第2話 大垣渉の違和感

 大垣渉は隣に座る友人の様子をチラリと伺った。

 穏やかな笑顔を浮かべる青年は、二月の国際ピアノコンクール以降、一夜にして時の人となった。

 酷い話ではあるが、一年前の今頃は、幸貴の挑戦を気に留める人間はいなかった。

 幸貴を応援していたのは、彼が師事していた講師と友人数名程度で、クラスメイトはもちろん、情宣のメンバーですら記念エントリーだと思っていたぐらいなのだ。

 争い事を好まず、自己主張も控えめなイジられキャラ、と言うのが一般的に浸透している幸貴の印象だったので、彼の本質を知らない人間にとっては無理もない。

 残念ながら本選出場には届かなかったが、幸貴が与えた衝撃は計り知れない。

 それなのに、渉の目に映る幸貴は驚くほどに素のままだった。否、素のままと言ってしまうには語弊がある。それ以前の問題だ。

 幸貴は覇気を失った抜け殻そのものだった。

 最初は大きな挑戦が終わったことで、蓄積された疲労が出てたのだうと、静かに見守っていた。しかし、待てど暮らせど、コンクールから3ヶ月が経過した現在も一向に回復の兆しは見られないままだった。

 ソリストを養成するデュプロ科の教授に勧誘された時も、見知らぬ後輩から握手をしてくださいと声をかけられた時も、まるで他人事のように「自分はそんな人間じゃないから」と言って人を避けてしまうのだ。

「何かあった?」

 渉が訊ねると幸貴はえ?と首を傾げて視線を上げた。

「いや、元気ないから」

「あー…、いや、まぁ……」

 どうにもこうにも歯切れが悪い。

 先程まで、倉庫整理に辟易している後輩たちを励ましていたのに、ちょっと力を抜いた途端これだ。

 脇が甘いなぁ、と渉は思う。

 構って欲しくないなら、もっとしっかり平静を装ってくれないと。

「実家?」

「今朝、母親から電話があって……」

「何か言われた?」

「ううん。いつも通りだよ。良くも悪くも」

 二年前、ドイツ語の講義を通して2人は知り合った。

 専攻する学科は違ったが、都内の出身という事もあって話をするようになった。地元に帰省した時も顔を合わせるようになり、今では良き友人として付き合いを続けている。

 幸貴は幼稚園と学習塾を経営する西村家の長子だ。一族経営の家業はテレビ取材を受けるほど人気が高く、同郷の渉もその噂は耳にしたことがあった。

「結局、転科の話もできなかった」

 奨学金を貰うこともなく、バイトをするでもなく、それでいて一人暮らしを許されている幸貴は、庶民の渉から見ると随分恵まれた環境にいるように見えるが、金持ちには金持ちなりの事情があるのだろう。

 お前が本気でやりたいなら家なんて関係ないだろう!?などと青春論や夢物語をけしかけるのも違うような気がして、渉は何と声をかければ良いのか分からなかった。

「お前はどうしたいの?」

 結局はそこなのだが。

「何かよく分からなくなってきて……」

「何が?」

「何もかも」

 これだけの賞賛を受けても尚、幸貴の自信には繋がっていない。ピアノ奏者は完璧主義が多いと聞くが、まさか、入賞しなければ意味がないなどとは思ってはいないだろう。

 幸貴はこれからの男だ。今まさにスタートラインに立ったばかりではないか。

「まぁ、そんな時もあるさ。気晴らしにパーっと遊んでみたら?」

「そうねぇ……」

 まんざらでもなさそうに頷く幸貴に、渉は悪戯っぽく目を細めて、耳打ちした。

「女子を誘ってドライブとか」

 渉の囁きに幸貴は脱力したように笑った。

 平々凡々な顔立ちではあるが、笑うと目尻に皺ができて、より一層柔らかい雰囲気になる。ピアノ一本でやってきて、恋愛経験がないと恥ずかしそうに告白してくれた幸貴だが、注目を浴びている今こそ、彼女を作るチャンスである。

