を見届けるというのなら、語り部はどうなる?

「それなら、あなたのことは誰が語るの」

 彼女の声は揺るぎない。空間に満ちる音色に乗せて、朗々と、私を導く巫女オラクル祝詞いのりのように。

「君がいる」

 苳河、とあの声が私を呼んだ。あの日からずっと、願ってやまずにきたすべてがあった。長年拒み否定し遠ざけてきた激情が、しなやかな指の鼓動となって胸を衝く。ずっと、ずっと……混迷と憂鬱の砂礫に埋もれ、驟雨に錆びつくばかりだと思っていた。しかし今頬を濡らすのは、それ以外の何かだ。

天命チャンスはまだ、残ってる?」

「何回でも。私たちの天命が、一度きりであったとしても」

 その日、私たちは戻らなかった。踊り、語り、疲れれば横たわり、陽光が大地を濡らすのを目で追った。落日は滅びの色だ。街は焼かれ、暗闇に呑まれ、そんなことの積み重ねが私たちの日々を彩っている。罪も後悔も、あらゆるものは歴史となって、堆く積まれた記憶の塔にひっそりと埋もれていくだろう。けれど、それは私たちひとりひとりが翻訳者オラクルとして抱えて行くべきものであり──言葉こころを通わせる悲壮なまでの決意によって、ただ言葉うたとしてのみ残るべきものだった。

 彩鏡の音色が途切れる。それでも歌は止まず、〈史骸地〉に響いていた。



 *     *



 二十年。

 苓濘の天命が尽きるまで、苳河は目にしたすべてを記し続けた。〈竟導体〉の使命を越えてふたりの天命は重複し、静謐と無窮の夜闇を照らす灯火となった。塔の主人は自身の傍らに止まない熱の熾火の存在を知り、語り部は遥かな高塔の頂に消えることのない星光が灯るのを見た。

 天命を数える巡礼は苦難と痛みに満ちていたが、人々は皆己の信じる光に導かれたので、別離を繰り返してもなお解け散ることはなかった。彼らは数多の世界を見た。震える結晶の雪景を、轟く黒の大海を、無尽の花咲く丘陵を……残された〈史骸地〉と、街々を。苓濘はずっと、天と大地を繋ぐ楔だった。生の痕跡、壊れた規律、放逐された罪人たち。彼女は路傍に連なるものを拾い集めては、自らの手に携えて行った。

 ひとり、またひとりと数を減らす〈史徒アポサル〉たちを、苓濘は正しく悼みながら、各々の望んだ方法で持って送り出した。時には遺灰を海に撒き、時には獣の糧とする中で、彼女は唯一歌うことだけをやめなかった。翻訳者オラクルとして声を繋ぎ、言葉を変えて、一切の抵抗を突き抜ける涼やかな音を空に鳴らした。萌芽、繁茂、肥沃、霜枯。いかな季節にあるとしても、苓濘は一度きりを言祝いだ。どこに至ろうとも、どれほど馬鹿げた道であろうとも、塔は憶えていると、人々は知った。

 同胞の荼潸とさんは、複数の言葉を扱える数少ない〈史徒アポサル〉として、〈塔主スフィア〉を陰から支え続けた。ある時、荼潸とさんは苳河に自身の出自を語って聞かせた。東の山間部の出身であること、異郷の流浪者であった父と現地人の母の間に生まれたこと、故郷にも信仰があり、異郷の血を買われて神に仕える巫女となったこと……。

「巫女になる者は皆、名を奪われるのが慣わしでした。そして数年に一度の祭礼の時には、霧深い森の湖畔にある古い木箱に詰め込まれ、飢えか、獣に食われるか、待ち続けるのです」

 あの方は、言葉を持たない神などよりも、私を救ってくださいました。名を与え、慟哭を汲み、最後まで共に在ると約束してくださった。

「だから私は、そのためになすべきことをなすだけです」

 いくばくかの血が流れ、人々を狂わせることもあったが、その度に果香璃かかりの香りと歌が彼らの背を震わせた。休息の時になると、苓濘は苳河と寄り添って眠りについた。もう振り返る必要はなかった。道は塔を巡る這鱗しゃりんのようで、迷うべきものはどこにもない。天に向かって開けた光の筋を、目を閉じたまま追うだけで良い。

