第4話 伝説やおとぎ話の真相
そんなふたりを表から見ていると、結構面倒臭く見えてくるものなのかも知れない。
特に、ちひろの側を見ている人にとっては、かえでが何を考えているのか、分からないということを思う人はいたかも知れない。これまでちひろの友達で、ちひろからかえでを紹介された人は、心の中で、
「どうしてちひろのような女の子の友達に、かえでのような子がいるんだろう?」
というものだった。
いかにも性格的に合っているようには見えないし、それどころか、二人の違いを考えていると、まるでちひろの性格を、かえでが奪っているように見えるのは、ちひろの友達に共通したことだった。
もちろん、皆それぞれ自分だけで思っていることであって、他の人も同じことを思っているなぞ、皆思ってもいなかったようだ。
だが、そんな中で一人だけ、皆が感じていることであり、二人がこのまま仲良くしていると、何かまわりを巻き込むような事件を引き起こすのではないかと感じているのだった。
彼女は、つかさという女の子だった。
ちひろの友達の中でも特に仲がいい友達であり、自他ともに、
「二人は親友だ」
と、言われるようになっていたのだ。
つかさは、ちひろに輪をかけたような慎重な性格で、あまり行動的ではない。しかし、何か起こりそうな時、一番に行動を起こすのはつかさだった。最初は、そんなつかさを気持ち悪いとばかりに思っていた人も多かったが、次第に、そんなつかさを見直す人も出てきた。
少なくとも、ちひろはそうであり、つかさの一言一言を気にしながら聞くようになってきた。
「つかさって、何か予知能力のようなものがあったりするの?」
と聞いたことがあった。
結果的に何かが起こる前に、一番最初に行動を起こすつかさのことを気にして、正直に思っていることを聞いてみたのだ。
「何? それってまるで私が地震が起こる前のナマズのような予知能力でも持っていると感じているということなの?」
とはぐらかすような言い方をしてきたので、ちひろは、そんなつかさを見て、さらに真剣な顔つきで、つかさを正面に見ながら、
「うん」
と頷いたのだ。
それを見て、つかさの方も、もうはぐらかすのは失礼だと思ったのだろう。
「予知能力というところまではいかないと思うんだけど、何か感じることはありますね。でも、だからと言って、皆にというわけではないんですよ。きっと霊感のようなものだろうから、全員に対してというのも違うと思うので、私が感じている時は、ちひろさんと一緒にいる時が多いような気がするんですよ。ひょっとすると、ちひろさんが、私の能力を引き出してくれているのかも知れないわ」
というのだった。
それを見て、ちひろが、少し後ずさりをしたような気がした。
「ほらね、そうやって引いたりするでしょう? それが嫌だから、あまり触れたくなかったのよね」
と、つかさは、あからさまに感じたことを言った。
「そんなことないわ。だって、そううあって正直に言ってくれた人にそんな失礼なことは思いたくないし、そうやってつかさが私に怒りをぶつけてくれるのは、本当は一緒にいたいと思ってくれているからなんじゃないのかしら? それを思うと、私は決して、引いたりなんかしていないと思うのよ」
という、ちひろに、
「そう? 本当に?」
と、今度はまるでつかさの方が相手の様子を見ているかのように感じ、却って、つかさにはありがたかった。
「ええ、もちろんよ」
と言われると、つかさも気分が少し晴れたような気がした。
さすがに、本当に予知能力があるかどうか、疑わしいと思うちひろだったが、あってもなくても、友達として一緒にいる分には、何も関係がないということを感じるちひろだった。
つかさは、そんな自分に予知能力があるかどうかというよりも、
「この能力が霊感なのか、それとも、第六感と呼ばれるものなのか、どっちかなのか。どっちでもないのかが気になる?}
というものであった。
つかさは、自分に予知能力のようなものがあるとは、まわりが思っているよりも強く感じている。それは自分のことなのだから、当たり前だといえるだろうが、もう一つ考えているのは、
「思っているということと、感じているということの違い」
というものであった。
自分で思っているということは、何かの理論に基づいて感じていることなのだろうから、感じているということよりも、一歩先のことのように思っている。
しかし、感じているというのは、また別の世界ではないかと思うこともあった。なぜなら、
「思うというのは、感じるという意識がなくとも、思うことはできるのではないか?」
