第6話 宇宙の外の、もう一つの宇宙
その話の続きというのは、一人の小説家が、書いたSF小説に話が似ているというのだ。
当時のSFドラマには、
「小説に書かれている内容のことが起こる」
という設定が多かったような気がする。
その方が、話に説得力が出るのか、一度、父親がDVDを借りてきたので、一緒に見たことがあったが、子供には到底理解できるものではなかった。
ただ、
「こんな昔に、今にも通じるような発想があったなんて、すごいね」
というと、
「そんなことはないさ。今言われている都市伝説や、SF作品の考え方というのは、ずっと昔からあって、心理的な部分の解明は、百年以上からあり、いろいろな現象や、症候群などは、もっと昔からあったものもあるんだ。だから、今はそれらの話にバリエーションをつけることで、SF作品なんかは書かれているんじゃないかな?」
と父親は言っていた。
父親がウソをいうとは思ってもいないが、どうも簡単に信じられることではないような気がした。
「だから、当時のSFや特撮は、本に書かれていることが、現実になったという設定で、信憑性を深めながら、ドラマの奥を深めているんじゃないかって思うんだ」
とまでいうのだった。
「そんなものなのかな?」
と、子供心にその時は、疑問でしかなかったが、今では、その手法を、
「さすがだ」
と感じるし、確かに。信憑性があるように思えてくるのだった。
そして、その特撮番組の中でのSF小説に書かれているというのは、
「人々が急に消えるという怪奇現象が起こったが、それは、宇宙人が地球に来て行っていることだという。その宇宙人の住んでいる星というのは、百年後の世界で、その世界では、永遠の命は手に入れることができるほどの世界なのだが、身体の消耗はどうしようもないので、この地球に、若い人間の身体をもらい受けにきた」
という話であった。
ここで引っかかったのは、
「百年後の世界」
という言葉であった。
百年後のこの世界が、同じ時間に、別の星に存在するということだろうか?
「同じ時間に違う時間が存在し、それは違う空間だ」
ということになるのだろう。
これは、今考えると、パラレルワールドでも、異次元の世界とも違う感覚で、しかも、それが他の星の世界のことだというのだから、よく分からない。
しいていえば、
「パラレルワールドに近いものだが、その世界がまったく違っているという意味では、厳密にパラレルワールドではないということになる」
ということで、今考えても、正直納得できるものではないが、理屈としては理解できる範囲内のように思えた。
それも、パラレルワールドという概念を分かっているから理解できるのであって、そういう意味では、当時、この番組を見ていた人たちは、誰も疑問に感じなかったのだろうか?
「いやいや、お父さんだって、何か変だなって思いながら見ていたさ。だけど、特撮を理屈で考えながら見ていると、どこかで行き詰ってしまう。逆にいえば、視聴者を行き詰らせるような作品を作ることができれば、俺たちの勝ちだって、きっと脚本家や監督は思っていたんじゃないかな?」
というのであった。
しかもさらって行った宇宙人(未来人?)を超音波のようなものでやっつけると、消えた人間が戻ってくるという設定だったのだ。
「宇宙人の魔法なのか、魔力で自分の星に飛ばしたものを、その宇宙人が消えたからと言って、どうやって戻ってくることができるんだろう?」
と、つかさは子供心に不思議で仕方がなかった。
そんな宇宙を一体どのように発想したのだろうか?
今のつかさであれば、何となくいくつか発想できるが、大きな考えとして二つ浮かんでいた。
ただ、その二つも突き詰めれば一緒のような気がするが、共通点があるということなのだろうか?
まず最初に考えたのは、
「相対性理論」
の原理である。
つまり、
「光速で、どこかに飛べば、そこは、自分たちが遅く進むことで、その宇宙は先に進んでいるということになる。
だから、
「未来の星があってもいいのではないか?」
という考えであるが、
「逆に地球に来る時はどうだったのだろう?」
と考えると辻褄が合わなくなるが、それも、逆理論のようなものが存在し、未来宇宙から来た場合は、時間が遅くならないという理論があるというのは、こじつけであろうか?
