第7話 生殺与奪の権利
かえでは確かに天真爛漫だが、すべてにおいてというわけではなさそうだ。特にちひろのような相手に対しては、いつも気を遣っているように見える。ただ、それを認めてしまうと、先般から考えている、
「三すくみ」
の関係が崩れてしまうような気がするのだった。
ただ、かえでは気を遣っているように見えるのは、表から見ているだけで。かえで自身は自覚をしていないのかも知れない。
ということであれば、かえでという女性は、実に羨ましい性格であるといえるのではないだろうか。
まわりは気を遣っているように見えるが本人はそんなことはない。それが、かえでが自分で努力して作り上げた力であれば、それはそれで彼女の魅力であり、尊敬に値するものである。そういう目で見られるのであれば、十分だといえるのではないだろうか。
と考えれば、この三すくみの関係が、
「まるで親子の関係」
に置き換えることもできるのではないかと感じた。
立場が強い方が親であり。弱い方が子供。三人の関係としては。
「つかさの親がかえでであり、かえでの親がちひろである。ちひろの親は、つかさということになるだろう」
そうなるとこの関係は、螺旋階段のように、渦を巻きながら、上るか下るかの二つに一つではない。
まるで、波目になっているかのように、三人の関係の中で浮き沈みしているもので、この関係が、お互いを均衡に保つことで、まったく身動きの取れない関係にもしているような気がするといえるであろう。
つかさは、今度は、死ぬ時を選べないという言葉を思い出していた。
この言葉は宗教によっては禁止されている、
「自殺」
を裏付けるものである。
戦国時代の、
「悲劇のヒロイン」
と言われる、細川ガラシャが、その代表ではないだろうか。
彼女は、父親の明智光秀が織田信長に謀反を起こしたことで、不遇の生涯を過ごしてきた。
そのため、彼女は藁にもすがる思いだったのだろう。キリシタンになっていた。
豊臣政権になってから、細川家は秀吉政権の大名として、秀吉に恩義を感じていきてきたが、秀吉亡き後、関ヶ原前夜、
「上杉討伐」
という名目で、家康が軍勢を率いて、会津に向かっている途中で、石田三成が家康相手に兵を挙げ、その手始めに、
「上杉征伐で留守になった大名の家族を人質にして、自分の方につかせよう」
という作戦をとったことで、細川家にも、石田軍が押し寄せてきた。
その時、細川忠興の正妻である、細川ガラシャは、
「自分のために、夫が武士の道に外れたことになっては困る:
と思い、足手まといにならない方法をと考えたが、キリスト教では、
「自殺は許されない」
ということで、自害することはできなかった。
そこで考えたのが、
「自分の配下の兵に、自分を殺させる」
というものであった。
そもそもキリスト教というと、
「人を殺めてはいけない」
という、モーゼの十戒にもあるように、殺人は許されなかった。
だから、
「自分で自分を殺す」
という意味の自殺も禁じていたわけなのだが、では、だからと言って、
「自分を誰かに殺させる」
というのはいいことなのだろうか?
人を殺人犯人にするということであり、自分が戒律を守ったといえるのだろうか?
それが、つかさにはずっと引っかかっていた。
人に自分を殺させるというのは、自分の罪を人に擦り付けるということではないだろうか?
もし、他人に殺させるのであれば、その人は人殺しとして、
「業火の炎に焼き尽くされる」
ということになるだろう。
それが、家臣であり、しかも、戦場において、これまでたくさんの人を殺めた人間だから、自分ひとりくらいいいだろうとでも思っているとすれば、それは思い上がりもいいところである。
確かに、この話は、
「悲劇のヒロイン」
として、後世に残ってきたことだが、ちょっと考えれば、
「おかしいのではないか?」
と誰も思わなかったのだろうか?