と思ったからで、感じるというのは、五感で感じたり、思考を働かせるための第一段階ではあると思うが、感じなくとも思うことだってあってもいいと思うのは、つかさだけだろうか。
「人間は自分の脳の十パーセントほどしか使用していない」
という、いわゆる
「脳の十パーセント神話」
と呼ばれるものである。
つまり、残りの九十パーセントの部分は、人間の持っている潜在意識のほとんどと言えることであり、それを実際に使用できるようになるにはどうすればいいか? という研究もおこなわれていることだろう。
しかし、少し考えてみれば、これは恐ろしい予感を秘めているといってもいい。
これを、
「フランケンシュタイン症候群」
と呼ばれるものと、微妙に絡んでくるという考え方である。
つまりは、
「創造主(アブラハムの宗教の“神”)に成り代わって人造人間やロボットといった被造物(=生命)を創造することへのあこがれと、さらにはその被造物によって創造主である人間が滅ぼされるのではないかという恐れが入り混じった複雑な感情・心理のこと」
というように定義されているが、
「神でもない人間が、発揮されていないものを、掘り返して、いいものなのだろうか?」 ということに繋がってくる。
昔から、聖書の中や、おとぎ話などに見られる、
「見るなのタブー」
というものを考えてみれば、分かることで、昔話の、雪女や浦島太郎、さらには聖書に出てきた、ソドムの村のような話の中で、
「見てはいけない」
「開けてはいけない」
と言われたことを破って、最後には悲惨な目に遭ってしまったという話はたくさんあるではないか。
フランケンシュタイン症候群というのもそれと同じで、
「開けてはいけないパンドラの匣だ」
と言えるのではないだろうか。
人間の脳の残り九十パーセントの部分も、本当は開けてはいけないところであり、そのように、人間は作られている。それを破ってしまうと、どうなるか?
フランケンシュタイン症候群で考えれば、人間の心を持った、今の人間以上尾能力を持つ人たちが増えてくれば、どうなるか?
人間には欲というっものがある。そこには征服欲というものがあり、
「他の人よりも明らかに優れている自分が、頂点に立たないでどうする? 私は選ばれた人間なんだ」
ということで、その力をいかんなく発揮すれば、下手をすると、今の人間界の秩序やルール、モラルなどと呼ばれるものをすべて崩壊させ、自分のためだけの世の中を作ろうとすると考えてもいいだろう。
この考えを阻止するため、ロボット工学では、
「ロボット工学三原則」
が、立ちはだかってくるのだった。
それにしても、ロボットというものが、まだ完成もしていないのに、そのロボットが人間に対して危害を加えたり、逆に人間を支配してしまう世界を考えるなど、小説家の人たちの頭はどうなっているのだろうと感じてしまう。
ロボットというものが、確かに、タイムマシンと双璧で、近未来の創造物として開発されるもののだと思っていたが、その両方ともに、それぞれ不可能だと思われることが先に見つかったことで、開発が遅れている。しかし、これは開発されてできてしまってから問題になるよりもかなりいいことではないか。
そう考えると、昔の小説家にしても、科学者にしても、
「まるで予知能力でもあるんじゃないか?」
と思わせるではないか。
考えてみれば、今の文明の最先端ともいえるIT関係の開発において、
「何かが本番を迎える時は、絶えず、最悪のことを考えて対応しないといけない」
という話を聞いたことがある。
世の中で、何かのシステムが変わったりした時、ほぼ例外なく、何かのトラブルが発生するということはつきものである。
大きな金融機関が合併することで、システム統合をしたことで、数日間、全世界の会社の取引ができなかったり、ATMにカードを吸い込まれたまま出てこないなどのトラブルが、全国のATMで発生し、大混乱を発生させたりして、大問題になったりしたことだってあったではないか。
本人たちは、最善を尽くしているつもりでも、思ってもいなかったことからトラブルは起こる。
それを考えれば。
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
という言葉を思い出し。可能性が無限にあるのだから、そのすべてを理解して、事前に対応するなんてできっこないとどうしても思ってしまう。
「その思い込みがあるから、却って、失敗に繋がるのではないか?」
と、つかさは考えていた。
「あまりネガティブになると、うまくいくものもうまくいかなくなる」
とも言われるが、それはあくまでも精神論であり、システムに携わっている人間は。それでは済まされないということになる。