ただ、地球以上に発達した星があるというのは、あまり信憑性を感じさせないが、パラレルワールドとして、進歩した地球の姿のような星があるのだとすれば、まだ相対性理論で説明できるだけ、まだ理論的ではないのだろうか。
だから、地球の人間を年を取らないまま、未来の星に連れていくという発想である。
別の世界なのだから、未来の星から地球にきたとしても、過去ではないのだから、歴史を変えても、未来の星に何も影響しないということである。
さて、もう一つの考え方として、
「宇宙の外に存在している異世界の星に連れていかれた」
という発想である。
そこは、今ここにある宇宙とは次元が違う宇宙であり、だから、この世界と同じものが存在していてもおかしくないという考えだ。
まるで、宇宙の切れ目が鏡にでもなっているかのように、まったく同じ世界が広がっているのかも知れない。
だが、そこに住んでいる人間はまったく違った進化を遂げたものであり、たまたま、向こうの方が、進化していたというだけで、その星が、地球の未来であることに変わりはないということであろう。
そして、その世界には、我々のような人類がいるわけではなく、
「全能の神」
がいるのではないだろうか。
古代ギリシャの人は天空の星に、神様や動物を見て、まるで、
「宇宙に死後の世界」
のようなものがあると考えていたのかも知れない。
そういえば、つかさのSF、特撮好きの父親に見せてもらったDVDの中に、
「怪獣墓場」
なるものがあった。
地球で謂われなく、人間に危害を加える、加えない関係なく、人間の生活圏を荒らすというだけのことで、正義のヒーローが葬ってきた怪獣たちである。
怪獣たちの墓場を発見した地球人になりすましているヒーローは、
「可愛そうなことをした」
と言って、怪獣供養を始めたが、宇宙からまた怪獣が来たといって、すぐに任務に戻っていくという内容だった。
そもそも、怪獣や宇宙人がすべて悪いわけではない。
ある話の中に、自分たちの帰る星が爆発し、ジプシーになってしまった、観測目的で母星を離れていた宇宙人が、宇宙船の故障の修理のために立ち寄った地球で、侵略者よばわりされ、攻撃を受けるという理不尽な話もあった。
人間であれば、漂流した総難民を、わけもなく、
「侵略者」
として、処罰するだろうか?
基本的には。相手国との折衝があるのだろうが、そこは、
「母星が爆発して、自分たちだけが生き残った」
と言っているので、母星との関係はないという設定なのだろうが、宇宙の秩序としては、どうなのだろうか?
もし、大きな秩序があって、
「漂流民は助けなければいけない」
というモラルがあったとすれば、それに違反したことになる。
地球だけが、
「そんなものは知らなかった」
と言って済まされるだろうか?
もし、最初の宇宙人を惨殺でもすれば、宇宙連邦軍のようなものが、地球を制裁にやってきたとしても、地球では、
「侵略されている」
と思い、必死になって地球を守ろうとするが、それが果たして正義なのかどうか、それが大きな問題なのである。
そんなことを考えていると、いくら空想特撮だとはいえ、
「教育上いいのだろうか?」
と考えさせられてしあう。
地球では、化学の発展とともに、宇宙がどうなっているかということの研究はかなり進んでいるが、実際に人間が行けているのは、月だったり、火星だったりという程度なのだ。
その向こうには何があるのかというものを、実際に見た人はいない。
望遠鏡などの発展から、ここまで見えていることが驚異的なことなのか、それとも、ここまで見えているのに、人間がたどり着ける範囲が限られているのが、科学が追い付いていないということなのかは分からないが、それだけ宇宙は広いということなのだろう。
だが、そんな宇宙も一旦飛び出して、違う世界に行ってしまえば、例えば、死後の世界などと呼ばれるところは、誰もが死にさえすれば行けるところで、それがいわゆる、
「宇宙の外の宇宙」
だとすれば、
「一度死んだら、生き返ることはできない」
そして、
「生き返ったとしても、別の人間、いや、人間とは限らない生物になってしか、この地球に戻ってくることはできない」
という世界であるとすれば、どこにそんな世界が存在しているというのか、
「やはり、異次元であり、ワームホールのようなものを通っていくことになるのか?」
それとも、
「果てしないくらいの時間がかかって、宇宙空間を飛んでいくことになるのか?」
ということである。
仏教の世界に、
「弥勒菩薩」
と呼ばれる未来仏がいるが、今は菩薩という修行僧であるが、将来、ブッダになるということを約束された修行僧ということなのだが、その未来というのが、
