第5話 三すくみ

 つかさは、そんなことを普段から考えている子で、自分に予知能力も感じていた。

 だが、彼女はそれを隠そうとはしない。却って、

「私には、予知能力のようなものがあってね」

 と、フランクに話したりしていた。

 それはきっと、

「木を隠すには、森の中」

 という言葉があるように、ウソだって、本当のことの中に隠してしまえば分からないということと同じ発想で、敢えて、ほらを吹いているような言い方をしたのかも知れない。

 だが、つかさと仲が良かったちひろには、そんなつかさの魂胆が垣間見えていたような気がしたのだった。

「つかさって、時々突飛なことをいうけど、あれって、本当に予知していることなの?」

 と聞いてみたことがあったが、

「そうね。そうかも知れないわ。でも、その時はいうべきだと思うんだけど、後から考えると、言わなかった方がよかったわって、いつも後悔するのよ」

 と言って笑っていた。

 それは、つかさが虚勢を張っているだけではないかと思ったが、それ以上が追及しなかった。

「やはりつかさには、何か見えない力のようなものがあると、彼女自身が自覚していることに間違いはないようね」

 というのだった。

 どういう発想になるのかは、ちひろにもよく分からなかった。本当は興味があることなので、もっと聞いてみたいと思うことなのだが、必要以上には聞かないようにした。

 なぜなら、変に聞いて、このタイミングで友達関係が壊れるのを懸念したからであったのだ。

 つかさは、ちひろを通じてかえでとも知り合った。

 二人のことをいろいろ知っていくうちに、何か予知能力が働いたのかも知れないが、さらに二人に対して興味が深まったというのも事実である、

「ちひろも、かえでも、何かお互いに超自然的なものを信じているのだろうけど、それぞれに共通点もあれば、決して交わることのないところもあって、面白い」

 と感じたことが、興味を深めたことだった。

 かえでからは、

「タイムパラドックスと、パラレルワールドの話」

 そしてちひろからは、

「五分前のもう一人の自分」

 という話。

 ぞれぞれに、似たような話で、共通点もかなりあるが、交わらないであろうと思われるところもかなりある。

 それぞれに、どんでん返しのような、

「片方が表に出ている時は決して、もう一方が顔を出すことはない」

 という発想に似ている。

 それは、昼と夜のような関係のようではないだろうか?

 つかさは、昼と夜という関係を考えると、そこで一つ考えたのが、

「宇宙」

 という発想であった。

 つかさは、今まで宇宙というものに対して、自分独自の考えを持っていた。

 ビッグバンであったり、他の星に別の生物がいるのではないか?

 などということを、いろいろな本で読んだりしていた。

 宇宙というと、どうしても、

「アインシュタインの、相対性理論」

 とは切っても切り離せないということになり、これから、何をどう考えていいのか、疑問でしかなかった。

 ただ、そこで

「自分の超能力のようなものが発揮できれば」

 と考えたのだが、それを促進してくれそうなのが、かえでとちひろだったのだ。

「二人には、私にもない能力が存在する」

 と、つかさは考えた。

 宇宙空間というものを考えた時、まったく別のものが頭に浮かんできた。

 それは、いくつかあり、まず一番最初に思いつくのは、

「合わせ鏡」

 と言われるものである。

 合わせ鏡というのは、左右であったり、前後に鏡をそれぞれ自分に向けて置くと、無限に自分の姿が映っていくというものである。

 隣の鏡にはまず自分の姿が映り、そして、その向こう側には、反対の鏡が映っている。その向こう側の鏡には、さらに、こちらの姿が映っていて……、ということになると、果てしなく、自分の姿が映し出されることになる。