そう思うと、やはり、最悪の状況を考えて、あらゆる手を尽くすのは当たり前のことで、それが仕事というものだということになるのだろう。
だが、ロボット開発にしても、タイムトラベルにしても、考えれば考えるほど矛盾が生まれてしまうというのは、
「そこが人間の限界なのではないか?」
ということも言えるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「神と人間の違いは、限界を考えるか考えないのかも違いなのかも知れない」
と感じた。
人間はどうしても限界を感じてしまう。だから、限界を感じないものとして創造した神というものに憧れを持ち、嫉妬を感じ、そのために、ギリシャ神話などでは、オリンポスの神々が、
「いかに、人間臭いか?」
ということを著しているのだろう。
特に全能の神であるといわれるゼウスが一番嫉妬深かったり、人間が神に近づこうとすることを、必要以上に嫌なものとして感じるのはそういうところからきているのかも知れない。
そう考えると、これから開発するはずのものを、まずは、否定から入るというのは、それが人間の防衛本能だといえるのか、それとも、防衛本能からくる、予知能力が覚醒したということなのか、本人たちは、きっとそれを予知能力だとは思っていないだろう。それにその考えを思いついた時、まさかそんなにも開発の足枷になってしまうとは、想像もしていなかっただろうからである。
確かに、
「こんなことを言えば、学者を刺激したり、開発の問題になってしまうかも知れないとも思っただろうが、しょせんは素人の思いつきで、自分の小説としての、ただのネタとして使っているだけだ」
と思うと、そこまで難しい問題だとは思わないことだろう。
人間に限界があるということを考ええ、そしてそれが神との違いだと考えると、
「別に神に近づきたいとは思わない」
と感じる。
万能であるがゆえに、嫉妬深かったり、下しか見ないというのが辛く感じられるのではないかと思うからだった。
そんな予知能力を、霊感であったり、第六感というものに位置付けるのは、やはり、
「脳の十パーセント神話」
と言われるものからきているのかも知れない。
超能力というものをどこまで肯定して考えるかということになると、都市伝説や、オカルトのような話をどうしても、避けて通れないだろう。
都市伝説という言葉は、本来であれば、現代のものなので、昔から言われていることに当て嵌まるかどうかは分からないのだが、それだけ昔から普遍に疑問として言われていることなので、あまり甘くみない方がいいかも知れない。
つかさが、最近気になっているものとして、
「浦島太郎」
というお話である。
この浦島太郎という話は、いろいろな側面から見ることができる。そういう意味では、
「よくできている」
と言っても過言ではないだろう。
しかし、この話は、実は他のおとぎ話と同じで、続編があるのだ。
考えてみれば、浦島太郎という話は、カメを助けたことで、カメにそのお礼と言われて、竜宮城へ連れてこられる話である。そして結末としては、竜宮城から帰った浦島太郎が、
「開けてはいけない」
といわれる、
「見てはいけないのタブー」
である、乙姫様からもらった玉手箱を開けてしまって、そのままおじいさんになってしまったという話である。
パッと考えれば、
「あれ? おかしいな」
と思うのではないだろうか。
浦島太郎はカメを助けるといういいことをしたはずなのに、竜宮城に招待されたのだから、最後はハッピーエンドでなければいけないはずだ。これでは、いいことをしたのに、助けたカメに騙されて、竜宮城に連れ去られ、そこで、幻影の楽園を見せられ、楽しんだあと、陸に戻ってくると、そこは、七百年以上の未来の世界だったということである。
誰も知らない土地に一人取り残された浦島太郎は、悲しみのうちに玉手箱を開けて、おじいさんになったということになり、何が言いたいのか分からない世界である。
しかも、陸に上がって知っている人が誰もいなくなって、失意のうちに玉手箱を開けてしまうという心理がよく分からない。
太郎は、
「どうせ生きていても仕方がない。何が出てくるか分からないが、これで死ねるのであればそれも仕方がない」
とでも思ったのか、だが、そんなことは物語には書かれていない。
それはそうだろう。そもそも、子供向けのおとぎ話で、自殺を悟らせるような心情を伝えるわけにはいかない。しかし、それなのに、いいことをしたのに、最後に悲惨な運命が待っているというのは、果たしてどういうことか?
