トイレの奈々子さん

Hollow

第1話 トイレの奈々子さん

コンコンコン――


トイレのドアを叩く音が、静かな放課後の三階の廊下に冷たく響き渡る。


「はーな子さん、遊びましょ……」


返事はない。


私は手元のページから目を上げずに、また本をめくる。夕陽が差し込む窓から、リノリウムの床に長いオレンジ色の影が伸び、古びたトイレの空気を赤く染める。ここは、手前から三つ目の個室。毎日のように、私はこの場所で“花子さん”を呼ぶ儀式を繰り返していた。


ページの角は折れ、表紙は擦り切れ、指が触れるたびに紙の感触がざらりと音を立てる。制服の襟元にある黒い十字のピンバッジをつい指で触る。母が亡くなった日から、ずっと外せないお守りだ。


息を吸い込むと、背筋に冷たいものが走る。昨日もここで、微かな足音を感じた——誰も通っていないはずなのに。夢だったのだろうか、と自分を問いただす。だが、胸の奥のざわつきが、今日も私に確かに“何か”がいると告げていた。


「今日もダメか……」


肩を落とし、踵を返そうとしたそのとき、背後で小さなノック音がした。


――コンコン。


心臓が跳ねる。今のは、私じゃない。


空気が重くなり、足がすくむ。頭だけが異様に冴えている。あのときの事故——交通事故で死にかけた私を押し戻した、あの“何か”と同じ感覚が蘇る。


(きた……本当にいる……花子さん!)


恐怖と、理性では説明できない興奮が同時に押し寄せる。ページを抱える手が小刻みに震えたが、逃げる気持ちはわかなかった。ここで立ち向かわなければ、何も残らない——。


ゆっくり背を向け、個室の扉に近づく。手を伸ばすと、いつもの十倍の力が必要な気がした。震える指先に力を込め、ゆっくりノックを返す。


――コンコンコン。


「はーな子さん、遊びましょ」


沈黙が続く。数秒、数十秒。耳に聞こえるのは自分の心臓の音だけ。


――コンコン。


「……奈々子です」


思わず息を呑む。目の前のドアがゆっくりと開き、ずぶ濡れの少女が現れた。肩まで垂れた黒い髪、下唇と顎だけがかすかに見える。その太ももから下は、宙に溶けるように存在しない。


「驚かせてごめんなさい。何回も“花子さん、遊びましょ”って言われたから、出づらかったの。私の名前、奈々子だから」


声は無邪気で、柔らかい。けれど、その無垢な笑顔の裏には、幽霊特有の浮遊感と現実感のなさが漂っている。


私は立ち尽くす。孤独で、誰にも心を開けなかった私が、初めて「友達かもしれない」と思える存在——。


「そ、そうなんだ……奈々子って言うんだね。よろしく。私は茜……」


手を差し出されると、思わず握ろうとする。しかし、するりと指先をすり抜けた。


「あ、ごめんなさい。私、死んでるんでした」


冗談かと思えば、切なさが滲む。幽霊と友達になれるかもしれない——それでも、目の前の彼女は現実には触れられない。


私の胸の奥で、あの事故の日に感じた温かい“押し戻される感覚”が蘇る。母が助けてくれたのだと思ったあの瞬間。死後の世界があるのだと、心のどこかで信じたい気持ち。


「それで、何して遊ぶの?」


無邪気に尋ねる声に、私はぎゅっと胸を掴まれる。孤独で、誰も信じられなかった私に、この声は温かい。


「な、何して遊ぼうか……」


声は震え、でも希望を含んでいた。


「じゃあ、鬼ごっこしない? 私たち二人が“鬼”で——私を殺した犯人を、見つけるの」


言葉の響きに、空気がひとつ揺れた。トイレの蛍光灯が、ひとつ、ぱちんと音を立てて消える。残った光が、夕陽に溶けて赤く染まる。赤い光が奈々子の輪郭に映り、世界の端がわずかに揺れたように感じる。


胸の奥がぎゅっとなる。恐怖と興奮が入り混じり、私の体が震える。私は立ち尽くしたまま、息を整える。幽霊である奈々子に触れられなくても、彼女の存在は確かに、ここにある。


目の前に、初めて「友達かもしれない」と思える存在。孤独だった私の心が、ほんの少し溶ける。


「……うん、やろう。犯人、見つけようね」


奈々子の笑顔が、赤い光に揺れながら、私を見つめる。その目には、あどけなさと無垢が混ざり合って、何か深い秘密を抱えているようにも見える。


外の廊下で、夕陽が最後の光を投げかける。トイレの壁のタイルが、朱に染まり、私たちの影を長く伸ばす。その影が、ゆっくりと溶けるように揺れていた——まるで二人だけの世界が、そこに始まったかのように。