 実に神秘的なことであるが、実に神秘的なことである。最初にこのことに気づいた人は、かなりの衝撃を感じたことであろう。

 このような作用を、

「合わせ鏡」

 というのだが、合わせ鏡には、

「してはいけないこと」

 として、、いくつかの都市伝説が残っている。

 まず一つ目は、

「自分の未来が見える」

 というもので、見えるのは、自分の未来の姿だという。

 予知能力に近いものではあるが、自分の死に際が見えるという話もあるので、あまり気持ちのいいものではない。

 また、そう考えてみると、ドッペルゲンガーの話とも関わってくるように思われるので、そのあたりの都市伝説とも、何か関わっているのかも知れない。

 いや、都市伝説には何が起こるかということのパターンがあって、逆に奇妙なことに、そのパターンをはめ込むことで、問題になることだってあるだる。

 そういう意味で、都市伝説にも種類があって、当てはめることさえできれば、いくらでも、都市伝説を作ることができるというのも、一つの考え方であろうか。

 自分の死に際が見えるということは、鏡の中に、

「ドッペルゲンガーがいる」

 ということなのかも知れない。

 どこか一つの空間に、自分がもう一人映っていた李、奇数偶数で向きが決まっているはずなのに、パターンに合わない自分がいたりすると、それがドッペルゲンガーなのではあるまいか?

 さて、もう一つは、一番都市伝説に近く、サイコホラーの様相を呈しているのが、

「悪魔が呼び出される]

 というものだ。

 ただ、これは何もしなければ起こらないことで、何か決まった呪文のようなものがあり、それを使うと呼び出せるというものだ。

「夜に口笛を吹くと、蛇が寄ってくる」

 という都市伝説のようなものだが、この場合の理由らしきものは分かっているのだ。

 口笛を吹くと、蛇だけではなく、

「泥棒が寄ってくる」

 という話もあるらしい。

 泥棒の場合も、当然理由がある。

 泥棒というと、仲間がいて、連絡の際に、口笛を使ったりすることがあるだろう。だから、それにあやかってのことではないだろうか。

 ただ、今は深夜まで起きている人が多かったり、お店も二十四時間のところも多く、よほどのところでなければ、

「草木も眠る丑三つ時」

 などと言われるような時間帯は、都会で訪れるようなことはないのである。

 そして、この蛇の場合も理由らしきものがある。

 インドやアラビアなどでは、蛇使いなるものがいて、

「笛を使って、蛇を躍らせる」

 というようなことをしているところがある。だから、口笛であっても、蛇はその習性で、蛇が集まってくると言われるようになったのだろう。

 だが、悪魔を呼び出すことに関しては、やはり呪文でもなければ無理であろう。わざわざ悪魔を呼び出してどうしようというのか? しかも、悪魔を呼び出して、願いを叶えてもらおうとすると、必ず、自分の命などの代償が求められる。死を覚悟してでも誰かを呪い殺したいというほどの人間でなければ、普通はそんなことはしないだろう。

 そして、もう一つは、

「この世のものではないものが見える」

 というものだ。

 この場合は、鏡と鏡の間に自分を置くわけではなく、人形を置くというものだ。

 人形というものは、人や動物の形を模しているので、

「魂が宿る」

 と言われるものであった。

 その人形が、合わせ鏡の効力によって、無限に映し出されるのだから、

「ありえないことが映し出される」

 という事態に陥ったとしても、おかしくはないだろう。

 例えば、

「本来であれば、左右対称に映るはずなのに、左右対称ではなかった」

あるいは、

「人形の表情が恐ろしい表情に変わっていた」

 などと言われるものがよく聞かれるものだという。

 さらに、

「鏡というものが、異次元の世界の入り口ではないか?」

 という言い伝えがあるが、一枚ではその効力は少ないが、合わせ鏡にすることによって、さらに、その力が強まることで、異世界との境界がなくなり、完全に通れるようになったことで、不吉や災難が、こちらの世にやってくるという考え方である。