「いやいや」

「謙遜してる場合じゃないだろ」

「うー…、まぁ、考えとくよ」

「お前さぁ……」

 どこまで奥手なのか。

 ピアノの事といい、彼女の事といい、全てにおいて煮え切らない幸貴に、渉はもどかしさを感じる。挑戦する前から諦めていたのでは、始まるものも始まらない。

 渉は大きくため息を吐いて姿勢を正した。

 謙虚なのは結構だか、自己評価が低すぎるのは大問題だ。

 幸貴に気持ちを寄せている女の子だっているだろうに、当の本人がアンテナを張ろうとしないなんて。

 勿体無い。

 そんな言葉が口から溢れそうになって、渉がふと視線を上げると、買い出しから戻ってきたメンバーが袋の中身を取り出していた。

 我先にと皆、思い思いの飲み物を手に取り、影になった地面に腰を下ろしている。

 と、その集団の中から1人の女性が飲み物を持ってこちらへ近づいて来た。

「先輩たちもどうぞ」

 胸まであるストレートの髪を一つに束ね、白いTシャツとジーンズという格好で現れたのは、浜田典子だった。

 前髪を小さな花の飾りが付いたピンで留め、薄らと化粧をした彼女は、2人より一つ年下の演奏科の学生だった。

 幸貴と同じピアノ専攻で、昨年はほとんどサークルに来なかったが、顔を出す時は手作りのお菓子を持ってきてくれたりと、細やかな気遣いができる女性だった。

 離れた場所にいる2人にも気づいて、こうして飲み物を運んでくれる。

「西村先輩はコーヒーですよね?」

 浜田はそう言って、コンビニのブラックコーヒーを差し出した。

 他のメンバーがペットボトルを煽っている中で、ガラガラと氷が音を立てるこのコーヒーはどこからどう見ても別格である。確かに、幸貴はいつもこのコーヒーを飲んでいる。コンビニに行けば、冬でもアイスコーヒーを注文するぐらい気に入ってはいるが、サークルの買い出しにまで注文するようなことはない。

 つまりは、浜田が気を利かせて幸貴のために買ってきたと言うことだ。

「あ……、ありがとう」

 戸惑いながらも、幸貴は笑顔でそれを受け取った。

「2人で楽しそうに何のお話してたんですか?」

 浜田も幸貴と同じカップを持っていた――こちらはカフェオレではあったが――赤いリップがツヤツヤと光唇でストローを咥え、愛らしい仕草で首を傾げる。

「いやね、西村に気晴らししたらどうかって」

「気晴らし?何かあったんですか?」

「いや。コンクール終わったし、息抜きしたらどうかって、大垣が」

 浜田の追求をかわして、幸貴は一口コーヒーを飲んだ。

「うん。美味しい」

 そう言うと、浜田はパッと頬を染め、

「ここ暑いから、あっちに来たらどうですか?」

 今にも幸貴の袖を引っ張って行きそうな様子で倉庫の方を指差した。

「後でね」

 ヒラヒラと手を振る幸貴に、浜田は最上級の笑顔で頷き、再び倉庫前へと行ってしまった。

「浜田はどうなん?」

「何が?」

「いや、だってあの子、お前狙いじゃん」

 今年の新歓コンパでは、幸貴に猛烈アタックをしかけていた。周りの人間の冷やかしにも動じることはなく、それどころか『西村先輩のことが好きです』と宣言してしまったのだ。

 見た目の地味さからは想像できない肉食ぶりに、皆驚きを隠せなかったが、それが毎度毎度のことになると、一種の恒例行事となり、今や暗黙の了解となってしまった。

 渉はグイグイくるあの感じに、若干の恐怖を抱いてしまったが、一途で健気な姿を可愛いと思う男は多いだろう。第一、好きと言われて悪い気はしないはずだし、幸貴のような奥手の人間にはあれぐらい自己主張が強い子の方が案外上手くいくかもしれない。