つかさの中では、最初はハッキリとした考えがあったわけではないが、何か納得いかないところがあり。違和感が付きまとっていることだったに違いない。
そんなことを考えていると、
「人間というのは、無意識に自分を正当化しようとして、誰かに罪を擦り付けているのではないか?」
と考えられる。
細川ガラシャとしては、そんなつもりはないのだろうが、
「自分で自分の命を断つという勇気がもてないので、家臣に殺させた」
ともいえるのではないだろうか。
リストカットして自殺を試みる人は、ほとんどの人が手首に無数のためらい傷があるというではないか、いざとなって自殺できなかった場合を考えると、誰かに殺してもらう方が、確実だといえるだろう。
これが、細川ガラシャの本音だったとすれば、それは仕方のないことだろう。
しかし、まわりがこの話を必要以上に美化しようとして伝承しているのだとすれば、それは大きな間違いだといえるのではないだろうか。
確かに戦国時代という異世界に近いような時代背景の違いなのだから、考え方もまったく違ったとしても当たり前のことだろう。
しかし、モラルのようなものは、最低限度揺るぎないものであって、だからこそ、
「勧善懲悪」
などの言葉が、語り継がれてきたのではないだろうか。
それを思うと、逆に、
「歴史は繰り返す」
というが、三すくみの関係を見た時の、螺旋階段にならない。まるで波目カーブであり、波長が示すような動きが、時間軸にも存在しているのではないだろうか。
「人間というのは、生まれる時は選ぶことはできないが、死ぬ時くらい、選択できてもいいような気がするが、それができないというのは、人間の生死が、死後の世界との往復として、一本の道でつながっているのだとすれば、死ぬことも自分で決めてはいけないということになるのであろう」
と考えられるような気がするのだった。
人間の市というものを考えた時、
「死ぬのではなく。別の世界に行くだけだ」
ということであれば、死ぬこともそれほど怖くないのかも知れない。
そもそも、死ぬというのは何が怖いというのだろう?
死ぬとうことを怖いと思い込んでいる人は、自分を含めてという言葉が先行するが、ほぼ間違いなく皆だと思っているに違いない。
死ぬということがどういうことなのか、その一つとして、
「痛い、苦しい」
という、感覚的なものがあるのは間違いない。
けがをしたりした時、病気にかかって高熱でうなされた時など、
「こんなことなら、一層、このままコロッと行ってくれた方が楽だ」
と感じたことのある人は少なくないだろう。
確かに、死んでしまった方が楽だと思うこともあるが、逆に死を前にすると、いくら詩を覚悟したと思っている人も、ためらうはずだ。
先述の、ためらい傷もその一つであり、大東亜戦争における日本軍の、
「神風特攻隊」
もその一つであろう。
神風特攻隊というと、
「片道の燃料だけを積んで、敵艦隊に体当たり」
というのが、その正体なのだが、今の人間が考えれば、
「そんな理不尽なことないだろう」
と思うに違いない。
しかし、当時は教育として、大げさに言えば、
「日本人は、万世一系の天皇のために生存し、死ななければいけない」
というような意識を持たされている。
だから、死ぬこと自体を怖がるようなことはないはずだが、実際に、特攻隊として出撃した時、
「死にたくない」
と思うようだ。
家族には、遺書を書いて、
「立派にお国のために死んでまいります」
という内容のものを届けているので、すでに家族は、
「死んだ者」
として、覚悟を決めているはずだ。
しかし、それが助かったりすると、
「天皇陛下のために死ぬことのできなかった」
ということで、生き残った人間はおろか、家族までもが、非国民扱いにされる時代だったのだ。
それだけ、戦争に対してのプロパガンダは激しいものがあり、そんな恐ろしい時代を、当時はどう感じていたのか、本当に分からない。
しかし、敵艦に突っ込んでいく時、本当に怖くはなかったのだろうか?
冷静に考えれば、ここまで来て逃げることはできない。生き残ったとしても、その後は地獄が待っている。
「貴様の同僚は、皆陛下のために、死んでいったんだぞ。お前だけのうのうと生き残って、恥ずかしいとは思わんのか?」
と言われるのだ。
しかし、考えてみれば、そんなことを言っている連中に、人を非難できる資格があるのだろうか。
自分たちは、別に敵艦に突っ込むこともなく、兵隊にとられていないのだから、何とでもいえるというものだ。
それこそ理不尽ではないだろうか。
時代がいくら違ったとはいえ、誰でも人間であれば、死を前にすれば、恐ろしいと思いわないわけはないということだ。
戦争というものがどういうものであるかは、今の自分たちには分からないが、生まれていた以上、必ず最後には死が訪れる。死を免れた人というのは、今までには一人としていないのだ。
「不老不死」
中国などでは、それを求めるための旅をするなどという話も多いが、果たして、不老不死がそんなにいいものなのだろうか?
実に難しい問題である。
死というものが、どうしても、まわりの人間との関係にかかわってくると考えると、確かに、
「人間は、死ぬことを勝手に選ぶことはできない」
と言ってもいいだろうが、突然にやってくる死を、運命としてすべて片付けられるものであろうか。
戦争で殺されるという場合もあるだろう、もっといえば、
「自分はまきこまれただけで、死ぬ運命にあった」
ということだってあるかも知れない。
ひどい話としては、
「誰か別人と間違えられて、殺されてしまった」
という理不尽にまみれたことだってあるだろう。
殺した方は、恨みのある人間を殺したつもりになって、満足しているかも知れない。だが、実際には間違い殺人だったのだ。
では、殺した方は本当に満足なのだろうか?
