第8話 大団円
最近、運命というものと、何かの超常現象を一緒にして考えるようなくせがついた気がする。
いくら趣味とはいえ、小説などを書いていると、
「視界がどんどん狭まってきているような気がする」
と感じるのだ。
というのは、小説を書いている時というのは、集中というのが、不可避である。
気が散ってしまうと、そこで手が止まってしまって、手が止まると、そこで一度思考が切れてしまう。だから、書き始めると、一気に書いてしまわないと、そこで先に進まないという意識が出てしまい、逆にいえば、
「書き続けさえできれば、少なくとも、その時に書こうと思っている範囲までは、一気に書くことができる」
つまりは、時間に対しての書く量というものが、計算できるのである。
他の人はそんなことまで考えていないだろう。
時間を決めて、一時間なら一時間集中していく中で、どれだけの範囲書けるか? ということであったり、大体の量を決めて、
「原稿用紙十枚なら十枚書くまでが一区切り」
という感じである。
後者であえば、やはり集中できないと目標には達しないが、前者であれば、逆に、目標には達するが、自分の満足のいくものは書けないということになり、不完全燃焼が、意識をストレスに変えてしまうことになる、
それを思うと、小説を書いている意味がなくなってきそうで、あくまでも、目標の積み重ねが、最後には一つの作品としての完成を見ることになるのだ。
そこにもちろん、達成感というものがついてきて、それを味わいたいがために、しっぴいつをしているのだった。
達成感が、自己満足であっても、全然いいと思っている。
別に、出版するわけでもない。編集者が絡んでくるわけでもないし、ましてや、お金を取るわけでもない。
それだけに達成感を得るための最大の目標が、作品の完成であり、完成したものが、すべてだといってもいいだろう。
「これこそ、自分にとっての一期一会だと言えないだろうか?」
何も、人との出会いだけが、一期一会というものではないはずだ。
小説を書くということが、一期一会であってもいいのではないだろうか?
「じゃあ、この場合の一期一会というのはどこに当たるのだろう?」
最初の書き始めになるのか、それとも、完成し、大仏でいえば、開眼のところになるというのか、それとも、作者の中で、作品の構図が意識できた瞬間をいうのか、この場合は作者以外の誰にも感じることのないもので、その方が、
「一期一会にふさわしい」
と言えるのではないかと思うのだ。
ということは、
「完成した時というよりも、構図が自分の中で見えた時が、すべての始まりとしての、一期一会だ」
と考えていいのかも知れない。
そうなると、一期一会は、作品の数だけあるということになり、その数h莫大なものになるのだが、それでいいのだろうか?
小説を書き始めて、約二十年という歳月。いや、それはあくまでも、データとして残し始めてだということだ。
本当に最初に書けるようになった時の頃を思い出すと、
「俺ってひょっとすると天才ではないか?」
という錯覚を起こすほどの歓喜が自分を包んだ。
小説家だって夢ではないと思いもした。
それだけ、小説を最後まで書き上げるということが、どれほど難しいかということを身に染みて分かったのだ。
最初の頃は、何をやっても書き上げることはできなかった。
「本当にこんなことをしていて書き上げることができるんだろうか?」
と、絶えず考えていた。
作品を曲がりなりにも書き上げることができるようになるまで、敢えて、ハウツー本は見なかった。
「一つの作品を最後まで書き上げることができたところがスタートラインなんだ」
と思っていたからだった。
だが、さすがに書き上げることができた時、気分的に、かなり舞い上がったものだ。
「小説家だって夢ではない」
と思うと、自分が、有名小説家になって、書いている後ろで編集者の人が、見張っていて、
「先生、今日が締め切りですよ」
と分かり切ったことを言われて、
「ああ、分かっているよ」
と言いながら、そんなに後ろから見られていても、集中できるくらいにならないと、プロの小説家などになれるわけはないのだ。
ここまでは、あくまでも、
「プロになるため」
というステップでしかないのだ。
「プロとして、書き続けることができるには」
ということであれば、果たしてどこまでが、段階を追うことになるのかということを次第に感じられるようになるのだろう。
実はこの間の結界が一番超えるには難しい結界なのかも知れない。
新人賞を受賞して、プロへの登竜門を突破してから、次回作を書こうとしても、
「新人賞作品よりもすごい作品が書ける自信が自分にはない」
と思っている人も少なくはない。
何しろ、
「小説家になりたい」
という目標のステップとして、
「新人賞入選」
が一つの目標だったくせに、
「新人賞を取ってしまうと、そこで気が抜けてしまうというか、賢者モードになってしまう場合が多いのではないか?」
ということである。
そもそも賢者モードというと、
「男性が、ため込んだ性欲を果てさせた時に、陥る感覚を賢者モードというのだが、それは、貯めたものを一気に放出するという意味で、集中を重ねて書き上げたものも、一種の男性による性欲の放出と似ているのではないか」
やり遂げたという感覚が、それ以上ないという達成感がそおまま脱力感に代わり、下手をすれば、憔悴してしまうというものである。
そんな、
「賢者モード」
に作家というのは、往々にして陥ることが多いようで、プロの作家の先生でも、作品を書き上げて、その作品を世間は、
「素晴らしい作品だ」
と言って評価してくれたが、作者本人は、そんな感覚はなく、まわりから、
「素晴らしい」
という称賛を受けるたびに、賢者モードが深まっていって、抜けることができなくなってしまうと、鬱状態に陥ってしまい、誰かと接触するのが、たまらなく嫌になるものだ。
それこそ、賢者モードにおいて、果ててしまった局部をいじられると、むず痒い気持ちになって、さらに、賢者モードが深まっていくというものである。
そんな状況を考えていると、
「賢者モードの中にある鬱状態というのは、まるでパンドラの匣のようなものではないか?」
と考えられるのだった。
パンドラの匣を開けると、そこには、ありとあらゆる不幸が飛び出してくる。
しかし、その底には、何かが残っているのだ。
それを希望や予見として解釈するとされているが、予見であれば、それは本当にいいことなのだろうか?
