第6話 飽きるまで
同じものを飽きるまで続ける人間がいるが、読者諸君はどうであろうか? 先者としては、けっこう同じも尾をずっと続けることが多かったりするが、それも、時と場合によるのかも知れない。
例えば食べ物。
学生時代の学食で気に入ったメニューがあれば、ずっとそればかりを毎日、半年以上続けても別に嫌ではなかった。きっと自分にその味付けが完璧に合っていたのだろう。
しかし、人間には慣れというものがあり、どんなに好きにものであっても、食しているうちに、その味が舌に慣れてくる。
当然、人間には順応性というものがあり、そのものに慣れるために、食事であれば、嫌いなものは、なるべく食べやすく、好きなものは、さらにおいしく食べれるように、身体が慣れようとするであろう。
ただ、それ以上に贅沢にできているもので、一度食べた味は、次に食するもののために、無意識に覚えていた李するのだろう。そう思うと、次に食べた時、
「この味は、この間食したものだ」
と、身体も頭以上に納得するのだろう。
頭で考えている分には、それほど意識はないが、身体から味覚を通して繋がった意識の中で、
「同じ味であれば、少しは違いを感じたい」
と思うものなのか、必死に違いを探そうとするのかも知れない。
そうする時に、身体からの神経は、
「ああ、またこの味だ」
と考えるのであろう。
その時、違った味を身体が感じることができたのであれば、さらにおいしさが持続していて、
「次もまた食べたい」
と感じるに違いない。
人間には、順応性とともに、学習能力があり、学習能力によって、記憶された味覚が、順応性で、
「同じものを食べた時に、どのように感じるか?」
ということなので、ここから先は個人差が生じる。
この個人差の部分をいかに自分が順応させるかで、
「好きなものであれば、毎日でも続けられる、いや、続けたい」
と思うのか、それとも、
「毎日は続けたくない」
と思うのかということである。
これは、その人の性格というところが影響しているのかも知れない。
石橋を叩いて渡ったり、絶えず、目の前のことを、一歩泊って考えたりするような、
「堅実派」
と呼ばれるような人は、きっと、
「毎日同じものは続けない:
と思うだろう。
それは、気持ちの中では、
「今日も食べたいな」
と思うのかも知れないが、
「毎日のように続けて、二度と見たくなくなるほどにまでなりたくはない」
と思うのだ。
ただ、それを分かったうえで、
「それでも毎日食べたい。見るのも嫌になるなら、それでもいい」
と思うだろう。
その時は別のおいしいものを探せないいと感じることだろう。
だが、この感覚は、どこかで似たようなことを感じたような気がした。しかも、実に似た同じようなシチュエーションの場合にである。
それが何かということを考えると、それは、
「好きなものから先に食べるか、最後に残しておくか?」
という感覚である。この場合は、石橋を叩いて渡る性格であれば、最後に残しておくのではないかと思い、逆であれば、先に好きなものを食べようと考えるおではないだろうか?
それを考えた時、
「自分なら、逆なのかも知れ会い」
と感じる作者であった。
作者としては、好きなものを最後にとっておくタイプである。ただ、理屈からいえば、逆のはずだと自分でも思うのだが、なぜ、このように思うのだろうか?
