第8話 大団円

 つかさがかえでにもう一つ恐怖を感じたのは、自分が、

「カプグラ症候群」

 に襲われているからではないか?

 という錯覚があったからだ。

 カプグラ症候群というのは、

「家族や、恋人、親友などが、うり二つの替え玉に入れ替わっているという妄想を抱いてしまうという、精神疾患の一種」

 だと言われている。

 つまり、被害妄想のようなもので、自分のまわりの人が、何かの秘密結社のような組織の力で、自分のまわりをすべて不利な状況に追い詰めようとしているのではないか? ということなのであった。

 この発想は、そんなに昔からあるものではなく、ここ数十年くらい前からのものである。

これこそ、SFや特撮などのテーマとしては、恰好のもののようで、よく使われているのを知っていたので、意識としての理解はできた。

 人の生死であったり、自分の生死に対して考えていると、なぜか、このカプグラ症候群を思い出したのだ。

 このようにまわりから固められて、逃げられないような精神状態に陥ったとすれば、恐怖から、自分の命を断とうと考えるかも知れない。それを、

「生殺与奪の権利」

 と一緒に考えてしまうと、頭の中が混乱してくるような気がした。

 その混乱が無意識に起こった時、

「私には、予知能力のようなものが備わっているのかも知れない」

 と感じるのだった。

 つかさにとっての、予知能力というものは、まず、基本的に無意識であるという条件があり、その中で考えすぎるあまり、頭の中が混乱してしまったことで、

「自分の考えている意識の辻褄を合わせようとする」

 という発想から、

「まるで、先のことが分かったような気がした」

 と感じるのではないだろうか。

 だから、何も先のことが分かるからと言って、別に自分に超能力のようなものがあるわけではないと思っているのだ。

 だが、

「脳の十パーセント神話」

 というものから逸脱しているような気がする。

 この能力は超能力というには、少し大げさな気はするのだが、

「実際に使われていない部分の脳が働いている:

 という発想にはなっている。

 ということは、この予知能力は、つかさにだけ備わっているというものではなく、ちひろにも、かえでにもあるのではないかと思うようになった。

「自分のまわりに寄ってくる人は、自分と同じ能力、しかも、特殊能力のようなものを持っている」

 と考えたのだ。

 逆にいえば、

「ちひろやかえでが持っているであろう特殊能力を、この私だって持っているのではないだろうか? もちろん、無意識にであるが。だからこそ、今は気づいていないのだが、そのうちに気づくことだろう」

 と思うようになってくると、それが何であるか、少しずつではあるが、分かってきたような気がしてきた。

「二人は無意識であるが、似たような発想を持っているけど、その発想が交わることはない。まるで平行線を描いている」

 というような気がしてくるのだった。

 つかさは、ちひろと仲良くなったことで、かえでと知り合った。

 それまで、つかさはかえでという女性の存在を知る由もなかったはずなのに、

「前から知っていたような気がするんだけど、この感覚ってどこから来るんだろう?」

 と考えていた。

 特別な感情がなければ、

「デジャブのような感覚」

 と言えるのかも知れない。

 デジャブというのは、人によって考え方も違うし、科学的にハッキリと解明されているわけでもなかった。

 ただ、いろいろな発想がある中で、

「デジャブというのは、前に見たことがある非常に似ている光景を見ているような気がして、それを頭から否定してしまうと、自分の中で矛盾が出てくるので、曖昧な形で辻褄を合わせようとする現象だ」

 という意見をどこかの本で読んだような気がした。

 つかさは、その発想を見て、

「なるほど、そういうことであれば、納得がいくかも知れない」

 と考えた。

 辻褄合わせを、曖昧な形で表現しようとすることがデジャブというものであるとすれば、つかさが感じている、

「予知能力」

 というものも、どこか似たところがあるのかも知れない。

 そう考えると、自分が感じている、

「使っていない脳を使用している」

 と感じていることも、デジャブに当て嵌めることもできるし、逆に、

「デジャブが誰にでもある通常の能力だ」

 とすると、

「自分の予知能力も、決して、自分だけのものではなく、通常能力の一種だといえるのではないか?」

 と考えられるのだった。

 かえでを以前から知っていたように思うのは、

「ちひろの中に、かえでを感じたからではないか?」

 と思った。

 それは、まるで、ちひろという女性が、自分の知らない間に替え玉と入れ替わっていたというような、カプグラ現象のようではないか。

 そう思うと、自分のどこかに精神疾患があり、被害妄想を抱かせていると思うようになった。

 しかも、その被害妄想は他人から抱かされたものではなく、あくまでも、自分が感じさせられたものが、その中に、さらにドッペルゲンガーのような感覚も生まれてきた。

 もう一人の自分がいると思ったが、それは姿を変えた自分であるのだが、実際の性格はまったく違う。

 しかし、他の人から見ると、同じ人間に見えているのかも知れない。その人の中で自分は、自分として行動をしているつもりなのに、まわりからは、

「どうしたんだろう? まるで別人のようではないか?」

 と感じさせる行動をとっている。

 しかも、まわりの人に対して、自分は無表情で、声も発しない。そんな風に見えているのだ。

 それがドッペルゲンガーであり、

「見てはいけないもの」

 だったに違いない。

 だから、彼らは決して、本人には、そのドッペルゲンガーのことを口にしないだろう。口にしてしまうと、死ななければならなくなってしまうからだ。

 今のこの状態で、誰が死を望むというのか?