「誘ってみれば?」

「ははは」

 幸貴は乾笑いで応じ、またコーヒーを一口飲んだ。しかし、それ以上は口をつけず、ストローでカップの中の氷を混ぜて遊んでいる。

「俺のことより、大垣はどうなの?」

「何が?」

「彼女。地元にいるって言ってたじゃん」

「絶賛倦怠期」

「あれ?そうなの?」

「やっぱり遠恋難しいわ。すれ違ってばかりでなかなか会えないし。同じ高校だったから余計にさ。待ち合わせしなくても会える環境って本当、貴重だよ」

「確かにそうかも」

 妙に納得した様子で頷く幸貴を見て、渉は微かな違和感を覚えた。

 幸貴に彼女が出来たという話は聞かない。一年の頃は講義の多さと、サークル活動で忙殺され、昨年はコンクール一色だった幸貴にそんな時間はなかったはずだ。

 でも、実はもう付き合っている彼女がいて、消極的に見えた幸貴の態度も、本命がいるからこその余裕なのでは?

 彼女がいる、いないを逐一渉に報告する義務もないわけだし、この手のイジリは特別苦手な幸貴が秘密にしておきたい気持ちもわかる。

 しかし、しかし、である。

 老婆心ながら、幸貴が少しでも楽しい大学生活が送れるよう、あれこれ提案している身としては、いるならいると教えてくれてもいいじゃないか、と恨めしい気持ちにもなる。

「西村……」

「先輩」

 渉が声をかけようとしたタイミングで、別の場所から声が掛かった。

「ポテチ食べます?」

 高槻創平は持ってきた赤いパッケージをバリバリと開封し、2人に向けた。カラリと揚がったジャガイモの匂いがジットリとした空気に混じって2人の鼻を掠める。

「サンキュー」

 渉と幸貴はそれぞれにポテトを摘んで口に運ぶ。

「あの、お化け屋敷の道具ってどうにかならないんですかね?」

 創平は地面にペッタリと胡座をかいて、自らもお菓子に手を伸ばした。

 タオルを帽子代わりに頭に巻いて、こちらはジャージ姿での参戦である。

「あれな。企画の荷物なんだよなぁ……」

 渉の言葉に、幸貴も頷く。

「去年も片付けろって言ったけど、全然ダメだったんだよ」

「マネキンの首が床に転がってるなんて、完全にホラーじゃないですか」

 杜撰な企画パートの片付けに憤慨しながらポテチを食べた後、創平は持参したジンジャーエールのボトルを手に取った。

 そのまま、開封するのかと思いきや、幸貴の方をチラっと見て、

「飲みます?」

 そう言った。

 黒曜石のような瞳が遠慮がちに、幸貴を見ている。

 いつものコーヒーを手にしている幸貴の何を見て、創平がそんな行動をとったのかは分からない。

 しかし、渉は昨年この黒曜石の男が、コンクールに挑戦する幸貴を献身的にサポートする姿を目の当たりにしていた。

 創平は短大の調律科に通う後輩だ。先程の浜田典子と同じ年だが、童顔なので高校生にしか見えない。それでいてどんな飲み会でも酔った姿を見た事がない、という根っからの酒豪だった。