「お釈迦様が入滅後の五十六億七千万年後に、悟りを開いてこの世に降りてこられるのだ」
と言われている。
何とも天文学的な数字ではないか。
しかし、これも、相対性理論で考えれば、それほど先の未来ではないのかも知れない。
宇宙のさらに外宇宙にいる菩薩さまが降りてこられるのに、それだけかかるということであれば、人間が死んでから、あの世に召されるまでに同じくらいの時間がかかり、さらに、そこで再生して、またこっちに戻ってくるということになると、やはり天文学的数字が出てくるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、輪廻転生というものは、本当に気が遠くなるほど先のことであって、なるほど、生まれてきた時に、過去の記憶がないのも分かるというものである。
あまりにも昔の記憶なので自然となくなっているものなのか、それとも、誰かによって消されているのかは分からないが、
「遠い世界との往復」
と考えれば、理屈に合うというものであろう。
案外と、我々の知っている宇宙の外に、死後の世界があるという考え方は、筋が通っている考え方なのかも知れない。
ということになると、アインシュタインの相対性理論は、理論物理学からだけではなく、宗教的な考えも、その根拠に入っているのではないか、だからこそ、理屈に合う計算をできたのかも知れない。
もっといえば、
「アインシュタインという人間は、発見するべくして発見した人間であり、神から選ばれた人間だといっていいのではないか?」
とも考えられるのであった。
つかさは、こんな発想ができるのも、
「自分には、他の人にはない能力がある」
と思っているからで、それが予知能力なのだと思っている。
ただ、予知能力はあっても、それ以上研究するだけの設備もお金も、それ以上の知識もないということで諦めが先に来ているが、これまでの偉人として、科学の発展に貢献した人たちの中には、このような超自然な力が備わっていたと思われる人もたくさんいたに違いない。
それが、アインシュタインであったり、ニュートンであったり、ガリレオなどの天才と呼ばれる人たちだったのではないかと考えられる。
ただ、天才というものは、えてして、
「変わり者」
と言われることが多い。
なぜ、そう言われるのかが分からないが、きっと人間は、
「自分たちと少しでも違った能力を持っていれば、それは恐ろしい人間なんだ」
という思いがあるのではないだろうか?
例えば、予言者などはそうであろう。
人によっては、予言者を、
「神の使い」
として崇めている人たちもたくさんいるが、彼らの存在は、時の支配者や権力者にとっては、困った存在であることは間違いないだろう。
自分たちが支配しているということに、罪悪感を感じていたかどうか分からないが、予言者や宗教団体の教祖というものは、
「人民を救う」
という名目で、支配者や権力者を糾弾しようとする。
そして、
「人間は皆平等だ」
などと言われると、せっかくの支配階級の存在が危うくなってしまうではないか。
そんなことは、彼らにとって許されない。
自分たちの存在自体が脅かされることになるからだ。
つかさは、自分が中途半端に能力を有していると思っていることを憂慮していた。
「憂慮に堪えない」
というところまではないが、
「これは一種の欲のようなものだ」
と思っている。
他の人にはないものが備わっている。そして、その能力を発揮できるのかと思えば、
「備わっている」
ということだけが分かっていて、それ以上、何をどうすればいいのかということが分からないという、中途半端な状態に、苛立ちを覚えているのだ。
もっとも、
「その能力を誰のために使うのか?」
ということが分かっていないから、先が見えないのであって、
「自分に備わっているのだから、自分だけのために使えばそれでいいんだ」
と思えば、それも間違いではないと思う。
しかし、
「本当にそれでいいのだろうか?」
と考えてしまうと、それ以上、何をどう解釈すればいいのか分からないのだ。
そんな時、頭の中をいろいろな発想が浮かんでくる。今まではこんなことはなかったはずなのに、どこからこんな発想が浮かんでくるのかということを考えると、
「ちひろと、かえでの存在が私にこのような考えを抱かせるんだ」
と感じた。
ちひろも、かえでも、皆そんな意識はない。ただ、知的好奇心が、他の人よりも強く、その分、
「他の人にない発想が生まれているのだろう」
と考える。
それは、つかさにも言えることで、つかさは、こんな発想は、自分のように予知能力のようなものを感じている人間だからできるのだろうと思っていたが、実際にはどうなのだろう?