 鏡に異世界の発想を絡ませることで、さらに神秘性をハッキリさせるというこになるだろう。

 そんな恐ろしいものを調べれば調べるほど、異世界であったり、悪魔であったりと、都市伝説がいくらでも生まれる土台だといってもいいだろう。

 さて、もう一つは、この合わせ鏡に、

「突き詰めていけば、共通点が多い」

 と考えられる、

「マトリョーシカ」

 のようなものが考えられる。

 マトリョーシカというのは、ロシアの民芸品と言われる人形であり、

 一つの大きな人形が蓋のようになっていて、それを外すと、またその中に少し小さな人形が入っているという仕掛けである。

 さらに、その蓋を開けると、さらにその中に人形が……。

 これがマトリョーシカ人形である。

 そのマトリョーシカ人形は、入れ子になっているので、どんどん中を開けていくと、少しずつ小さな人形が出ていくという仕掛けである。

 これは、どこか合わせ鏡に似ていないだろうか?

 つまりは、

「無限」

 という言葉が共通項ではないかと思うのだ。

 合わせ鏡も、左右に映っている自分の姿が、どこまでも、映り続けることになる。反対川にもこちらにも相手を映し出すものがあるので当たり前のことなのだが、その姿はどんどん小さくなっていく。

 だが、理論的にはどうなのだろう?

 どんどん小さくはなっていくが、ゼロになるということはない。それはマトリョーシカでも同じことで、理論的にであるが、無限にマトリョーシカ人形を作ることができるのだとすれば、一つだけいえることとして、

「最後にゼロになることはない」

 ということだ。

 だから、無限と言えるのであろう。

 ただ、これは理論的なことであって、理屈だけのことだ。つまりは、

「無限は、いくらで割ったとしても、無限でしかない」

 という考え方と、もし、最後にゼロになると仮定すると、

「逆に何かから割った数を回答だとすると、回答がゼロになるような掛け算というのはありえない」

 と言えるだろう、

 これは、ゼロ除算と呼ばれる計算方法に似ていて、

「ゼロに何を掛けてもゼロでしかないということ

 であり、割られる数は何であっても、かまわないということになる。

 つまりは、計算としては、

「解なし」

 ということで、

「してはいけない計算」

 と言われている。

 つまりは、無限というものは、計算の世界においては、実に曖昧なものであり、

「大きくても無限、小さくても無限」

 というのではないかと思うのだ。

 よく言われるのは、

「無限大」

 という言葉はよく聞くが、

「無限小」

 という言葉はほとんど聞かない。

 だが、実際には住学用語としては存在しているのだが、普通の社会で聞くことはないだろう。専門用語と言ってもいい。

 それだけ、無限というと、大きいという意識が強く、小さい砲の無限という感覚はほどんどないといってもいい。

「ゼロに限りなく近いものが、無限小」

 ということであろう。

 そして、このマトリョーシカと、合わせ鏡を考えていて、もう一つの共通点が、

「スパイラル」

 というものであった。

 螺旋階段と言えばいいだろうか?

 平面なら蚊取り線香であり、立体なら螺旋階段という、

「パラレルワールド」

 において、かえでが考えていたことであったが、まさか、同じ発想を違うことで考えているなど、かえでも、つかさも考えが及ぶはずもないだろう。

 つかさが、ちひろに興味を持ち、その友達である、かえでに興味を持ったというのは、そういう意味で、別々のことを考えていても、共通したところに落ち着いてくるからでないだろうか?

 この三人は、一種の、

「三すくみ」

 を感じる。

 じゃんけんであったり、動物などの三すくみなどいろいろあるが、三すくみと言ってつかさが思いつくのは、

「動物の三すくみ」

 であった。

「ヘビはカエルを呑み、カエルはナメクジを食べる。しかし、ナメクジはヘビを溶かしてしまう」

 というものである。

 この考えでいけば、それぞれが同じ場所にいるとすれば、どうなるだろう?