 創平を幸貴に引き合わせたのは渉だった。

 幸貴がコンクールの審査のための動画撮影に難儀していたので、調律科に在籍中と言う理由だけで創平に声をかけた。

 しっかりしていて責任感も強そうな見た目通り、創平は自発的に色々と調べて幸貴をサポートしていた。

 審査の手続きが終わってからも、2人の交流は続き、渉も幸貴が住むマンションで創平が作ったご飯を食べたことが何度もあった。

 高槻創平は、幸貴の活躍に貢献した影の功労者なのだ。

「いいの?」

「どうぞ。先輩、疲れてるみたいだし」

 通常であれば、幸貴は炭酸飲料は飲まない。ファストフードを食べる時も、大抵コーヒーか、お茶を注文する。

 ただ、ごく稀にではあるが、例外がないわけでもない。

 疲れがピークに達すると炭酸飲料を……ジンジャーエールがあればまず、それを注文する。というのは、渉も最近気づいたことなのだが。

 一年近く世話をしてきただけあって、さすがに創平は幸貴のことをよく理解している。

 幸貴は、社交辞令ではない笑顔でジンジャーエールに手を伸ばした。

「そっち引き受けますよ」

 そして、創平は当然のようにコーヒーを受け取った。

 いや。それはマズいだろ。

 渉が静止するより早く、創平は何の躊躇いもなくストローを口にした。コップの回し飲みならいざ知らず、渉ですらも若干の抵抗を覚える行為だが。

 まぁ、男同士だし……気にしないっちゃ気にしないか……な?

「苦っ……」

「いや、それがいいんだって」

 顔を顰める創平に、幸貴はクスクス笑ってジンジャーエールのキャップを捻る。プシュっという爽快な音に続いて甘い香りが漂ってくる。そして心底美味しそうに、一気に三分の一を飲み干した。

 いやいやいやいや。それもマズいだろ。

 案の定、あちらの集団にいた浜田がこちらの様子を伺っていた。

 浜田は、わざわざ幸貴のためにコーヒーを買ってきたのだ。そんな気分ではなかったにせよ、ここは浜田の気持ちを尊重してやるべきだ。

「そうだ創平。今度の日曜日、ドライブしない?」

 いやいや。だからそうじゃなくて……。

 誘う相手が違うだろ。断言してもいいが、浜田に関しては断られることのない安牌だ。

「あ、でも俺その日……」

「昼までバイトだよね?いいよ。レンタカー借りてそのままピックするから」

 そっか……昼までバイトなのか……。

 それにしても、よく他人のバイトのスケジュールまで覚えていられるよなぁ……。

「じゃ、帰りは俺が運転しますね」

「えっ!?いいよ。創平の運転、怖くて余計に疲れるから」

 ジンジャーエールがきいたのか、気づけばいつもの幸貴に戻っている。

 軽口を叩いた幸貴の背中を、真っ赤になった創平がどついているが、渉にはカップルがイチャついているようにしか見えなかった。

 おーい。浜田がずっとこっち見てるぞ。

「だったら尚更、練習しなきゃならないでしょ。丁度いいから先輩付き合って下さいよ」

「それ、ドライブって言わないだろ」

 だから、浜田が険しい顔してるんだって……

「狭い道で離合するとか、そういうのがない限りは大丈夫ですよ」

 リゴー?

「リゴーって何?」

 浜田の様子は気になるものの、聞きなれない言葉に、渉は思わず反応してしまった。

「車と車がすれ違うことですよ。え?知らないんですか?」

 見開いた黒い瞳が信じられない、と渉に語りかけてくる。

「知らないって言うか、すれ違うのはすれ違うじゃん。そんなの初めて聞いたよ」

「え?え?嘘でしょ?これ標準語じゃないんですか?」

 創平は真っ赤になって、首を振る2人を代わるがわる見る。

「おーい。お前ら。リゴーって知ってる?」

 渉はここぞとばかりに腰を上げて倉庫前のメンバーに合流する。

「えー、何すか、それ?」

「コピー機のメーカー?」

「違う違う。高槻がさぁ……」

「ちょっと、大垣先輩やめてくださいよ!」

 浜田より、創平の方がよほど恋人らしい、なんて思ってしまった。

 渉は心の中で反省する。

 そんなこと、ある訳ないのに。

 しょうもないことを考えてしまうのも、友人たちのやり取りが意味深に見えてしまったのも、きっとこの異常な暑さのせいだ。

 そうに決まっている。


(完)






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タンサンワオン 畔戸ウサ @usakuroto

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