「ひょっとすると、私と同じような力を、ちひろとかえでの二人も、持っているのかも知れない」
と、感じるようになった。
つかさが感じている、
「三すくみの関係」
同じ発想を少なくとも、ちひろと、かえでも感じているのかも知れない。
ただ、三すくみの方向が同じなのかどうか、そこは疑問であった。
少なくとも、かえでは違っているように思える。それはつかさが、かえでを苦手だと思っているからなのかも知れないが、信憑性がないわけではない。
そもそも、三すくみの考え方というのは、宗教からきているのかも知れないと思うと、前述の、弥勒菩薩と、
「宇宙喉との宇宙」
に、死後の世界が広がっているという考えも成り立つ気がする。
もっといえば、
「今想像されているいろいろな世界。これからも、もっと作られるかも知れないが、そんな世界というのは、すべて、宇宙の外の宇宙にあるという考えは、突飛すぎる考えであろうか?」
とつかさは考えていた。
実際の地球というのは、想像上の一部しか存在していなくて、別の世界には、ちゃんと存在しているのかも知れない。
生まれ変わる時に、完全に消したはずの記憶が、ひょんなことから思い出す人がいてもおかしくはない。それが、形になって行く世界が、あくまでも空想の世界と言われているが、実際には外の宇宙に存在しているとすれば、一部しか知らないという発想も、何かに似ているのではないだろうか?
つまりは、
「脳の十パーセント神話」
というものと似ているのではないか。
皆本当はすべてを知っていて、その残りの九十パーセントというのは、超能力などではなく、消されたはずの記憶であり、思い出せないようにされているだけのものだとすれば、超能力と呼ばれることで、
「どうせ一般人の俺たちには、そんな超能力なんか、備わっているわけはないんだ」
という意識を持たせることで、敢えて、
「封印された記憶」
を引き出すことを、意識させないという、少し回りくどいやり方で、隠しているのかも知れないと思う。
しかし、一見回りくどいように見えるが、このやり方が一番しっくりくるもので、
「記憶と、超能力とは違うものなんだ」
と思い込ませさえすれば、思い出さなくてもいいことは思い出さないだろう。
もし、思い出そうとすると、きっと心の中で、
「ここには踏み込んではいけない何かがある」
と思わせるのだろう。
それを感じさせるのが、自分の中にいるもう一人の自分で、その自分が表に出てきて、自分を怖がらせる力があるとすれば、それがドッペルゲンガーの正体なのかも知れない。
そこまでして、予知能力を封じたいのに、予知能力を醸し出すことで、やむおえず、ドッペルゲンガーを表に出した。
しかし、これはタブーなことであり、ドッペルゲンガーを出すことは、最終手段であり、それでも予知能力が収まらなければ、この世から消えるしかないのだろう。
そう考えると、
「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」
と言われていることや、これまでの著名人が、形は様々であるが、
「もう一人の自分を見た」
というような、まるで予知能力的なことを口にすると、もういけない。
この世に存在することが許されなくなり。死んでしまうということになるのだろう。
これが、ドッペルゲンガーの都市伝説だとすれば、この伝説には、見えない何かの力が働いているということであり、それこそが都市伝説なのだ。
ということは、
「実際に見ていることではなく、さらに一歩踏み込んだところが都市伝説なのではないか?」
と考えると、無限に広がるものを創造してしまう。
「合わせ鏡」
であったり、
「マトリョーシカ人形」
である。
そうやって、発想はまた元の場所に戻ってくるのである。
「宇宙の外にある、もう一つの宇宙」
というものを、パラレルワールドのようなものだと考えると、
「死後の世界」
