第4話

 その後の帰り道については、もはや全く記憶に残っていない。ただ、夜になって部屋の電気を消したのちに、ベッドの中で声を殺して狂わんばかりに泣き悶えていたことだけは覚えている。


 私はもうケティのところには行けない。もう二度とケティに会うことはできない。自らの愚行がもたらした運命に、言いようのない絶望を覚えて身をよじった。押しつぶされそうな心を守ろうと、ほとんど無意識でケティの写真をつかみよせる。


 ああケティ。ケティ。私もうあなたに会えないよ。写真のケティはいつもと変わらず、眠るような横顔に静かな微笑みをたたえていた。それは泣きじゃくる幼子を優しくあやす淑女の顔だった。



「寂しいけれど、じゃあこうして写真を通じてお話しをすることにしましょう」



 ケティからそんな声が聞こえた気がした。彼女のその悠然とした姿を見ていると、少しずつ気持ちが落ち着いてくるのがわかった。


 そうだ。当分あの百貨店には行けないけど、だからといって一生このままというわけでもあるまい。私に声をかけてきた店員さんだって、一年、いや半年もすればきっと私のことなど忘れてしまうだろう。その頃には私の背もまた伸びているし、広場にずっと居座るのは無理にしても、何気ない顔で通り過ぎることぐらいはできるかもしれない。それまでは、こうして写真を通じてケティに話しかければいいのだ。


 私はあらためて、芽依ちゃんのお姉さんに感謝した。この写真さえあれば、私はどこでだってケティと繋がっていられる。



 私は前にもまして、ひとりの時間をケティの写真を眺めて過ごすようになった。静かに息を吸って、息を吐く。


 そうして心を穏やかにして、見るでもなしにケティの写真を視界に収めていると、ふと彼女が私のすぐ側で寝息をたてているような感覚を覚えることがあった。私はその感覚を大事にした。それは百貨店で吸ったあの空気にごく近いなにかだった。


 いつか夜の百貨店に潜り込んで、誰にも邪魔されずに一晩中、月の明かりと共にケティを眺めていられたらどんなにか素敵だろう。そんな夢想をしつつも、結局中学校に上がるまで、私がふたたびそこを訪れることはなかった。電車に乗ってあの街に行くことが少しトラウマになっていたというのもあるが、そもそも無理して行ったところで落ち着いてケティと向き合える訳でもないのだ。


 小学校の高学年にかけて、私はもっぱら写真を通じてケティと繋がることに腐心した。学校のクラスではアニメとかゲームとかの、それぞれに魅力的なキャラクター達がかわるがわる人気を博していったが、私の心がそれらに反応することはなかった。


 毎晩のようにケティの写真に意識を集中させているうちに、写真の中の彼女をより存在感を持って感じられるようになっていった。時として彼女は、たった今まで絵のモデルとしてそこに座っていたかのような移り香を残していくことがあった。私はそれを、天からマナを授けられたイスラエル人のように丁寧にかき集めた。


 ある晩、夢を見た。夢の中で私は、ケティと重なりあって、壁画の中から広場を見下ろしていた。時の止まった世界で、私たちは、広場を行き交う人々の姿をずっと愛おしげに眺め続けていた。それはまるで、好きな映画のあらすじと登場人物と印象的なシーンとがいっぺんに頭に浮かんだ時のように混然とした光景だった。



 私は中学受験をし、地元から何駅か離れた進学校に通うことになった。とはいえ路線は百貨店とは反対方向だったし、制服姿の中学生は(小学生よりかは幾分マシとはいえ)やはり百貨店の中では浮いた存在だったので、私が三年ぶりにそこを訪れたのは、とある週末の午後のことだった。


 持っている中でいちばん大人っぽい服を着て、カフェでテイクアウトした飲み物を手に広場に向かう。広場は私のいない三年の間に少しだけレイアウトを変えていて、私はきれいに飾られた壁の端にもたれかかると、ひとくちだけ飲み物に口をつけ、それからおもむろにケティのほうに向き直った。



 久しぶりの、ケティ。



 三年がかりで彼女とのパイプを太くしてきた私は、いまこの広場で、これまでになく強く彼女を感じていた。私と彼女の間に物理的に抱き合う体はなかったが、魂の芯から湧き上がる歓喜は逆算的に私の胸の鼓動を激しくし、肌に熱を帯びさせた。漫画で見た恋人たちが、抱き合う時にお互いの熱をどう感じて、その胸の高鳴りがどういったものであるのか、経験のない私にも手に取るようにわかった。


 そうして深く彼女と交わった私は、もはや全てを理解し、確信していた。そう、私の持つ写真と同様、この壁画もまた彼女そのものではなく、彼女という概念を人が認識するための「窓」に過ぎなかったのだ。


 かつて偉大なる画家は、彼が感受したところのケティをここに写しとった。私が感じていたこの広場の空気も、つまりは窓越しに伝わる彼女の気配であり吐息だったのだ。



 ここに来る途中に見た、百貨店の外壁を覆う白いシートのことを私は思い出していた。百貨店は今年、創立八十周年を迎え、これから数年がかりで外装の工事を少しずつ進めていくという。まだ具体的な発表はないが、外装が終われば今度は内装がリニューアルされてもおかしくないだろう。


 それはつまり、私と工事業者の競争を意味していた。



 ケティ。また会いに来るからね。



 彼女にしか聞こえない声で囁きかけると、まだたっぷり残った飲み物を手に、私はその場をあとにした。

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