いや、実際には、この話には続きがあったのだ。
カメになった乙姫が、自分が好きになった太郎を追いかけて陸に上がり、太郎は鶴になって、二人は末永く暮らしたということが、本当の話であり、本当はハッピーエンドだったのだ。
冷静に考えてみると、最初に太郎に助けられたカメと、乙姫が同一人物(カメ)だとは言えないだろうか?
最初に太郎に助けられて、助けてくれた太郎を好きになった乙姫は、太郎をお礼のために竜宮城に連れていった。しかし、陸の世界を恋しがる太郎を見て、
「帰してあげたいが、自分の気持ちが耐えられない」
ということで、苦肉の策として玉手箱を渡したと言えないだろうか。
ということは、このお話は、恋愛物語だといえるだろう。
ただし、乙姫側の、勝手な思い込みによるもので、人の人生を狂わせてしまったのだから、これでいいといえるのだろうか?
また、そんな太郎も、乙姫と一緒に暮らせることが幸せだと願うのだろうか? 実に疑問である。
そして、この物語はSFをも感じさせる。
「海の底では数日のはずが、地上では数百年が経過していた」
この考え方は、アインシュタインの相対性理論ではないだろうか。
「光の速度で進めば、その中の時間は、ほとんど経過していない」
と言われるのが相対性理論の考え方で、例えば、
「ロケットで、一年間宇宙を探検して地球に戻ってくると、数百年経過している」
ということになると、言われているのだ。
ということは、果たして竜宮城というのはどこにあったのか? ということになる。
しかも、この理論は、アインシュタインによって導かれたもので、十九世紀から二十世紀に言われたことである。
浦島太郎の話が編纂されているお伽草子は、時代としては、室町時代というから、今から七百年くらい前になるであろうか? しかも、その編纂にともなって、最初からフィクションで作られたものではなく、各地に残る伝説などをまとめたものが浦島伝説としてあると考えると、その起源はさらに古いものだということになる。
これこそ、七不思議のようなもので、誰に分かるというのだろうか?
相対性理論もそうであるが、そもそも、この話にはかなりの無理がある。
カメになって地上に上がってきた乙姫と鶴になった太郎が末永く暮らしたというが、それは、人間のままではいけなかったということなのだろうか? 何も化身しなくとも、竜宮城の世界をそのままでいいのではないか? いま、むしろ、浦島太郎をもう一度、竜宮城へ連れ帰ることはできなかったということなのだろうか?
わざわざ失意のどん底に落とさなければ、太郎の気持ちを掴むことが乙姫にできなかったというのであれば、それは、乙姫のわがままではないかとも思える。
そもそも、太郎にお礼のつもりとはいえ、竜宮城に連れて行かなければ、こんなことにならなかったのだ。
ということは、乙姫は太郎を好きになったのは、カメが連れてきてからのことなのだろうか? そうなると、苛められていたカメというのは、乙姫ではないということになる。
普通に考えれば、乙姫は竜宮城では、お姫様。つまりは、竜宮城の主から見れば、娘にあたる存在なのか、そんな存在の乙姫が、
「人間を好きになったから、結婚したい」
と言ったとすれば、そんなことを主が許すと思うだろうか?
「お前はこれから、竜宮城の支配者になるのだから、人間なんかと契りを結ぶことなど許されない」
と言われるに決まっている。
となると、浦島太郎を先に地上に返し、そこで、似ても似つかない姿にしておいて、自分もカメになって地上に行き、そこで、二人が幸せに暮らそうと計画をしていたのだとすれば、これは、乙姫が計画した、
「駆け落ち」
ということになる。
そうなれば、太郎は本当は乙姫から、
「この玉手箱は、何か困ったことがあったら、開けてください」
と、反対のことを言われていたのではないだろうか?
そうすれば、おじいさんになって、それが乙姫の愛した太郎とは似ても似つかないから、主にもバレず、しかも自分がカメになり、太郎が鶴になってしまえば、追手が来たとしても、見つかることはないと思ったのかも知れない。
ここまでの考えは、かなり歪んだ考えなのかも知れないが、辻褄の合わないことを整理していって、この話の主旨が、
「恋愛物語」
だとすれば、この解釈もあながち間違っていないのではないかと思えるのではないだろうか?