人を殺そうと思って覚悟を決めて、見事に本懐を遂げたとしても、
「他に方法はなかったんだろうか?」
と感じることもあるだろう。
それが罪悪感というものであるが、それは、自分の中にある、
「勧善懲悪」
という気持ちからだけだといえるのだろうか?
何と言っても、人を殺すことはいけないことだとして育ってきた。人の自由を奪い、命までも奪うのだから、これ以上の罪はないだろう。
放火という犯罪は、殺人よりも罪が重いと言われる。なぜなら、放火することで、その人のすべてを奪うことになるからだ。
命、財産、家族、さらには生きがいになっているもの。すべてを有無もいわせずに葬ってしまうのだ。
命と、財産、家族、生きがいを同じ天秤の上に乗せていいものかどうかは問題だが、命以外にも大切なものがたくさんあるということに違いはないのだ。
命だけを問題視するのがいいことなのだろうか?
そんなことを考えていると、自分の命が、自分だけのものではないという考えに至るということが、こういうことであると、つかさは考えるようになった。
自殺が許されないという考えも、そこから来るのであれば、納得のいくものではないだろうか。
そういう意味で、人間の生死を誰が決めているのかということが気になるところである。
地獄には、閻魔大王というのがいると言われているが、閻魔大王は、
「死んだ人間で、生前に悪事を働いた人を裁く」
という仕事をしている人である。
閻魔大王には、人の生き死にを管理するという、
「生殺与奪の権利」
など、あるはずはない。
お釈迦様もそうである、
「死んだ人間が、極楽浄土でどのように過ごすかということを見守ってくれるのが、釈迦如来ではないだろうか」
となると、人の生殺与奪の権利を持っている人はいないということになる。
しかし、人の生死がすべて運命であるとすれば、その運命を決めている人がいるはずだ。今までに、そんな人がいるという話を聞いたことがない。
そう思えば、
「生殺与奪の検知というのは、言葉だけのものであって、実際にそんなものを与えられた側も、与えた側もいない」
という結論になるだろう。
となると、あとは、
「神のみぞ知る」
とでもいうかのような、運命でしかないだろう。
そもそも、そんな権利が存在してしまうということは、
「人間や神よりも、偉いと言われる存在」
が、成立するということになるではないか。
そんなことが人間世界ではありえるはずもなく、生殺与奪の権利というのは、あくまでも、言葉や倫理の問題とされるだけのもので、実態としては存在しないのではないかと思うのだった。
ただ、生殺与奪の権利と聞くと、普通は、
「人の命を奪える権利」
という意識もあるだろう。
しかし、
「与奪」
となっている以上。与えるということもあるはずだ。
そこで、つかさが考えた与えるという意味には二つがあり、善悪それぞれの発想だったのだ・
善の方は、文字通りの、
「命を与える」
という意味で、命を奪うのではなく、
「目的のためには手段を択ばず」
という言葉があるが、その通りにしていれば、罪もない人も巻き込まれることになるだろう。
そういう意味での目的達成者は、
「命を奪う」
という方の生殺与奪になってしまうが、
「罪もない人の命を奪うというのは、無駄なことだ」
ということで、普通なら殺されるところを、無益な殺生をしないという意味で、
「命を与える」
というものである。
普通に考えれば当たり前のことなのだが、戦闘中などの有事の際には、そこまで考えられることはないだろう。そういう意味で、生殺与奪の、「与」の方になるのだ。
もう一つは、悪の方になるのだが、とは言っても、命を奪うよりはマシであるが、果たして、そう言えるかどうかというのは難しい話である。
命は奪わないが、正直なところ、生かしもしないという意味で、古代などに見られる、
「侵略して征服した先での民衆を、奴隷にしてしまう」
というやり方である。
戦争によっては、皆殺しにしたり、村を焼き払ったりするのだろうが、そんな時は、皆が惨殺されることになる。
二十世紀に入ってからも、尼港事件、通化事件、通集事件、南京大虐殺、ベトナム戦争における韓国軍などと、数々の悲惨な虐殺事件が起きている。
しかし、昔であれば、占領地域の人を奴隷にしてきたのだが、果たしてどちらがいいというのだろう。
奴隷とまではいかなくとも、捕虜という形で、連行されたり、強制労働をさせられたりするものだ。
確かに、戦争が終わって、平和条約が結ばれれば、開放されることもあるだろうが、その間は実に惨めなものである。
「捕虜の虐殺」
などというのも、普通にあったりした。
大日本帝国には、
「戦陣訓」
というものがあり、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
という言葉がある。
本当の意味としては、
「捕虜になると、相手国の軍人に何をされるか分からない。それくらいなら、死んだ方がましだ」
ということになるのだろう。
しかも、捕虜になって、まともに生きて帰国した人間はほんの一握りしかいないというのも歴史上の事実である。
さらに、日本の封建制度の時代には、
「百姓は生かさず殺さず」
とまで言われた時代があった。
それも、一種の悪の意味の与なのかも知れない。
ちなみに、江戸時代の士農工商であるが、この身分制度は、本当の意味での人間の差別が目的ではない。飢饉が起こった時など、農民が村を捨てて、都や江戸に出てきてしまって、さらに、農村が過疎化してしまうことで、今度、不作が去った時には、農民がいないということで、食料確保や年貢の取り立てができないことから、
「勝手に、村を出てはいけない」
あるいは、
「勝手に、職業を変えてはいけない」
としたのだ。
つまりは、
「農民に生まれたら、末代まで農民だ」
ということで、農村の危機を救うのが、目的だったのだ。
「生殺与奪の権利」
という言葉は、結構昔からあったもののような気がするが、果たしてどうなのだろうか?