タイ焼きだってそうだ。最初に尻尾の方から食べる。それは、
「あんこの入ったおいしい部分である頭の部分を最後に食べたい」
という思いがあるからだった。
だが、本能的には、好きなものを最後に起こしたいと思うのだが、理屈から考えると、先においしいものを食べた方がいいような気がする、
なぜなら、一番おいしく食べられるはずの空腹時に、つまり最初においしいものを食べるのが一番いいと思うからだ。
しかし、それができないと思う一番の理由は、
「最初においしいものを食べてしまうと、そのあとは、一気に味が落ちるということを分かっているからだ」
ということであった。
最初にそれほど好きでもないところから食べた方が、味を漫勉なく味わえて、最後まで嫌な思いもなく食べることができるからだと思うからだ。
最初に最高のものを食べてしまうと、どんどんそこから味が落ちていく。そうなると、最後まで食べ続ける自信がないと思うのだ。
特に最初に一番おいしいところを食べてしまうと、そこで満足感に浸ってしまい、そこからは、惰性になってしまうのではないかと思うからだろう。
そう考えると、
「最後まで食べれなければ、どうしよう」
と考えるのだ。
「だったら、残せばいいじゃん」
と言われるだろう。
自分もそういわれて、
「確かにそうだ」
と感じるに違いないが、
「残したら、もったいない」
あるいは、
「残したら怒られる」
という、どちらにしても、子供の頃なら感じるであろうことを、その時に感じてしまうのだ。
だから、
「残せばいい」
という発想は、その時の自分の中には存在しないのだ。
普段は冷静に考えることができるくせに、その時、選択肢を狭めていることにも気づかないほど、自分の中では冷静ではないのか、理論的に考えるよりも、本能が優先するかのような気持ちになるのかも知れない。
とにかく、自分の中で矛盾が起こっていることに気づくには、冷静に考えているという、さらに奥で、もう一度冷静にならなければ分からないことなのだろう。
それは、まるで、マトリョシカ人形のように、
「人形を開けると、また中から人形が出てきて。さらにその人形を開けると……」
というように、無限に続くループを思わせるものであった。
「限りなくゼロには違いが、決してゼロにはならない」
というあのマトリョシカ人形のようにである。
そういう意味で、いつもは、あまり気にせずに判断していることであれば、一見、矛盾した行動や、性格が出てくるものなのかも知れない。
そこには、結界のようなものがあり、自分でも気づかないが、意志としては超えられないが、意識として超えられるのではないだろうか。
その時に意識として感じることは、あくまでも、本能だと判断する時に感じていることなのだろう。
そのように、
「本能や性格」
「意識と意思」
のような感覚が微妙に違ってしまったことで、表に出てくる性格に矛盾を生じ、
「お前って、本当に分かりにくいやつだな」
と言われてしまうことも往々にしてあるというものだ。
これは、親から受けた教育によるものなのか、それとも、自分で最初から、言い訳を考えての行動なのか分からないが、たまに自分のこんな性格が嫌になることがある。
普段はまったくそんなことはないのだ。
ただ、飽きるまで食べ続けるという性格も、好きなものは最後まで残しておくという性格も、親とはまったく正反対のものだった。
だが、子供の頃、まだ、十歳未満の頃までは、親の考え方に寄せられていたような気がする。
さらに、食事の好みも親とはまったく違っているのに、親が食べる食べ方を強要されるので、子供お頃は食べれなかったものが結構あった。
しかし、中学くらいになると、友達と一緒に食べるようになり、その時に、
「食べ方なんて、自分の好みで食べればいいんだ」
と初めて気づいたものだった。
例えば、本人は酢が嫌いだったのだが、親は、酢が大好きだったようで、餃子のたれに、さらに酢を入れて親は食べていた。
子供としては、臭いだけで吐き気を催してきそうな感じなので、
「餃子なんか、大嫌いだ」
と思って、実際に、餃子を食べたことはなかったのだ。
だが、友達の家で餃子をごちそうになった時、餃子のたれとラー油だけで食べてみたのだが、
「これはおいしい」
と思わずいうと、友達とその母親はビックリしたように、
「餃子を初めて食べたの?」
と聞かれたので、
「はい、今までは嫌いだと思っていたので食べたことがなかったんです」
というと、
「じゃあ、今日は無理して食べたということなの?」
と友達お母親に聞かれたが、
「いえ、そうじゃないんです。餃子をつけるたれに、酢を入れなくてもいいんですえ?」
と聞くと、
「そうよ。元々、たれには酢が入っているので、そこにわざわざ酢を加える必要なんかないのよ。ひょっとして、酢が嫌いなの?」