そう思うと、つかさは、自分なりに納得するのだった。
浦島太郎であったり、ギリシャ神話に出てくる、
「オリンポスの神々」
であったり、昔の人は、
「擬人化した神や別世界の女王というものが、一番人間臭いものだ」
ということを言っているように思えてならない。
今の世の中であれば、
「人間が一番。人間臭い」
と言ってもいい世界になってきているように思う。
だが、昔は物語の中で擬人化することで、人間臭さを表現しているということは、それだけ、普通の人間は、かなりしっかりしていて、人間臭さを忘れているのかも知れない。
そこには、身分制度や、国家による制限、人権というものが、かなり狭められた世界に住んでいることで、小説の中での人間臭さに、むしろ、皆憧れのようなものを持っていたといえるのではないだろうか?
そんな中、超能力を持った人間がいたとすると、その人間が、浦島太郎のお話や、ギリシャ神話のような話を作ったのではないかとも考えられる。
予知能力を持った人がいたとすれば、それをまともに表に出すと、まわりから、気持ち悪がられるかも知れない。
中世ヨーロッパで流行ったと言われる、
「魔女伝説」
これは、世間の人たちから恐れられ、
「魔女狩り」
などと言われて、火あぶりの刑にあったりしたと言われている。
恐ろしい話ではあるが、それだけ、魔女に近いとされる人間がいて、その人たちがどこかに災いを起こしたことがあるから、そのような風習ができたのではないだろうか?
いくら何でも、火のないところに煙が立つはずもなく、魔女狩りに値するだけの、予知能力や、超能力をその人が誇示したことで、気持ち悪がられ、それが、
「世間を騒がせる」
ということでの、一種の見せしめだったのかも知れない。
そう思うと、宗教弾圧に似たものだったのかも知れない。
魔女と呼ばれる人たちは、実は、
「宗教団体が不況のための隠れ蓑にしていたこと」
そんなことだったのかも知れない。
日本でも、江戸時代など、隠れキリシタンを見つけるため、
「踏み絵」
なるものを使って、隠れキリシタンをあぶり出そうとしていたではないか。
秀吉だって、長崎で磔の刑にしたことがあった。歴史上では、黒歴史のように言われているが、果たしてどうだったのだろうか?
確かにやったことは残酷であり、他に方法がなかったのかとも思うが、
「仕方がなかったことだ」
と考えれば、そう言えなくもないと考えられる。
日本にキリスト教が伝わったのは、いわゆる十六世紀のことで、世界では、
「大航海時代」
と言われていた時代である。
東アジアに渡ってきた宣教師は、その国で布教活動を始める。
そして、信者を増やし、それによって、元々あった国教である、その国の宗教団体ともめることになるだろう。
そうなると、少なくとも内乱が勃発し、それをいいことに、
「宣教師を守る」
とでも言ったのだろう。
母国から軍隊を派遣し、その国の治安を取り戻すという名目で、植民地化してしまうというのが、当時の植民地のやり方だった。
それによって、東アジアのほとんどの国は、欧州各国の植民地となり、
「植民地獲得競争」
の犠牲になっていったのだ。
それを日本が知っていたとすれば、キリスト教弾圧という理屈も分かるというものだ。キリスト教の布教が、植民地獲得のための手段であったとすれば、由々しき問題でしかないではないか。
キリスト教弾圧も、鎖国も、徳川幕府からすれば、当然の政策だったのだろう。
その証拠に、鎖国中であっても、ロシアやヨーロッパ各国から、貿易の勧告に来ているではないか。
最終的に、アメリカの砲艦外交にやられたわけだが、幕府の鎖国政策は間違っていなかったといえるだろう。
おとぎ話などの話の中には、ひょっとすると、そんな外国との問題を含めたものもあるかも知れない。
時代が江戸時代と、室町以前ということで、少し離れてはいるが、江戸時代では鎖国という政策ができたが、それができなかったさらに昔の日本は、相手はアジアに限られるだろうが、諸外国からの侵略があったりということもあったのかも知れない。
もちろん、かなりの飛躍した考えであるが、予知能力などの特殊能力を持った人たちが、未来に起こるであろうことを含めて書いていたのだと考えると、まるで、
「ノストラダムスの大予言」
のように、まともに書いてしまうと、まるで魔女狩りのように、
「世間を騒がせた」
ということで処刑されてしまうかも知れない。
だが、それでも書き残さないわけにはいかず、考えたのが、
「物語にする」
ということだったという考えは、突飛すぎることであろうか?
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