 お互いにけん制しあって、動けなくなるのではないか。

 ヘビは、カエルを食べようとすれば、ナメクジに溶かされてしまう。カエルは、ナメクジを食べようとすると、自分がヘビに食べられる。そして、ナメクジはヘビを溶かそうとすると、カエルに食べられる。

 一見それだけに思うが作用はそうではない。もし、自分が優位に立っている相手を倒してしまえば、残るのは、苦手なものだけだ。しかし、今の状況であれば、自分が優位に立っているものが、自分の天敵の、天敵になっているので、下手に存在を消してしまうと、相手は楽々と自分を滅してしまうことになる。そういう意味で、まったく動きが取れないということになるのだ。

 こんな状態こそ、

「永遠に続く膠着状態」

 であり、大きさも何も変わらないが、

「無限の不変の法則」

 とでもいえばいいのか、

 無限というのは、大もあれば、小もある。そして不変もあるということで、実に面白いものだといえるのではないだろうか。

 つかさは、自分たち三人を、

「まるで三すくみに関係のようだ」

 と思っているが、皆どう感じているのだろうか?

 つかさとしては、この三すくみの強弱がどうなっているのかを考えてみた。

 誰が誰に強く、誰に弱いかということである。

 自分は、実に慎重派だと思っているので、一番遠いかえでが苦手だと思っている。

 あの天真爛漫さは、マネができないと思うし、ただ、その天真爛漫な性格に、何か矛盾のようなものを感じるのだった。

 それがどこからくるものなのか分からず、そのせいか、苦手意識があるのだろう。

 ということになると、自分が得意なのは、ちひろということになる。

 ちひろとは同じようなところが多いので、結構性格的なところも分かっている。しかも、自分の性格がちひろに輪をかけたような慎重派だというのも分かっていることで、ちひろには強いのだろうと思った。

 ちひろよりもさらに慎重なのは、きっと、

「自分には予知能力のようなものがあるからだ」

 と思ってるかrだ。

 下手にこのことを口外しようなどとすれば、何かよからぬことが起こりそうな気がするのだ。

 元々は、ちひろとかえでの二人の関係性に、矛盾というのか、不可思議なもの、それは距離感だとは思うのだが、そのようなものが見えたことで、自分が、三すくみの一角を担うことで、

「三人がお互いにけん制しあうこの関係が三人、それぞれにいいのかも知れない」

 と感じたのだ。

 三すくみの関係というのは、三すくみであるということが分かっていれば、一方向が決まれば、すべてが決まったも同然である。

 流れは一本しかなく、その円が時計回りに回っているのか、それとも、逆なのかというだけのことである。

 そこに、それぞれの人間を置いていくだけのことなのだが、これも結局、皆が一歩も動かなければ、無限に続くということを意味しているのだろう。

 ただ、人間というのは、必ず誰かが動く。耐えきれなくなって動くのか、それとも、誰かが死ぬということで動くのか、それとも、何かの外的要因で動くのか、その場合は、意識的なのか、無意識なのかということも問題になってくるに違いない。

 そんな三すくみの関係は、

「平面なのか立体なのか、どっちなのだろうか?」

 とも考えられる。

 それによって、蚊取り線香のような渦巻になるのか、

「負のスパイラル」

 という、立体的な螺旋階段になるのかの問題である。

 もし、三すくみが螺旋階段であるとすれば、まるで、

「メビウスの輪」

 に見られるような矛盾が発生し、それが、

「無限の膠着状態を開放するカギ」

 なのかも知れないと考えた。

 しかし、三すくみは、破った瞬間に、運命は決まってしまう。結局、すべてのものが滅びるということを示している。

 どれかが動いて、そのために、動いたものを殺して生き残ったとしても、結局は、食べ物がないわけなので、生き残れない。

 もっとも、三すくみの状態で食べることができないのだから、同じことであるが、そう考えると、三すくみはどうなるのだろう?