 十九年目。いつしか荼潸とさんの天命も尽き、ふたりだけが残された。最後の看取りで、苓濘は荼潸とさんの願いを受けて、彼女の一部を自らの内に取り込んだ。「彼女は親ではなかったけれど、家族のようなものだった。ああ、なんだか盲雀くらめを思い出すね」亡骸が木舟に乗って湖に浮かぶのを眺めながら、苓濘は呑気にそんなことを言った。自身に課した過酷な使命に、肉体はすでに壊れかけていた。

「それで、この後は?」

「もちろん、帰るよ」

 杖を手に立ち上がり、少女然とした笑みを浮かべる。久しく見ることのなかった表情を、苳河はしっかりと記録した。「これで最後だ。さて、私の天命チャンスは、あと何回かな」

 ふたりは東地第六蜂櫛の近辺に至ると、かつて隠れ家のあった〈史骸地〉を終の住処と定めて日々を送った。目覚めれば挨拶を交わし、食事のために横に並び、満天の星を結んでは名前をつける。〈史骸〉や彩鏡に触れ、歌を口ずさみ、戯れに手を取り合って踊り明かした。

「歳はまだ肥沃の季節のはずなのに、すっかり霜枯の気分だ。君はどうかな」

「繁茂の季節程度には気分がいい。まだまだ色々できるよ」

「まったく、頼もしいね」

 打ち捨てられたものたちと送る終末への道程は、既にふたりにとって馴染み深いものとなっていた。終わりを導く番たちも、終わりの地を探す者も、今や彼女たちの一部だった。憂うべき未来はなく、過去の清算としての今だけが残されている。原始的な生活の在り方は、長旅の最中に〈史徒〉たちが教えてくれた。彼らは自らの培った文化を同胞と分かち合い、言葉とその奥に潜む信仰ぶんみゃくによって互いを助けた。苓濘と苳河がそうであったように。

 苓濘の肉体は天命を悟ったように、次第に機能を失っていく。歩くことが難しくなり、筋力が衰え、臥せりがちになって──それでも、彼女が微笑みを絶やすことはなかった。安心しきり、穏やかなまま。

「また、迎えにきてね」

「何度でも」

 そんなやりとりをした翌朝、眠るように息を引き取っていた。肥沃の季節を過ぎた空に、初雪が散る。この世の終わりのように、静かな朝だった。

「おはよう、苓濘」

 苳河は半日ほど、繋いだ手を離さないまま、髪を梳っては、小さく歌を囁いていた。「あなたはどこへ行くの? そこが本当の故郷なのかも」霜枯の後には萌芽の季節。三度の天命チャンスを使い切り、その後人はどこへゆく? 苳河は考え続けてきたが、あるいはそれすら巡るのやもと、冷え切った亡骸の頬を撫でた。

 舞い込んできた雪が目元に落ちる。拭った時には滴となっていたけれど、それは少し、温かかった。


 すべての記述を終えた苳河も、苓濘を埋葬したのち、帰郷を果たした。二十年の歳月は短いように感じていたが、東地第六蜂櫛に苳河を知る人は少なくなっていた。〈記述師〉としての彼女に頭を垂れていたであろう人々も、忘れているようだった。それは一抹の郷愁を運びはしたが、苳河にはもう、どうでも良いことだった。

 塔書庫は変わることなく屹立し、大地と天を繋いでいた。閉ざされた門を前に立ち止まり、しばし見上げて佇んだ。すると、どこからともなく声がして、周囲を見渡し、気づく。「師匠せんせい!」それは紛れもなく、古い弟子の声をしていた。

