第7話 一期一会とは?
ちょうど、その街に転勤でやってきてから、数か月が過ぎようとしていた。大体の道や得意先への生き方など、配送助手としてトラックに便乗していれば、だいぶ覚えてきた。
最初は配送から、徐々に営業の仕事を覚え、何度も訪問するうちに、相手の担当に覚えてもらうというのが、当初の目的だった。ここ数か月で、何とか道を覚え、相手の担当者と、日常会話くらいができるところまでにはなっていた。
さすがに営業トークまではいかない。ここから先が難しいところであった。
そんな時、パートのおばさんたちの態度に何か露骨さが感じられると、取引先の営業にも、何かあざとさが感じれるのだった。
「何か嫌だな」
と思うと、自分が、まるで苦虫を噛み潰しているかのような表情になっているのではないかと思うのだった。
毎日を一生懸命に生きていると思っていると、営業の人のあざとさが、実に嫌なものに感じられる。
「自分もいずれは、そんな顔をしないといけないような人間になってしまうのだろうか?」
と考えると、
「こんな田舎でも、あざとさが見え隠れしているなんて、都会だったら、たまったものじゃないな。今では死後になった言葉だけど、昭和の時代には、コンクリートジャングルなんて言葉があったって聞いたけど、本当に、ジャングルにいるような感じなんだと思っていたっけ」
と感じたことを思い出した。
しかし、ここは田舎、もしジャングルがあるのだとすれば、それはコンクリートなどというものではなく、正真正銘の密林によるジャングルなのではないかと感じるのだ。
自分は、小学生の頃まで、この会社の本社がある都市の、ベッドタウンに住んでいた。子供の頃は、それでも、都会だと思っていたのだが、東京や大阪などの大都会に比べれば、まだまだ田舎である。
小学三年生になって、父親が転勤で大阪に転勤になった。最初は、
「単身赴任を」
と思っていたようだが、問題は一緒に住んでいた祖母が、
「この土地を離れたくない」
ということからだったのだが、その祖母を、義兄夫婦が、
「私たちが同居しましょう」
ということで、隣の市からの引っ越しだったので、問題は一気に解決した。
「じゃあ、私たちは家族で大阪に引っ越しますね」
ということでの引っ越しになったのだ。
家族のことはあまり好きではなかったが、
「違う土地にいけば、環境が変わっていいかも知れない」
と子供心に思った。
だが、それは甘かった。逆に都会人へのへりくだった感情と、自分が田舎育ちだから、バカにされているという被害妄想から、母親は意固地な性格になっていったのだ。
それでも、最初の意固地さは、その土地に慣れていなかったことから来たもので、よほどのことがない限り、慣れるだけであれば、誰にでもできそうだ思っていただけに、慣れてきた母親を見ても、
「当然のことなんだ」
としか思っていなかったのだ。
ただ、慣れたというだけで、溶け込んでいるようには見えなかった。表面上は、馴染めているように見えるが、自分の母親の性格くらいは分かるというもので、その時の母親の表情が、
「まるで苦虫を噛み潰したような表情」
だったのだ。
今の会社で苦虫を噛み潰したような表情をしたように感じたが、その時の自分と、以前の母親の顔から見て取れる感じは、同じものだといってもいいだろう。だが、片方が自分の目で見たものだが、もう一つは、自分の表情なので、その共通性が本当に分かるのだろうか。
大阪の小学校に転入した時は、結構苛められたような気がする。
「田舎者」
というレッテルを貼られていたような気がする、
その時のことを思い出してみると、
「俺は思ったよりも閉鎖的なところに来たって、感じたのだろうか?」
その時の気持ちを覚えているので、自分が都会から来た人間で、向こうが田舎の人間なのだから、前とは逆である。あの時はバカにされたが、今度は、おっぴらにバカにはしないが、閉鎖的な考えをすることで、
「都会者に、わしら田舎の人間のことが分かるわきゃあるまい」
とでも言わんばかりである。
都会と田舎のどちらに優位性があるかというのは、この場合は、その人たちの立場ではなく、その場所が問題なのだ。田舎者だろうが、都会者だろうが、田舎にいれば、都会者が、よそ者、逆であれば、田舎者がよそ者というわけだ。
それを、
「田舎者はバカにされて当然」
とばかりに、子供の頃の余計な記憶が邪魔をして、まさか、田舎者が都会の人間に対して優位性を持つなどとは思ってもいなかった。
だから最初に興味津々だったのも、まるで、戦争終了後、占領軍に対しての、子供たちが、