キーン、コーン、カーン、コーン。

 朝のホームルーム開始を告げるチャイムが、やけに湿った音を立てて校舎に響いた。

 外は昨夜の雨の名残を残し、曇天。薄灰色の光が窓ガラス越しに教室を照らし、黒板に滲んだ白い反射がゆらゆらと揺れている。


 ざわめきが戻ってくる。

 廊下からは笑い声。机の脚が擦れる音。誰かが走ってくる靴音。

 その輪の外側に、私はいつも通りいた。


 机の上には折れたページの角。読み込みすぎて擦り切れたオカルト本。

 制服の襟元には、黒い十字のピンバッジ。母が亡くなった日から一度も外していない——私の“お守り”。


 「まだそんなの読んでるの?」「マジで幽霊とか信じてそうw」

 ひそひそ声が背中に刺さる。

 だけど、もう慣れた。

 私はページの隙間に逃げ込む。そこにいるのは、私を笑わない“何か”。


 昨日の放課後、あのトイレで出会った少女——奈々子。

 あれは夢じゃない。今も、私の背中のどこかに彼女の気配が貼り付いている。

 声が、耳の奥に残っている。

 「じゃあ、鬼ごっこしない? 私たち二人が“鬼”で——私を殺した犯人を、見つけるの」


 その言葉の余韻が消えないまま、今日を迎えた。


 ページを閉じようとした瞬間——


 「ねぇ、あそぼ」


 背後から、声がした。

 ゾクリと背筋が凍る。

 昨日と同じ声。

 けれど、誰もいない。

 私の後ろの席は、空席のはずだ。


 息を飲むと、すぐ耳元で。


 「ねぇ、あそぼーよ、茜ちゃん」


 はっきりとした少女の声。

 机の上のページが、風もないのに勝手にめくられた。

 そこに書かれていた章題は——


 《トイレの花子さん》。


 私は静かに顔を上げる。

 窓の向こう、反射したガラスの中に“それ”がいた。

 昨日の奈々子。

 無邪気な笑みを浮かべ、窓枠に腰を掛けてぶらぶらと足を揺らしている。

 他の誰にも見えていない。

 だけど、私には見える。確かに。


 「……昨日のつづき、しよ?」


 いたずらっぽく唇を動かす奈々子。

 けれどその表情の奥に、どこか“薄い不安”が漂っていた。

 私が何か言い返そうとした瞬間——。


 ガラガラと、教室の扉が開く。

 担任の田中が、書類の束を抱えて入ってきた。

 中肉中背で、眼鏡越しの視線はどこか疲れている。私のいじめを見ても見ぬふりをする、無色の人。


 「はい、席つけー。今日はちょっと連絡がある」


 と、いつものだるげな声。

 クラスのあちこちから「えー」「だるー」「またプリント?」とため息が上がる。

 私はただ、奈々子の姿が消えた窓を見た。

 もういない。

 幻のように、空気の中へ溶けていた。


 「それと……今日は転校生を紹介するぞ」


 その一言で、クラスがざわめいた。

 「え、マジ?」「どこから?」「かわいい子かな」「イケメン希望〜」

 軽い声が飛び交う中、田中が教室の扉を向いて手招きする。


 「入って」


 廊下の向こう、白い光が差し込み、一人の少年が姿を現した。


 「はじめまして。僕の名前は——ライ。よろしく」


 その声を聞いた瞬間、教室の空気が、すっと冷えた。

 まるで誰かが見えない冷気を流し込んだように、温度が数度下がる。

 笑い声が止み、鉛のような沈黙が落ちた。


 彼の髪は黒に近い藍。

 光を吸い込むようなその色は、窓際の明るさの中でも輪郭を持たなかった。

 瞳は琥珀。けれど金属のような硬質さを帯びて、どこを見ているのか分からない。


 その琥珀の瞳が、ゆっくりとクラス全員をなぞり——そして、私の席で止まった。


 その瞬間。


 背後の空気がざわめいた。

 “何か”が私の背中にしがみつく。


「……や、だ」


 聞き慣れた少女の声。

 奈々子だ。

 ガラスの中、昨日と同じ彼女が映っている。

 けれど、表情が違う。怯えている。


 白い手で耳を塞ぎ、身体を小さく縮こませる。唇が震える。


「……この人、いや……」


 風もないのに、カーテンがゆらりと揺れた。

 茜の髪が頬に触れる。

 奈々子が、視線を合わせたまま、消える。

 まるで霧が朝日に溶けるように。


 音が戻る。

 クラスの誰も、異変には気づかない。

 ただ一人、私だけが呼吸を忘れていた。


 ライが黒板の前に立つ。

 白いチョークの粉が舞い、光に散る。

 首元のペンダントが一瞬、銀色に光った。

 それは“十字”の形をしていた——私のピンバッジと、同じ形。


 鼓動が速くなる。

 掌が汗で湿る。

 なぜか、懐かしい匂いがした。鉄と雨を混ぜたような匂い。


 田中が言う。

 「じゃあ、ライは……そうだな、茜の隣、空いてるな」


 クラスの何人かが「うわー」「あいつの隣か」と小声で笑う。

 私は俯いた。だが、ライはその笑いに反応しなかった。

 まるでそれが人間の声ではないかのように、ゆっくりと歩き、私の横に腰を下ろす。


 その瞬間、机が小さく震えた。

 私は気づかれないように、息を詰める。


 ライは何も言わず、窓の外を見た。

 遠くでチャイムが鳴る。午前の曇天の下、鳥の影がよぎる。


 ——そして、彼はぽつりと言った。


 「君、憑かれてるよ」


 その声は小さく、私の耳にだけ届いた。

 心臓が、跳ねる。

 視線を向けると、彼は微笑んでいた。穏やかで、どこか悲しい笑み。

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トイレの奈々子さん Hollow @hero83

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