 そう考えた時、不思議な光景を思いついた。

 まるで、

「メビウスの輪」

 に近い考えだが、なぜすぐに思いつかなかったのか、分からないと思うようなことであった、

 それは、

「ヘビが自分の身体を、尻尾から飲み込んでいけば、どうなるのだろうか?」

 という考え方である。

 突っ込みどころは満載だが、発想としては、三すくみに近いものがある。

 それと似たようなもので、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 というものとも、共通性がある。

 要するに、

「世の中には、似たような矛盾していることが、ちょっと考えれば、たくさんある」

 ということになるのであろう。

 しかし、つかさも、ちひろとかえでの関係性がよく分からない。

 この三すくみを考えると、

「かえでは、ちひろを苦手にしている」

 ということになるであろう。

 しかし考えてみれば、どうもそうではないような気がする。

 別にその証拠になるような場面を見たわけでもないし、二人の素振りから感じることでもない。

 ただ、それぞれに、弱いところ、強いところを補っているかのような気がするのだ。

 それはまるで、

「三すくみの関係を二人で演じている」

 というような感じである。

 そんな関係が二人で築けるわけはない。そうなると、これもおかしな考えでもあるのだが、

「二人のうちのどちらかが、相手に、もう一人の相手を感じているのかも知れない」

 という思いであった。

 どっちがどっちというわけではないのだが、それは、その時と場合によって違う気がする。しかも、そのタイミングが絶妙なので、三すくみのような関係を感じさせずに、どちらがどちらにその時はもう一人を感じているのか分からない。

 それは本人たちにとっても同じことであろう。

 ただ、これも考え方だが、かえでとちひろは、お互いの相手に、もう一人の相手を感じているわけではなく、もう一人の自分が見えているのかも知れない。

 それは、もう一人の自分が見えた時、

「もう一人の自分というのは、無数にいるんじゃないか?」

 と感じたのかお知れない。

 それが、まるで、マトリョーシカであったり、合わせ鏡であったりする。

 三すくみも無限だと考えれば、

「この三人の関係は、まるで宇宙に通じるものがあるのではないだろうか?」

 と考えられなくもない。

 かなり壮大な考え方だが、

「宇宙というものも、同じ無限でも、違う意味の無限を秘めているのかも知れない」

 と感じていた。

 基本的に宇宙は無限だと考えている人は多いだろう。

 そうでなければ、

「宇宙の外は。どうなっているんだろう?」

 という疑問が起こっても無理もないことだ。

 実際には、そんな宇宙の外には、さらい別の宇宙が広がっているという考えもあったりする。

 そういえば、つかさは子供の頃から、宇宙の外に関して、自分なりの発想を持っていたのだ。

 それは、

「宇宙の外に広がっているのは、死後の世界であったり、異次元と呼ばれる世界であり、その世界は、この宇宙と酷似した、まるで鏡のような宇宙ではないか?」

 という思いであった。

 つまり、

「人は死ぬと、その別宇宙に飛んでいき、そこでも同じように生きていて、そこで死ぬとこっちに戻ってくる」

 という考えであった。

 つまりは、

「輪廻転生」

 という考え方にも似ているし、異世界や死後の世界、時間がずれた世界という意味で、かえでや、ちひろが思い描いている世界とも共通しているところがある。

 そういう意味で、つかさは、ちひろやかえでと出会う運命にあったともいえるのではないだろうか。

 ただ、そこまでまだつかさは、ちひろやかえでのことを分かっていない。もっと分かるようになれば、宇宙の神秘の謎にも近づけるのではないかと思った。

 つかさは、父親が、昔の特撮が好きだったことで、聞かされたことであったが、面白いエピソードのドラマがあったといって話してくれたのを思い出した。

 あれは、地球上で、人間が消えるという事件があった。人が見ている目の前で、忽然と消えていくのだ。消滅するといってもいい。

 その話の続きを聞いた時、まだ子供だったので、理解できなかったが、今なら少し理解できる気がする。発想が難しいというのか、当時、そこまでいろいろな発想がなかったというのか、そういう意味で、理解できなかったのだろう。

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