「ギブミーチョコレート」
と言っているのと同じ感覚だったのだ。
少し話は変わるが、なかなかモテない男がいて、その男がずっと童貞だということを危惧した先輩がいた。モテない男は女の子にモテないだけで、男性からは、不思議と慕われた。だから、先輩も彼には相談することもあったが、こと女性のこととなると完全に立場が逆転する、
「俺が、童貞を卒業させてやる」
と言って、風俗に連れて行ってくれた。
よくある、
「筆おろし」
というやつだ。
その男は、無事に筆おろしを済ませたが、その嬢のことを好きになってしまったようで、それから、あまり火を置かずに、彼女の元に通い続けた。
嬢の方は、まさかそこまでこの男性が思っているとは知らなかったので、上客だと思い、そのつもりで、愛嬌よく、奉仕の心で接客をした。
すると、さらに男は勘違いをする。そして、告白までしてしまったのだ。
「何言ってるの? 私はここで、あなたのお相手をしているだけなのよ」
というと、
「いや、いいんだ。君が僕のことを好きだということは分かっている」
と、完全に勘違いをしていると感じた彼女は困ってしまった。
「あのね。もしあなたがね、私以外の他の子に入ったら、ちょっと悔しいと思うわよ。でも、それは嫉妬ではなくって、客を取られたという仕事上の悔しさでしかないのよ。あなたは私が悔しがったら、嫉妬だと思うでしょうね。いい? これは恋愛じゃないのよ。疑似恋愛なの。そこには、お金というものが絡んでいて、一種の契約でしかないの。そんな割り切って仕事をしている私を、あなたは好きになれるというの?」
と聞かれて、
「ああ、僕は君が好きなんだ。君はどうして、自分の気持ちに気づかないのだろう?」
と、完全に勘違いと、さらに、上から目線であることに、まったく気づいていないことが、彼女には悲しかった。
相手が、この男だからというわけではない。上から目線で見られるのが、自分たちは一番いやだと思っているのだ。
彼女たちは、癒しを与えている、そして、それを喜んでくれることが、一番の喜びなんだと思っているのだ。
「私はね、あなたが、もし他の女の子に入ったからと言って、嫉妬するということは絶対にない。それは、今のあなたと同じだからね。嫉妬というのは、お互いに立場が同じだからできるものなのよ。夫婦だって、結婚してしまえば、それぞれの役割分担が違うというだけで、立場に差はないと思っているのよ。だから、恋愛期間中のカップルだってそう。そういう意味で、私は本気で嫉妬できる相手がほしいって思うようになったのよ。だって、嫉妬なんて、自分の弱い部分を相手に見せるわけでしょう? それでもいいと思っているんだから、同じ立場でないと、成立しないのよ。だから、少なくとも、ここのように、お姉が絡む関係というのは、絶対にお互い、同じ立場になるということはありえないと思うの」
と、彼女が言った。
男はここまで言われると、さすがに考え込んだ。本当はもっと何か言いたいはずなのに、何も頭に言葉が浮かんでこない。ここまでハッキリと言われてしまい、それに反論できない自分が情けなかった。ある意味、嫉妬に近いのかも知れない。彼女が自分の目に見えない誰かを好きでいて、そのことに嫉妬していると、思い込みたいのだ。
相手に嫉妬して、それが適わずに別れることになったとでも思わないと、自分が納得いく状態に持っていけないということなのだ。
だから、解決させるために、自分の分身を作り出し、そのもう一人の自分に、苦しんでいる自分を客観的に見させ、自分の気持ちの本質をえぐってもらおうと考えた。
ただ、これは結構難しいことではないだろうか。自分なんだから、自分を少しでも格好よく見せようとするものだろう。
それを考えると、それを見ているもうひとりの自分がいて、二人の状況を冷静に書記することで、議事をとりながら、自分の意見を勝手に書き足すくらいのことはできるような気がした。
「でも、他のお客さんは、皆どんな気持ちなんだろうか? 風俗に行く人って、少なからず、寂しさが根底にある人で、女の子に癒してもらいたいと思う人が通うものだとするならば、自分と一緒にいない時間を他の男性と同じようなことをしていると思うと、はらわたが煮えくり返りそうに思わないのかな?」
というが、
「そんな状況を想像できるかい?」
と聞かれて、
「いいや」
と答えるだろう。