 いや、逆にドッペルゲンガーが見える人というのは、心の底で、

「死を望んでいる人」

 なのかも知れない。

 ドッペルゲンガーを見たというと、死ぬことになると言われているのに、著名人の多くは、

「ドッペルゲンガーを見た」

 と言って、死んでしまっているのだ。

 ドッペルゲンガーを見ると、死ぬという伝説を、これらの著名人が知らなかったとも思えない。

 だから、ドッペルゲンガーが見えたのをいいことに、それを他人に口にすることで、自分の死をさらに確実にしようと思っているのかも知れない。

 そんなことを考えていると、デジャブにしても、ドッペルゲンガーにしても、ある意味同じような効果があるというもので、

「デジャブを見た」

 あるいは、感じたということを口にすると、本当は何かの災いに巻き込まれているのかも知れないが、そのことが表に出てこないので、誰も意識していないのかも知れない。

 いや、意識しているからこそ、

「前にも同じ感覚を味わったことが」

 という曖昧な発想になるのだろう。

 デジャブを感じた時点で、その時同時に、何かが起こっているので、曖昧な感覚にされてしまっているということで、

「事後でも事前でもなく、襲ってくる災い」

 を、

「同時の曖昧さ」

 で、恐怖を打ち消してしまい、感覚をマジさせているのかも知れない。

 そんなことを思っていると、本当にいろいろな発想が頭の中で生まれては、交錯する発想から、次第に見えてくるものがあるのではないだろうか。

「お互いがお互いを打ち消しあうという、妄想があってもいいのではないだろうか?」

 とつかさは考えるようになった。

 それが、何かの結論のような気がしてきたのだが、果たして、そうなのだろうか?

 つかさとちひろとかえでの三すくみ、お互いにいつも、睨み合って、動かないはずのものが三すくみの関係にあるはずなのだが、この三人に限っていえば、どうもそうではないような、

「三すくみの関係」

 に思えてきた。

 三すくみでお互いに睨み合うと、

 自分の苦手な相手を、自分の中で抹殺しようと考える。当然、あとの二人も同じだろう。

 これは、三すくみを意識する人たち皆が同じなのだろうと思うのだが、皆はそれぞれをけん制しあって、身動きが取れない膠着状態になっているのだ。

 だから、自分たち三人もそうなのだろうと思っているが、実際にはそうではないようだった。

 苦手な相手を消し去ってしまうと、自分には、得意な相手しか見えない。しかし、襲い掛かってしまうとどうなるのだろう? 消したはずの自分の苦手な相手が、どこから伴う現れて、自分を襲ってくるように思えてならない。

 それが、カプグラ症候群であり、

「自分の得意な相手と苦手な相手が入れ替わっていて、得意な相手に襲い掛かっているのと同じ状況が自分の身に降りかかってくるのだ」

 と思う。

 つまり、自分と同じ行動を三人が三人とも、得意な相手にすることで、自分の中での三すくみが完成してしまうのだ。

 三すくみというのは、膠着状態になるのが最後ではない。どこかで膠着状態が破れて、お互いが攻撃しあって、最後には同士討ちのような形で、皆破滅してしまうのが、三すくみの真の姿ではないかと思うのだった。

 そんなことを考えていると、

「お互いが、お互いの中に潜んでいることになる」

 という思いが頭に浮かんでくる。

 しかも、その感情は、どこかで感じたことがあるのだった。

「ああ、マトリョーシカ人形のようではないか?」

 というものだった。

 そう、入れ子になった人形が、どんどん小さくなって現れてくるという、あのロシア民芸のマトリョーシカ人形である。

 そして、

「限りなくゼロには近づくが、決してゼロになることはない」

 という、

「無限小」

 のような発想であった。

 三人の間にいろいろな発想があり、そこから人間関係が絡んでくる。

 そして共通点を感じていると、つかさは、

「自分の予知能力が何のためになるのだろうか?」

 と考えるようになった。

 自分たち三人がいることが、本当にいいことなのか分からない。これは他の人にも言ることで、

「だから、人生って楽しいんじゃないか?」

 という人がいるだろうが、

 三人の中の三すくみが、いかに進んでいくか、予知能力がまたしても、湧いてくるような気がしてきた。

 このお話の主役は、確か、最初はかえでで、次にちひろになり、そして最後にはつかさになった。

 別に主人公が変わったというよりも、話を書いていて、誰に焦点を合わせているのかが分からなくなってきたのだ。

 つまり、

「誰の視線から見つめるか?」

 というのがミソであり、しかも、それぞれの中に、自分の得意な相手が潜んでいて、それがまるで、

「もう一人の自分のように感じる」

 のだから面白い。

 一体誰が主人公として話を見ていけばいいのか。

 それこそ、

「神のみぞ知る」

 というべきなのだろうか?

 そもそもの、パラレルワールドの発想と、

「五分前の女」

 という発想から始まり、カプグラ症候群や三すくみまで、共通点は探すほどに見つかってくる。

 三人が、それぞれに入れ替わるように、お互いに入り込んでいる世界。それを、つかさは、

「予知能力」

 として見ているのだろう。


                 (  完  )

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予知能力としての螺旋階段 森本 晃次 @kakku

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