と聞かれたので、
「はい、僕は酢が嫌いなんだけど、親は。たれにさらに酢を入れて、それだけで部屋の中に酢の臭いと、餃子の臭いとが入れ混じって、吐き気がしてくるくらいだから、もうそれだけで、食欲なんて、一変に吹っ飛んでしまったんです。だから、僕は餃子っと、親が作るたれで食べるものだって思い込んでいたので、餃子はずっと嫌いだったんです」
というと、友達と、友達の母親は顔を見合わせて、
「それはかわいそうだったわね。でも、食べ方なんて人それぞれなんだから、自分がおいしいと思う食べ方をすればいいと思うのよ」
と言われた。
「そうなんですね。以前、鍋をした時があって、その時、ポン酢を使ったたれで食べたんだけど、僕が酢が嫌いなので、ポン酢を入れずに、鍋のスープだけで食べようとしたんだけど、怒られたんですよ。変な食べ方をするなってね」
というと、友達はため息をついて、
「もし、お母さんがそんなことしたら、俺はグレたかも知れないな」
と言って、ニヤけた表情で自分の母親を見ると、母親は、睨み返したが、その顔は別に怒っているわけではなく、納得の表情が浮かんでいたようだ。
「そんな食べ方まで押し付けられたら、息が詰まっちゃうよな。食事なんて好きなように食べればいいのさ」
と友達がいうと、母親の方も、
「まあ、この子のいうのは、少し大げさだけど、でも、実際はそうよ。親だからって教育と押し付けをはき違えちゃいけないと思うわ。これじゃあ、まるで、王様の英才教育みたいじゃない。私には理解できないわ」
と、言ったが、他人の家庭のことをそこまでいうのだから、この話を聞いて、内心は、気分が相当に悪かったに違いない。
それからは、親のいうことをあまり聞かないようになった。ただそれでも、
「悪いことしたかな?」
という罪悪感が若干残っている。
親の方も過保護なのだろうが、子供の方としても、親離れができていないのだろう。
ただ、このままいけば、親の方が子離れできなくなってしまって、ヒステリックな状態が続くと、いずれは家庭崩壊などということになったとしても、不思議のないことであろう。
そんな自分が、
「母親とは、まったく正反対だ」
と感じるようになったのは、友達の家で餃子をごちそうになったその時がきっかけだったのは間違いないだろう、
そして、改めて母親を見ていると、
「俺とは正反対ではないか?」
と思うようになった。
実は、それはそれでよかったと思っている。もし、親と同じところがあれば、親に対して、必要以上な恨みを持つ必要はなく、今のような怒りや憤りを感じてもいいのだと思うには、同じところがないほど、自分を納得させることができるからであった。
だから逆に、自分のことがよく分からない時は、母親を見て、
「その反対なんだ」
と思えば、見えてくるというものであった。
母親が自分の反面教師であり、自分が見えないところを映し出すための、鏡のような媒体として役立ってくれていると思うと、怒りや憤りとは別のものが浮かんできそうに思うんであった。
「人のことはよく分かるのに、自分のことは結構分からないものなんだよな」
というのは、前述の疑問であったが、この時にも同じことを感じた。
こっちの方が先だったのだろうが、最初は他人から聞かされたことで気づいたことだったので、そこまでハッキリと自分の意識としては残らなかったのだろう。
「好きなものを飽きるまで食べる性格だ」
と言ったが、それは好きなものすべてだというわけではない。
もちろん、食べ物のことであるから、同じ、
「好きだ」
というものにも、種類や限度というものがある。
味覚にも、甘いや辛い、酸っぱいなどと言った種類があり、同じ甘いものでも、好きなものと嫌いなものがある。
甘いものと言っても、チョコレートやあんこは好きだが、乳製品系統は嫌いだという、人間だっているだろう。
「僕は甘いものが好き」
と漠然と言って、ミルク系のものを出されると、
「ごめんなさい。乳製品はダメなんです」
と言って断るしかなかった。
無理して飲もうとすると、きっと吐き出すのは分かっているので、そんな汚いことをすることを思えば、正直に言った方がいいに決まっている。相手は、少し不機嫌な顔をするだろうが、黙っていて、我慢して飲もうとして、目の前で吐き出してしまうと、
「ほら、何してるのよ。嫌なら嫌っていえばいいのに」
という罵声を浴びるくらいなら、不機嫌な顔をされる方がマシだと思うのだ。
「じゃあ、もし、親が自分の立場だったらどうするだろう?」
と考えた。
「顔を真っ赤にしながら、何とか我慢しようとして、飲むだろうか?」
と考えたが、そんな切羽詰まったような母親の顔を想像できなかった。
「いや、想像したくない」
という思いが強いのではないだろうか?