「それは、自分で気持ちを否定したいという思いがあるからはないのかな? ということは、君は自分の中で、それが不毛な恋だということを分かっているつもりでいるから、自分を納得させたいのか、それとも状況をすべて理解したうえで、もう一度、状況を組み立てたいのかおどちらかだろうね。だけどねどちらにしても、問題は君自身が自分が恋をしているのかどうか、そこに迷いがあるということさ、きっと、次に我に返ると、下手をすると、すべてを忘れてしまっているのが、怖いんじゃないかな? それくらい君は自分で分かっているということを、自分で理解しているのさ」
と言われて考え込んでしまうのだ。
彼は続ける。
「何もそんなに堅苦しく考える必要はないのさ。疑似恋愛と言ったって、しょせんは遊びなのさ。もっと言えば、恋愛と呼ばれているものだって、一緒の遊びなのかも知れない。ゲーム感覚で恋愛する人だっているだろう? 案外そんな男の方がモテたりするんだよ。だって、飾ることなく、自分をさらけ出しているだろう? 女の子というのは、そういう飾らない男が好きだったりするものさ。勘違い男というのは、女の子にとっては、有難迷惑以外の何物でもないのさ、下手にストーカーにでもなられたら、たまったものじゃないからね、癒しを与えてあげたいと思っている相手から苦しめられるなんて、それこそ、本末転倒なことさ」
というではないか。
相談している方の自分は、自分からの、そんな冷静な意見を求めているわけではない。どちらかというと、
「自分なんだから、もっと自信が持てるような、背中を押してくれるような意見を言ってほしいんだ」
と考えている。
「そんなに俺から何か自信をつけさせてほしいのか?」
という。
さすが、もう一人の自分だけのことはある。何を考えているかお見通しというものだ。しかし、
「そんなことできるはずないじゃないか。俺はお前なんだ。お前が考えていることが、俺の限界なんだ。逆にお前の方が、俺にはない何かを持っているのさ。それが、可能性というものなんじゃないのかな?」
というではないか
さすがに、自分の理論的な思考を語らせれば、きっとこの自分しかいないだろう。
そう考えていくと、まるで夢を見ているかのようなこの感覚。このまま、もっと見続けていたいと思うのだが、夢というのは、そう思うと覚めるものだと相場が決まっている、考えてはいけないことだと思えば思うほど、考えないわけにはいかないようだ。
この場合も、田舎者と都会の人間との会話のように、それぞれの立場に優位性があるか? などということが問題ではない。自分たちが、どの土俵に立っているのかということが大切なのだ。。
今の状況であれば、女性の立場は、自分の中の狭いテリトリーにしかない。男性側の方が、たくさんの土台を持つことができる。
もちろん、女性も未来においてはそうなのだが、現時点では、
「客と嬢」
という関係に、お金が絡んでいる以上、女性側のテリトリーは狭い場所にしかないだろう。
しかし、余計に、女性の側が守られるべきにその居場所があるべきなのだ。本来なら、
「そこまで勘違いをする男を作ってしまうほど、彼女が癒しを与えているということなので、彼女が間違っているわけではない。すべてを分かっていて、それでも、自分の気持ちに正直になるのであれば、それも一つの道なのだろうが、どうも気持ちが中途半端にしか思えない。
相手のテリトリーが狭い範囲でしかいられないのであれば、男には、ニュートラルな部分がなく、そのテリトリーを一歩でも出れば、完全に未知の世界である。
まわりはおろか、本人にもどうなるか分からない。
「普段は冷静沈着な人間が、一歩自分のテリトリーの外に出れば、自分を抑えられなくなる」
というのを、聞いたことがあるだろう。
要するに、
「抑えが利かなくなる」
ということだ。
「何を言っても、言葉が届かない。まるで耳栓をつけているようなものではないか」
と考えてしまうと、一度外れたタガを、元に戻すのは至難の業ではないだろう。
だから、勘違い男は、ひょっとすると、途中から自分が、間違っているというのか、無理を押し通そうとしているということを分かっているのかも知れない。
しかし、分かっているだけに、ここまでくると抑えが利かなくなる。それは、
「ここまできたら、精神状態がおかしかったんだということで、病気を装って、ここを乗り切るしかない」
と思うだろう。
かなり無理はあるが、少なくとも彼女にだけは理解してもらえれば、それでいいとお者だが、彼女の方でも、ここで許してしまうと、また調子に乗って、今度は他の子にも同じようなことをしかねない」
ということになり、責任は自分にあるとして、ずっと、十字架を背負っていくようになるのではないかと感じるのだ。