「勧善懲悪」
という意味であれば、そんな権利は、誰にも与えてはいけない気がするが、善の方の、
「生を与える方」
であれば、また違った発想になるのかも知れない。
今の日本には、
「有事は存在しない」
と言われている。
確かに、憲法によって、戦争放棄、平和主義が謳われているので、戒厳令などもない。
そのせいで、世界的なパンデミックが日本にも起こった時、日本政府は何もできなかった。
他国のようなロックダウンができずに、私権の拘束というものが制限されていたのだ。
他の国であれば、外出命令に背けば、罰金や、禁固刑などに処せられるのに、日本ではそれだけの権限がないので、すべてが、
「お願い」
でしかなかったのだ。
そのせいもあって、日本でいう、
「緊急事態宣言」
というものを出しても、一回目は皆守ったが、二回目にはもう誰も守らない。
何と言っても、国がキチンと保証する外国と違い、日本ではお金は出さない。さらには、お金を出しても、混乱して支給が遅れてしまうなどのトラブルが多発していた。
それだけ、
「緊急事態と言いながら、緊急事態だという意識が乏しい」
のだった。
それは、国民にも言えることで、政府だけでなく、国民までが、そんな状態になるのだから、どうしようもなかった。
もし、今の世の中に、
「生殺与奪の権利」
などというものを備えた国家があったら、どうだろう?
さすがにそこまであからさまな国家はないだろうが、似たような国が世界には存在する。
国家が国民のすべてを支配して、本来であれば、自由競争が主流の世界に立ちはだかる国である。
元々、そういう国の理想は、
「民主主義の欠点である、限界を克服するための新しい主義」
として生まれたものだったはずだ。
自由競争の、犠牲となるのは、何と言っても、格差社会であろう。
貧富の差が激しくなってしまい、金持ちは財閥として、どんどん発展していくが、大多数の国民は貧困にあえいでいる。それが、民主主義、資本主義の限界だったのだ。
「国家が社会を拘束するということで、すべてを平等に分け与えるという理想のもとに始まったはすの主義も、一部独裁者が、政権運営のために、反発勢力を粛清し、そのために、処刑されていく人がたくさんいるという。暗黒の世界」
だったのだ。
そんな社会だから、せっかくの有能な人間まで、独裁者に背くということで処刑されたり、国外追放されたり、亡命したりということになり、国家の力はどんどん衰えてくる。
それでも、何とか政権維持のため、他国からの干渉を少なくし、どんどん孤立していく。
そして、最後には行き詰って、崩壊した国が大国の連邦であったソ連だったのだ。
民主主義、資本主義が、
「やっぱりよかった」
というわけではないが、独裁につながるのは、閉鎖的な国家では仕方のないことだろう。
それが民族主義と融合すると、ホロコーストなどの民族弾圧に繋がってくるのだ。
だが、今、日本はいろいろな国から外人が入ってきているが、果たしてどうなのだろう? 知り合いの人の中には、
「ヒットラーの気持ちがわかる気がする」
と言っている人がいた。
最初の頃は、
「差別になるから、まずいだろう」
と言っていた人も、
「外人が入ってきて、モラルや秩序をひっかきまわすくらいなら、鎖国すればいいくらいだ」
と言い出すくらい、今の日本は、侵略されているのかも知れない。
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