あくまでも、自分と正反対の性格なのだから、きっと嫌なものでも勧められたら、断れないだろう。だからと言って、苦悶の表情が想像できるものではない。
そうなると、見てはいけないものを見てしまったような気がして、それまでの自分の中にあった母親との比較に矛盾が生まれてきて、何をどう解釈すればいいのか分からなくなるだろう。
それが嫌なので、嫌なことを想像するというような感じにはなれなかった。
「この感覚は、他の人にもあったんだろうな?」
と感じたが、
「それは、これが親離れをするための一つのきっかけに違いない」
と感じたからだ。
意識的にであっても、無意識にであっても、親と自分を比較するというのは、まだ親離れができていないからだろう。
これは親にも言えることであって、きっと親も自分と比べているに違いない。親であるがゆえに、それが生きがいなどというものであったとすれば、それができなくなると、自分でもそうすることもできなくなるのではないだろうか。
子供の立場からもそうなのだから、親の方はもっとひどいだろう。
だが、そこまで子供が考えなければいけないのだとすれば、親の責任というのは、かなりのものに違いない。
子供が親に対して感じることは、
「親だって、自分の子供時代があったはずだ」
ということであった。
今の自分と同じようなことを自分の親にも感じていたはずなのに、親になれば、そんな気持ちをすっかりと忘れてしまうものなのだろうか?」
と感じた。
だが、逆に、
「母親の親とは性格が正反対だったことで、反発心を持ったために、自分が親になったら、自分の親のようにはならない」
と考えているのかも知れない。
こちらの方が、自分にはしっくりといく。なぜなあ子供の頃の自分が感じていたのは、
「自分の親のような、そんな親には、自分は絶対にならない」
ということである。
ということは、母親の親も、まったく違った性格だったのかも知れない。そう考えると、おじいさん、おばあさんの性格が自分と同じではないかと思ったが、それは一概には言えないだろう。
「反対の反対が、今の自分だ」
ということになるとは限らないからだ。
「一引く一がゼロになる」
という単純な算数の計算とは違うのだからである。
そして、違う人間なのだから、
「引き算をして、絶対にゼロになることはないだろう」
という思いがあった。
その感覚が、
「今が親離れだ」
と思えたのだろうが、親はそんな素振りはないようだった。
「どうせ、これからもも口を出してくるんだろうな」
と思うと、何とも億劫であり、かといって、下手に逆らって怒らせるとこのも、納得がいくことではなかった。
基本は、
「僕のためにしてくれていることなんだ」
という思いがあり、それを鬱陶しいという理由だけで、遠ざけてしまうと、母親を追い込むことになるのは必至で、何とか、本人が納得のいくような形に収めてあげたいと思うのだが、そう思っている自分に憤りを感じている。
「なんで勝手にやっていることに、こっちが合わせてやらないといけないんだ?」
という感覚である。
最終的に、
「親バカというのは、一種の病気なんだ」
と思えば。少しはいいのかも知れないが、まだ憤りの理不尽さが残ってしまう。
つまり、
「親を納得させるということは、同時に自分を納得させない」
ということになるに違いない。
飽きるまで食べ続けるという性格は、きっと、
「自分を納得させるには、飽きるまで続けるしかない」
という結論めいたことを思いついたからなのかも知れない。
中学生の頃は、親の介入に関して考えている自分が嫌だった。
「なんで、俺がこんな余計なことを考えなければいけないんだ?」
という思いがあった。
親のことは、しばらくは思い出さないようにしていた。だが、嫌でも思い出させることになったのは、あれは、大学を卒業してから、就職した二年目くらいの頃だっただろうか?