十字架を背負うということは、自分の行動範囲も狭くなっているそのうえで、さらに十字架を背負うということであり、
「泣きっ面にハチ」
と言ってもいいだろう。
一度、道を踏み外すと、なかなか元の道に戻るには、かなりの覚悟と努力が必要なのだが、踏み外した部分をしっかり補強しておかなければ、また同じことを繰り返してしまうだろう。
そもそも、自分は、まわりの人に忖度はできるのだが、さらにそのまわりの人たち、自分とほとんど理解関係のない人間に対しては、ほぼ感情を持っていないといってもいい。
「どうせ、もう会うことなんかないんだ」
と思うと、
「何したっていいじゃないか」
と思うのだった。
ただ、そんな考えを持った時に限って、
「いつまたどこでその人に遭うか分からないんだから、中途半端なことをしてしまうと、ロクなことにならない」
と、まるでこちらの気持ちを見透かしたかのごとく、言われるのである。
「こいつは千里眼か?」
と思わず、口から出そうになったのをやっとの思いで抑えて、また考え込んだ。
「そんなことをいちいち考えていたら、ストレスがたまる一方じゃないか、ストレスを貯めて、身体を壊すくらいなら、相手にぶつけた方が、よほどいい」
と考えるのは、いけないことなのだろうか?
「ストレスを貯めないように」
というくせに、爆発もできないのであれば、どうすればいいというのか?
人間が、会いたくないと思っている人に再会する確率というのは、どれくらいのものなのだろう?
普通に考えれば、ほぼ確率的にはないものも同然であろう。
では逆に合いたいと思っている人と会える確率と比べるとどうなのだろう? 運命というもので考えると、会いたくない人に遭う方が確率的には多い気がする。それだけ、
「運命というのは、悪戯が好きなものだと思えるからだ」
問題の一つは、相手があることだから、こちらが遭いたいと思っている人の方が、どう思っているかである。
相思相愛であっても、お互いに連絡先を知らなければ、会える確率はほぼ、低いのではないだろうか。お互いに意識して探していれば別だが、相手の顔の記憶力にどれほどの信憑性があるかということも一つだが、記憶している顔が、
「自分に対しての感情」
による表情であれば、余計に分かりにくいのではないだろうか。
特にこちらに好意を持っていたのだとすれば、それだけ、一緒にいた時は、満面の笑みであったり、こちらを慕っているような表情で、だからこそ、相手を好きになったわけで、そんな最高の笑顔のまま、普通に歩いているということはありえないというものだ。
だから、きっと、あった時の笑顔からは、想像もできないほどの無表情であり、下手をすれば、一気に萎えてしまうような顔なのかも知れない。たとえ隣をすれ違ったとしても、二人とも分からないなどということは、往々にしてありえることである。
では、逆に合いたくない人との再会ではどうだろう? 意外とこっちが遭いたくないと思っている相手はこっちを探していることが多い。だから、隠れようとするからである。
相手に弱みを握られている。借金がある。相手に何か都合の悪いことをしてしまった。などという理由がいろいろ考えられるが、そんな時はまず間違いなく、相手は血眼でこっちを探していることだろう。
こちらが何かの事件の容疑者か何かになっていたとすれば、警察がその権力を使って、全力で探そうとするわけで、ほぼ逃げることはできないだろう。
普通に誰かを頼るなどできるはずがない。相当早い段階で、警察が目をつけて、見張っているはずだからである。
そんなところにノコノコ出ていくくらいなら、最初から隠れない方が、後々の心象はいいだろうからである。
とにかく、会いたくないと思っている相手は、ほぼ、こちらを探しているはずだ。
こちらが見つける前に相手がみつける。ただ、こちらも捕まりたくないから、追手には十分に気を付けるはずだ。相手と会いたくないという理由には、いろいろ考えられるが、逃げられない可能性の方がかなり高い。前述おように、立ち回り先にはすべて、相手の手が回っていると見ていいからである。
そうやって考えると、会いたいと思っている人と再会できる可能性と、会いたくないと思っている相手と出会ってしまう可能性は、限りなく、会いたくない相手の方が高いというのは、理論的にも、証明されているも同然であろう。
ただ、これはあくまでも、会いたくない相手が、必ずしも自分を探しているという場合である。
実際にはお互いに避けているだけの場合もあるだろう。
ただ、これも、可能性としてはかなり高いのではないだろうか?
