タンサンワオン

畔戸ウサ

第1話 西村幸貴の苦悩

 今日は、梅雨の晴れ間となりました。全国各地で30度を超える真夏日となり…

 まだ午後3時前だというのに、夕方のニュースの内容が想像できそうな暑さだった。

 梅雨時期のどんよりした空気は、地面から立ち上る水蒸気も相まって、殊更重く、息苦しさを感じるほどだ。

 西村幸貴は胸の辺りのシャツを摘んで、バタバタと仰いだ。大きく波打つシャツの襟元から清涼な空気が入ってきたのは一瞬で、動きを止めればまたじとりと汗が浮いてくる。

 湿度を目一杯含んだ空気よりも、更に重たいため息をひとつ。

 今朝、実家からかかってきた電話を思い出す。

 荷物を送ったという事務連絡に、それとなくこちらの動向を探るような質問を織り交ぜてくるやり方もいつもと変わらない。

 当たり障りのない会話で電話を切ったが、そろそろ真面目に将来のことを考えろとでも言いたかったのだろう。

 結局のところ両親にとって幸貴の大学進学はは、息子の道楽に付き合っているだけの無駄な時間に他ならないのだ。


 幸貴は都内で学習塾を経営する父と、音大出の母の間に生まれた。母の影響で幼少期よりピアノを始め、子ども向けのコンクールでは何度も入賞を果たした。週一で通っていた近所の音楽教室の勧めで個人レッスンを受けるようになり、幸貴はますますピアノにのめり込んでいったが、今日に至るまで、父の苦言は続いている。

 男は稼ぎ、女は家庭を守るもの。

 一人っ子である幸貴は当然に家業を継ぐ。

 封建的な考え方が色濃く残る西村家で、父の言葉は絶対だった。そして、幸貴をピアノに導いたはずの母も、音楽の道で生きていけとは言わなかった。

 高校時代は進路のことで散々揉め、教員免許を取ることを条件に幸貴は音大への進学を許された。


 進学を機に親元を離れ、一人暮らしを始めた幸貴は慣れない生活に苦労しながらも、貴重な経験を積み重ねた。

 同じ道を目指す友人、刺激的な講師の言葉、サークル加入、そして初めてできた恋人の存在。

 満を持して挑んだ今年2月の国際ピアノコンクール。結果は三次審査敗退。

 本選には一歩及ばなかったが、もう何年もこの音大でここまで結果を残せた学生はいなかった。

 胸を張れる結果だった。サポートしてくれた音大の講師も、幸貴の努力を労い、これからがスタートだと声をかけてくれた。

 それなのに…

 何かがポキリと折れてしまったまま、幸貴は未だにピアノに向かえずにいる。

 ファイナリストは5人。日本人からは1人。幸貴と同い年の女性だった。

 気持ちを切り替えなければいけないと思うのに、一位を獲得した彼女の演奏が頭の中に響いて消すことが出来ないままでいる。


「お疲れ」

 声をかけられて顔を上げると、そこには友人の姿があった。

「やっぱり、顔出すとこうなるよな……」

 大垣渉は額の汗を拭いながら幸貴の隣に腰を下ろした。恨みがましい言葉とは裏腹に、汗だくで笑う横顔にはどことなく爽快感が漂っているようにも見える。

「最初から手伝うつもりだったんじゃないの?」

「そりゃまぁ、そのつもりだったかも知らんけど……この天気よ。マジミスった」

「あはは。情宣じょうせんらしいと言えばらしいけど……」

 学園祭実行委員の中でも、キツイ、汚い、危険の3Kを兼ねそろえた情報宣伝パート—情宣—は、情報宣伝とは名ばかりの看板制作パートだった。

 学園祭期間中、正門前に飾られる6メーター四方の看板を作るのが主な仕事で、彼らのホームグラウンドは、校内の隅っこにある倉庫及び、倉庫前のスペースであった。

 楽器奏者にとっては鬼門であるこのパートに幸貴が参加したのは、大垣の影響と、サークル勧誘をしていた先輩たちの土下座も辞さない迫力と執念に根負けしたからであった。

 手を怪我するような作業は出来ない事を約束した上で、サークル加入を決めた幸貴だったが、それでも先輩たちは歓迎してくれて、約束が破られることもなかった。

 とは言え、空調の効いた室内での作業が大半の他パートに比べ、情宣の人気がすこぶる悪いのは事実だった…否、それはもはや伝統と言っても良いレベルの万年人手不足なのである。

 新歓コンパ以降、この棚卸しを経験することで数人が抜け、夏季休暇中作業が本格化してから幽霊部員になるメンバーが数名、結果、実働部員は10人を切ることになり、学園祭前はどうしても作業がひっ迫することになるのだ。

 幸貴と大垣は昨年情宣を卒業し、今はOBという立場であったが、とにかく一人でも多く残って貰えるようにという気持ちに変わりはない。昨年、パート長を務めた大垣にとっては尚更だろう。

「でも、去年よりは人いるよね?」

 倉庫前の日影で涼む後輩たちを眺めながら幸貴が言う。

「西村の宣伝効果だろ」

「まさか」

 たったあれぐらいで……。

 そう思ってしまった直後、幸貴の胸にヒヤリとした物が流れた。

 たった?たったあれぐらい?

 そんな中途半端な努力ではなかったはずだ。

 最後の舞台は逃したものの、その一歩手前まで進むことが出来たのだ。

 どうしてこんなに自信が持てないのか…

 答えはわかっている。

 彼女の演奏を聴いてしまったからだ。

 それは、幸貴が求めていた演奏そのものだった。幸貴がやりたかったことを、彼女は完璧に、あの大舞台で披露してみせた。

 どうして彼女なのか。

 自分の努力は間違っていたのだろうか。

 彼女に対する猛烈な嫉妬と同時に幸貴は、先の見えない絶望を感じていた。

 あの時、母の心の声が聞こえたような気がしたのだ。

『ね?幸貴にもわかったでしょう?』

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