入った会社は、最初の半年は研修期間で、一年経てば、他の営業所との絡みで、
「転勤があるかも知れない」
ということは言われていたので、さほど驚かなかったが、予想通りというか、意識していてよかったというか、会社から、さっそく転勤命令が出たのだった。
最初の赴任地も田舎で、移る先も田舎だったのだ。
元々、大学があったところは都会だったので、会社の本社があるところは地方では都会でも、大学があったところから比べれば田舎だった。それでも、まだ本社勤務であれば、まだマシだったのだろうが、そこからさらに営業所ともなると、相当な田舎に行かされることになる。
完全なカルチャーショックだった。休みの日でも、どこかに出かけようという気にもならず、ただ、部屋でテレビでも見ている程度だった。
「研修が終わったら、本社勤務にでもならないかな?」
と思ったが、本社から呼ばれることもなかった。
一年が経って、今度は別の営業所への転勤。ただ、さすがに一年も田舎暮らしをしていると、嫌でも田舎暮らしに慣れてきた。慣れてくるのがいいことなのか分からなかったが、何となく寂しい気はしたのだ。
まわりが、かなり自分に興味津々なのが分かった。こちらは、元都会の人間だという自負のようなものがあるから、興味津々の目で見られるのは嫌ではなかった。
特に、倉庫のパートの人などが、興味を持っているようだった。
倉庫のパートの人というのは、主婦の人がほとんどで、中には、
「うちの息子と同い年」
と言って、話しかけてくれた人もいたくらいだ。
若い人はほとんどおらず、若くても三十代後半くらいの人たちなので、パートさんの中で、グループができているようだった。
そんなパートさんたちの中に、一人、本当に真面目な人がいて、
「皆、気軽に話しかけてくれているけど、気を付けた方がいいわよ」
と、何やら忠告してくれた。
「どういうことですか?」
と聞くと、
「皆、気さくに声をかけてくれて、あなたに興味津々なんだろうけど、それを真に受けすぎると、言わなくてもいいようなことを口走ってしまったり、田舎者だから、何も知らないだろうと思ってタカをくくっていると、意外と寝首を掻かれることになるかも知れないわ。気を付けた方がいいわよ」
というのだった。
それを聞いて、一瞬、ハッと我に返った。
確かに、田舎者だと思って舐めているところがあるような気がしているし、相手を信じ込んでしまって、何でも感でも話してしまいそうな気にもなっていた。
相手が計算高いところなどない、素朴で純粋な田舎の人だなどと思っていると、痛い目に遭うといいたいのだろう。
しかし。そんなことを言ってもいいのだろうか? 同じパート仲間を裏切るような行為ではないか。
ひょっとすると、この人は同じパート仲間の中にはいるが、その中で、少し異端児的な存在なのかも知れない。
そういえば、いつも一人でいるというイメージがある。それだけでなく、他の人たちとは、どこか違っている。垢ぬけて見えるといっていいかも知れない。
その人の出身地を聞いてみると、どうやら、首都圏にいたようだ。大学時代に知り合った男性の故郷がこの街で、結婚して、お嫁に来たということである。ちなみに、今いる他のいつもつるんでいる四人のパートさんは、皆、この街の出身だというのだ。
それを聞いて、大体のことが分かった。
まわりは皆この街の出身、その中に一人だけ都会出身者がいる。
その人も、今の自分と同じように、最初は都会出身者だということで、ちやほやされたのかも知れない。ただ、どこかで飽きがきたのだろう。次第に自分たちだけでつるむようになったのだろう、そうなってしまうと、はしごを掛けられた上ったはいいが、その梯子を外されてしまったかのようになっているに違いない。
「この人は、僕にそのことを教えようとしてくれているのだろうか? あまり相手の親切や好奇の目をいい方にばかり取りすぎてしまうと、ろくなことはない」
と言いたいのではないだろうか。
そう考えると、確かにその頃になると、まわりの人たちが話しかけてくれることも少なくなったし、挨拶の時の声のトーンが、あからさまと思えるほどに、低い声になっている。
「僕にも分かっていましたよ」
と言いたいところであるが、それを言ってしまうと、今のところ力になってくれそうな人を敵に回すかのようで、それは避けなければならなかった。
だが、似たような感覚は、最初に赴任した営業所でも感じたことだった。ただ、ここほど閉鎖的なことはなく、露骨な感じも前の営業所のようがあったので、一見騙されそうな気がするのだが、飽きが来た時の、変わり身のひどさは、結構なものだった。
それは、食べ物に関して、
「飽きが来るまで続けるが、飽きてしまうと見るのも嫌だ」
というあの感覚と同じなのではないだろうか?
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