「ただいま、莩滄」

 幼さの消えた顔には、怒りや喜び、悲しみまでもが次々に浮かんでは消えていった。逡巡と葛藤、沈黙の最後に、彼女は言葉を決めたようだった。

「遅過ぎです」

 お帰りなさい、と苳河を抱くと、声を殺して、泣いた。

「あれから、葟澪こうれいさんが指揮をとって、後進も育ててくださいました。もう引退されましたけど、師匠せんせいのこと、すごく怒ってました。今でも時々、言うくらいには」

 萃漣は、と訊ねると、最近はずっと横になっていると莩滄は言った。案内された先で、年老いた師は身動ぎもせずに、じっと窓の外を眺めていた。近寄ると、目が合った。罪に苦しみ、疲弊し果てた目をしていた。

 苳河は多くを語りはしなかった。ただ一言、

「すべて、終わったことです」

 ──ああ、そうか。……終わったのか。

 そうか、と萃漣は幾度か零し「ようやくか」と微笑した。それ以上、話をすることはなかった。すべて終わったことだ。最後に残るのは、言葉だけでいい。

 塔書庫の内部は、隅に置かれた炉でわずかに暖められていた。窓からは深々と降り積む雪が覗き、灰色の光が淡く差し込んでいる。苳河はゆっくりと歩きながら、復元され壁に収められた書物や、棚に並ぶ記録体に指を這わせた。

 塔書庫に置かれた彩鏡を開く。過去の履歴を遡ると、昔書き付けた記録が残っていた。「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた……。始まりはそのように、ふたりの少女の離別までをごく短く記している。苳河はふと、きっかけの記録体のことを思い出し、古い記憶を頼りに塔書庫の中から探り当てた。彩鏡に繋ぎ、再生しようとして……やめた。天命を数えること。それは馬鹿げた戯言に過ぎない。

 代わりとばかりに炉に投げ入れ、開いたままの記録の最後を見た。

 言葉が残ればいい、と苓濘は言った。

「だから私は、言葉だけを残そうと思う」

 苳河は二十年分の記録を彩鏡に入れ、記録体は塔書庫の最も高い棚にしまった。人が忘れても、塔は憶えている。それならきっと、彼女の場所は天に近いところが望ましい。

 夜になると雪は止み、雲は払われ星が覗いた。苳河は鍵の開いた外階段を夜風を嗅ぎながら上っていった。色褪せた黄金に絡みつく這鱗しゃりんの肋に足をかけ、遠ざかる大地を置いて星を追う。旋律はなく、万象は森閑と口を噤んでいる。衰えた肉体で歩みながら思い出す。何もかもが美しかった昔日を。あらゆる色彩が鮮明に映り、理解と思慕に満たされていた日を。課された使命を終え、ふたりで過ごした愛おしい時間を。

「苓濘」

 知らず呟く声はどこにも届くことがない。苓濘、苓濘。しかしそれは愛すべき音だった。何よりも強く胸に抱き、生涯を燃やして灰燼に帰してなお、決して離すまいと決めた響きだった。

 重い脚を引きずり、一段一段と踏み締めていく。そして、開けた塔の頂で、苳河は聞いた。


 熾火うずめる灰の跡

 朝は幻 夜は暗がり

 ついいななも枯れる

 三度みたびの夢に返り咲く

 果香璃かかりの花を摘み紡ぐのは

 そそ生命いのちの残り火と知れ


 天を道と言祝ぐのなら

 流るる雨も大河となろう

 宿命さだめは塔に 崩れぬように

 巡る萌芽は四を数える


 それが誰の声であったか、苳河にはわからなかった。けれど、そんな幻が何よりの救いであると、彼女はもう理解している。苳河はいつかのように腰を下ろして、思うままに歌を聞いた。それから自分も口ずさみ、重なり合う天命の調和を、飽きもせずに味わい続けた。

「私も、一度きりでじゅうぶんかな」

 月光に照らされた黄金が、塔の先で煌めいた。

 歌はいつしか止んでいた。最後には、歌の残響と言葉だけが、尽きることなく残っていた。

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塔歌天命 伊島糸雨 @shiu_itoh

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