「知らぬが仏」
というではないか、結果として滅亡するということであれば、それを最初から分かっているというのは、この上もないプレッシャーで、抜けることができないと分かっているものを、必死になって抜けようとする、トンネルの中にいるも同然である。
また、陰と影などのような、同音異義語であっても、まったくの正反対でるがゆえに、昼と夜のように重なることのないものも、まるでクラゲの骨のように、非常に珍しく、あり得ないと思えるようなものを感じるというのは、偶然だと言い切れるのだろうか?
いろいろな話を書いてきて、一期一会というものを考えてみると。一期一会というものをどのタイミングで感じるのかということも大きな問題になるのではないだろうか。
賢者モードというものを、以前は、あまりいいものだとは思っていなかった。
絶頂を迎えたことで、最後に賢者モードになって、やつれたような気分になるのが、自分を鬱状態に落とし込むことではないかと思っていたが、果たしてそれだけのことであろうか?
賢者モードに陥るということは、我に返ることで、理性を思い出すということだ。絶頂を迎えるまでに訪れる快感は、まるで麻薬のような、覚醒効果をもたらすものだ。
果たして、それを悪いことだとは言えないだろう。
覚醒することで、何かを成し遂げるのであれば、それに越したことはない。しかし、その代償として襲ってくる。禁断症状は耐えがたいものがあるのだろう。
賢者モードも一種の禁断症状に近いものではないだろうか。
自分がどんな人を好きになるか。好きになった人に対してどのような態度を望むのか。想像は、妄想にしかならない。どんなに想像しても、自分の都合のいいようにしか考えられないようになるからだ。
賢者モードと、一期一会、まったく正反対のもののように思うのだが、人との最高の出会いがあったとしても、絶えず、絶頂気分でいられるわけはない。必ずどこかで、息を抜く瞬間が存在し、そこで、賢者モードが発生する。
その時、復活のタイミングを間違えると、鬱状態に入り込む。
何をやっても、、違和感しかなく、動くこと自体が、罪悪に感じられる。それが禁断症状時に起こる、賢者モードであろう、
禁断症状の時に、賢者モードになるというのは、ある意味矛盾した考えだ。
賢者モードになると脱力感しかなく、その時に、何をやっても虚しさしか残らないという鬱が襲ってくるのだ。そうなると、起こってくるのは、
「負のスパイラル」
普段のルーティンでさえ、気持ち悪いものになってくるのだ。
賢者モードがまさしくそういう状態なのだろうが、人との出会いを一期一会と考えた時、鬱状態をさらに深いところにいざなう状態は、賢者モードと一期一会さらに、鬱状態における。
「三すくみの状態」
に陥っているといってもいいのではないだろうか、
三すくみというのは、それぞれに利害関係があり、つまり、強、弱の関係がハッキリとしていて、その三つかけん制しあうことで、動きが取れない状態をいう。
膠着状態と言ってもいいのだろうが、完全なバランスによるものなので、どれかが崩れると、一瞬にして、勝負は決まってしまうのだ。
「自分にとっての、三すくみが何であるか?」
というと、
「人間関係だ」
とほとんどの人は思うだろう。
しかし、一人の人間の中にも三すくみは存在し、その均衡のおかげでできた膠着状態が、三すくみを作り出し、
「動いてはいけない」
という時に自重できる本能を促しているのかも知れない。
三すくみの話は作者も結構書いてきたが、いろいろ書いているうちに、
「何か究極的な結論のように思える」
という感覚に繋がってくる。
だから、三すくみの話がどうしても多くなってくる。
最初から、つまりはプロットの段階からという意味で、プロローグとしての三すくみであったり、書いていて、他の発想から生まれてくる三すくみであったりと、それぞれの発想が、小説に膨らみを持たせたりする。
だから、書いている最中に思い浮かぶことが多いのだ。
三すくみの発想は、躁鬱状態の発想から生まれてくるものもある。そういう意味で、作者の小説にもかなり躁鬱状態の話もあった。
「交わることのない平行線」
であったり、
「限りなくゼロに近いもの」
という発想が多いのも、どこか一つ根底に何かがあるからであろう。
その時には分かっているつもりでも、我に返ると忘れてしまう。それが自分の小説であり、
「いいたいことだ」
と言えるのではないだろうか。
作者はこれから、どのような発想が頭に浮かんできて、そして切れ目なく起こる発想で、どれだけの小説を書いていけるか楽しみである。
作者にとっての、一期一会は、作品との出会いであり、書き上げた時の達成感になるのだから……。
( 完 )
架空小説の一期一会 森本 晃次 @kakku
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