名前も許さない

惟風

先輩

 段ボール箱を抱えた配達員の後ろから、オートロック扉の中に身体を滑り込ませた。

 何食わぬ顔でエレベーターに乗り込んで、配達員が押したボタンの二つ上の数字を押す。ここが侵入の最大の難関だったけど、呆気なく突破できて拍子抜けした。マンションの中に入ってしまえば、後は非常階段でアイツが帰ってくるのを待てば良い。

 外は日が暮れても茹だるような熱気に満ちているけど、建物の中はそうでもなくて有り難かった。


「ここまでしてくれんでもええのに」

 エレベーターを降りたところで、が僕の隣で眉尻を下げた。僕と違って、汗一つかいていない。長い髪が一筋、左の頬に垂れている。

「気にしないでください。僕が勝手にやってることなんで」

「や、でもなあ……」

「先輩が反対したところで、僕の決意は変わらないっすよ」

 これまで散々したやり取りを繰り返す。

 本音だった。これは、先輩への気遣いとかそういうものじゃなくて、完全に僕のエゴだ。


 先輩とSNSを通じて知り合ったのは二年ほど前になる。ゲームの趣味が僕とドンピシャで、好きな映画とか音楽とか、そういうのもわりと似通っていた。ゲーム好きのコミュニティメンバーの中で、僕達は一番気が合った。

 オンライン上でマルチプレイをするだけじゃなくて、ゲームイベントに一緒に行ったり飲みに行く仲になるまで時間はかからなかった。

 先輩に初めて会った日のことを、僕は強烈に覚えている。

 深くて低い声の雰囲気からして身体の大きい、厳しい人物を想像していたけど、駅前で僕を見て手を挙げたのは、色白で僕より少し背が低い童顔の男性だった。長めの髪を後ろで束ねたヘアスタイルに、中性的な顔立ち。細身で華奢な身体から発される声は、外でもよく通った。

「俺の方が三個下って言うてなかったっけ」

「いやそれは聞いてましたけど、そんなのいくらでも違うこと言えるし、喋った感じが落ち着いてて年上にしか思えなかったから……ホントに年下だったとは」

「そんなとこで嘘つくワケないやん。あーでも、それやったら最初から年上って言うといてもっとエラソーにしとったら良かったなあ」

 笑った先輩の切れ長の目が、キュッと糸のように細められた。肩と一緒に尻尾のような髪も小刻みに震えていた。

 SNSでの彼のハンドルネームが“先輩”で、僕の中でとっくにその呼び方で定着してしまっていた。実際、ゲームの知識やプレイ時の立ち回りも先輩の方が圧倒的に上で、そう呼ぶことに何の抵抗もなかった。むしろ変えてしまう方が不自然だった。

 勝手に目上と位置づけて使っていた敬語は彼の実年齢を知っても抜けなくて、呼び名が呼び名だしとそのまま続けた。

「まあ俺もタメ口やめられへんから、これでええか」

 先輩はまた糸目になってそんな風に言った。

 好きなゲームを一緒にやる。たまに会って飯食ったり酒飲んだりしながら共通の趣味の話題で盛り上がる。そういうユルいつながりが、倦み疲れた自分に心地良かった。実生活で直面するあらゆることが、僕には多面的で複雑すぎた。

 出会った時に肩口辺りの長さだった先輩の髪は順調に伸びて、背中まで垂れ下がるようになった。僕達の付き合いの長さを目に見えて感じられてついつい視線が引き寄せられた。

 彼の本当の名前もどこに住んでいるかも、どんな仕事をしてるかも僕は知らなかった。踏み込もうとするとのらりくらりと躱された、どうせ僕達の交流に必須の情報じゃないか、なんて自分を納得させていた。そんなことよりも新作ゲームや漫画について語る時間の方が必要で、大切だった。

 先輩はいつも大体穏やかで、のほほんとしていて、ゆったりと笑っている一面しか見せない人だった。


 


「いやあ、知らん間に死んでもうてなあ」

「寝落ちしたみたいなテンションで言うことじゃないと思いますよ」

「まあそうやねんけど、死んでもうたモンはしゃあないしな」

 先輩は困ったように頭を掻いた。それは生前と変わらない、呑気な仕草だった。


 ある日突然、SNSの先輩のアカウントで彼の訃報が報告された。そしてしばらくしてあっさりアカウントは消されてしまった。SNSと携帯番号しか知らなかった僕は、先輩との繋がりの薄さを失ってから痛感することになった。

 呆然としていた僕の前に先輩の幽霊がふらりと現れた時には、怖さなんて微塵もなかった。

「嫁が浮気してたらしくてなあ、最後に残ってる記憶がそれを問い質してる場面やって。たぶん殺されたんやと思うわ。葬儀で嫁が兄貴に自殺やて話してたんやけど、俺そんなことせえへんもん」

 世間話かと思うような気安さで、衝撃の事実を知らされた。先輩が事故や病死じゃなく殺害されたということと同じくらい、結婚していた事実がショックだった。

 両親が他界していること、四人兄弟の次男だということ、兄弟達との仲はあまり良くないということ。

 半透明になった先輩から聞かされた事柄の一つ一つが、生きて対面していた時よりもずっと生々しい“彼”という人間の姿を僕の中で作り上げていった。

 一人の女性と家庭を築くほど仲を深められる人だった。それを裏切られて激昂するほどの激しい感情を出せる人だった。修復しようがないほどに親族と不仲になる環境で生きてきた。

 聞けば聞くほど、僕が知っている“先輩”のイメージとはかけ離れていった。


 非常階段の踊り場で、返り血に備えてレインコートを着込んだ。薄暗くて比較的涼しい場所だけど、一気に汗が噴き出してくる。

「アイツもうそろそろ帰ってくる頃やから、下の様子見てくるわ。来たら教えるな」

 先輩はそう言って階段の下に姿を消した。気の回るところは、僕の知っている彼と同じでホッとした。

 改めて、周りを見渡す。そこまで新しくはないけど比較的駅近くで、利便性の高い立地のマンションだ。こんな人目につきにくいスペースでも、あまり汚れていない。

 結婚してすぐに購入した分譲マンションだという。若い女性と内見に来た先輩の姿を想像して、吐き気が込み上げてきた。

 先輩のことを、血の通った人間としてイメージしてしまう。僕を煩わせる世界の側に取り込まれて、これまでの先輩像がどんどん上書きされて、“先輩”が消えてしまう。

 早く、片付けなければいけない。ここにいてはいけない。誰とも触れてはいけない。


「殺す」


 呟いてみると気恥ずかしくなるくらい陳腐な響きだった。

 殺す。

 先輩を自殺に見せかけて殺した妻。その浮気相手。

 それだけじゃない。

 ごめんなさい先輩。これは、敵討ちでも何でもない、もっと醜い僕のエゴなんです。

 先輩には秘密にしているけど、先輩の兄弟も。地元の友人達も。

 僕はみんなみんな殺します。

 僕の知らない、僕の先輩の姿形をした人間の存在の記憶を、殺す。

 僕の知る“先輩”としての存在だけあれば良い。


 僕はカバンに忍ばせた刃物を確認して、柄を強く握り締めた。

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名前も許さない 惟風 @ifuw

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