エピローグ
「アイスティーになります」
声と、置かれたグラスのことんという響きに長い回想から我に返る。このカフェの店員さんとも、もうすっかり顔馴染みだ。カモフラージュのために開いた課題のテキストは、当然ながら一ページも進んではいない。店員さんにはきっと集中力のない奴だと思われていることだろう。
あれからさらに六年が経ち、私は大学生になっていた。もう、一人で百貨店に来ても変な目で見られることはないし、こうしてカフェでゆっくりと彼女を眺めたりもできる。
私はいまや、写真などなくても目を瞑るだけでケティの存在を感じ取れるようになっていた。しかし頭の中のイメージというやつは取り出すたびにほんの少しずつだが元の状態からズレてしまうものらしく、私は私の中のケティをつど補正するために、まだしばらく写真や壁画の助けを必要とした。
中学から美術部に所属し、高校にあがったタイミングでついに自分でもケティを描くようになったが、描き終えた後はより時間をかけて深く入念に補正を行う必要があった。
絵を描き始めたのは、ひとえに私の手で新たな「窓」を作れればと思ったからだ。しかし最近は少し違うことを考えている。やってみると、描くことを通じて得られる理解というものは存外大きく、描くほどに私は彼女の爪先からまつ毛の一本一本に至るまでをより正確に把握し、習得していった。
一方で、ついに先日、延期に延期を重ねた百貨店の外壁の改装が完成を迎えた。新装された百貨店は「祝福」をテーマに、これからフロアの内装も順にリニューアルしていくと発表している。この壁画もやがては塗り替えられて、この世から姿を消してしまうことだろう。
あるいは時の止まった世界に住む彼女にとって、壁画が取り払われることなどにさして意味はないのかもしれない。しかし同時に私には、ケティがこれを見越して私を呼び寄せたのではないかという気もしている。
彼女はこの広場を愛していた。そこを訪れる人々を、そこで紡がれる交流を慈愛の眼差しでずっと見守ってきた。ケティはきっと、こちらの世界に住む私たちのことが好きなのだ。ならばこそ、彼女はずっと以前から、代わりとなる新しい窓を待ち望んでいたのではないだろうか。
もしそうだとしたら、ケティ。
私は私の目を、あなたに貸してあげたいと思う。私の手足を、どうかあなたのために使ってほしい。
そう、私自身が、ほかならぬ彼女のための窓となるのだ。私の脳はいまや、壁画に盛られた絵の具と同じかそれ以上に正確に彼女の概念を刻み、定着させつつある。こんなこと、私を差し置いて他にいったい誰ができるだろう?
紅潮する頬とともに、私は壁画のケティに微笑みかけた。ケティも目を伏せたまま、静かに微笑みをかえしてくれる。
気がつくと、私は海に来ていた。
抜けるような青空と潮風。ケティは海は初めてだったようで、寄せては返す波に、さっきからずっと飽きもせずにきゃあきゃあと笑っている。
私も波打ち際でくるくる笑って踊った。そのままふたりして、歌をうたった。ひんやりと足をうつ波に洗われて、私もケティも
それはこのうえなき果報者の日々。
最愛の存在と共に歩む人生。
ああ、病めるときも健やかなるときも。
どうかケティ。
あなたがつねに、私と共にありますように。
壁画のケティ ざくろう @thec_row
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