と考えることで、その二つを行き来することができるのが、
「生まれる時と、死ぬ時」
である。
「生まれることと、死ぬことは、その人には選ぶことができない」
と言われる。
確かに生まれることを自分で意識することはできない。誰の親の元に生まれるのか、それはその人の運命だといってもいいだろう。
だから、よく皆がいうのは、
「もっと他の親から生まれたかった」
という言葉である。
本人とすれば、本音なのかも知れないが、親とすれば、これほど脱力感と絶望感に満ちた言葉はないだろう。
何かを目標に頑張っていたとしても、そこで、気力は一旦キレてしまう。
それを元に戻そうとすると、結構難しいだろう。意識がどこまで身体から憑依してしまったかのようになるかという問題で、下手をすると、魂が戻ってこないくらいのショックを受けることになる。
普段から気を張って生きている人間だとそういうことになるのだろうが、それだけのことなのだといえるだろうか?
子供だけを生きがいにして生きている人も少なくない。それだけ大人になると、それまで思っていた自分の目標というものをなくしてしまうのだ。
親は、
「自分だから、ダメだったんだ。子供にはそんな思いはさせたくない」
と思うことで、自分の夢を子供に託そうとする。
子供の頃は大人に、そして親には従順なので、親の思っているような子供は成長してくれるのだが、いつしか、子供は逆らうようになる。
それが、反抗期というものなのか、反抗期というのは、思春期と重なっていることが多い、小学生の高学年から、中学生にかけて。晩生の子は、高校生の頃まで、反抗期というものは存在する。
親と子の確執というのは、一度起こってしまうと、まず消えることはない。お互いに蟠りとなり、
「相手が親だから」
と子供は思い、
「相手が子供だから」
と親は思うのだ。
それぞれ、相手に気を遣っているつもりでも、相手はそれを分かっているから、変に気を遣わると、自分が負けたような気分になるのだ。それが、
「親子の確執」
と呼ばれるもので、
「血の繋がりの深さ」
ということになるのだろう。
よく言われることで、例えば、母親が何らかの理由で、子供が小さい頃に生き別れたとすれば、それらしい子が、もし、施設にいたりすれば、
「親だったら、自分の子供くらい分かって同然だ」
などと、ドラマなどのセリフなどにある。
あの言葉には、いつも不思議な感覚を覚えていた。
「いくら血のつながりがあるからと言って、赤ん坊の頃に別れた子供を当てるなんてことができるのだろうか?」
と思うのだ。
確かに分かる人もいるだろう。小さい頃の特徴、例えばほくろの位置だったりという特徴があって、それを覚えていたとすれば、その特徴で子供が誰かということを当てることくらいできるだろう。
だから、
「自分の子供が分かる」
というのは、それこそ、超能力のようなものでもなければ分かりっこないと思うのだ。
そういう意味で、つかさは、
「私だったら、同じシチュエーションになったら、分かるかも知れないな。むしろ私のような人にしか分かりっこないんだ」
と思っている。
人間の意識の中には、
「絶対ということはありえない」
という思いがある。
いくら、血が繋がっているとはいえ、繋がっているだけに、逆にプレッシャーがかかり、なかなか決められないだろう。
もし間違えてしまったら、
「間違えちゃった」
などと言って、バツの悪そうな顔をしてとぼけるようなマネはとてもではないが、できるはずなどないだろう。
それができるのは、本当の天真爛漫な人であり、しかも、
「その人であれば、まわりの人も許してくれる」
というような感じでなければ、うまくいくはずがない。
そんなことを思っていると、
「かえでだったらどうだろう?」
と考えるようになっていたのだ。
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