お互いに遭いたくないと思ってそれぞれを避けているわけだから、それぞれに相対して負の要素を持っている。だから、限りなくゼロに近いところに結界があるとすれば、二人とも、負の方にいるわけである。
そうなると、かなり狭い範囲で相手を探しているわけなので、相手がこちらを見つけるのは時間の問題だといえるだろう。
遭いたい人とは、会える確率はほとんどないのに、会いたくない相手とは、こんなにも同じところをウロウロすることになるなど、本当に皮肉にできているものである。
「運命は悪戯好きだ」
と前述したが、この考えもまんざらでもないかも知れない。
運命というものを理論で考えようとすると、意外と、簡単に公式は解けるのだろうが、その中に、悪戯というものを、信じたくないという思いが強ければ、悪戯が悪戯ではなくなる。
悪戯と言う言葉でかたずけられる問題ではなくなるのだが、それを自分で求めたくないという思いから、
「運命の悪戯」
という言葉を、あたかも信じているような素振りを見せることは、ただのやせ我慢だと思ってもいいのだろうか?
「運命の出会いなど本当にあるのだろうか?」
と考える。
茶道の言葉で、
「茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する」
ということで、茶道に限らず、
「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という含意で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と言う言葉」
としてもちいられる言葉で、
「一期一会」
というものがある。
たった一度の機会だから大切にするということなのだろうが、本当に一生に一度だなどと思っている人は少ないだろう。
それはあくまでも、
「初めて会った時」
という意味で、とにかく最初というのは、何においても大切なことであり。
先述の、先駆者、パイオニアというのも、そういう意味では、この一期一会と言う言葉とも結びついてくると考えれば、他のいろいろなことも、この言葉を中心に考えれば、結びついてくることもあるのではないだろうか。
作者が以前に著した小説である、
「クラゲの骨」
というのもそういう意味であった。
珍しいことやあり得ない物事のたとえとしての、クラゲの骨という言葉、
「人の身には、命ほどの宝はなし。命あればクラゲの骨にも申すたとえの候なり(命があれば、クラゲの骨にも会うだろう)」
と言ったということもあるのである。
「だが、果たして、自分の中で、本当に一期一会を感じさせるような出会いを感じたことがあっただろうか?」
それは作者だけではなく、誰もが思うことであろう。
そもそも、
「一期一会というものは、その出会いの瞬間に感じるものなのだろうか?」
後になって、
「あの出会いが一期一会だったんだ」
と感じることが多いのだろうか?
そのあたりを分かっていないと、思い出そうとしても、その出会った瞬間のことを思い出せるものではない。
日ごろから、
「この出会いが一期一会なのかも知れない」
と思いながら人と会っていると、後で思い出せるものだとすれば、今までにあったかも知れ会い一期一会を見逃しているかも知れないと感じるのだ。
もう一つ考えるのは、
「一期一会というものは、本当に、最初の出会いだけものなのだろうか?」
というものである。
最初に出会った時はさほど相手おことを考えておらず、いや、むしろ、
「どうせ、もう二度と会うこともない相手なんだから」
と言って、最初の出会いを軽視していたが。その後何かの偶然で再会した時、
「運命なのか?」
と思ったその時が、その人にとっての一期一会なのではないかと言えないのだろうか?
あくまでも、本当の最初に出会った時しか一期一会としか言わないのだとすれば、
「本当に一期一会など、自分にあり得ることなのだろうか?」
と考える。
なぜなら、まず誰かと最初から、
「運命だ」
などと感じたことはなかった。
何度か出会っているうちに、やっとそこで運命を感じるのである。
そもそも、作者は、人の顔を覚えるのが、致命的に苦手だった。
だから、二度目の出会いも、気づかずに通り過ぎてしまうくらいで、相手から声を掛けられて、ハッとして気づくと、声を掛けられたことに喜びを感じ、それを運命だと感じることだろう。
そういう意味でも、運命と一期一会が同じ次元で考えられるものだとすれば、運命の中の最初の出会いだけだと考えてしまい、そうなると、
「やはり、本当の意味での一期一会など、自分にはなかった」
と考えないわけにはいかなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます