第3話
当日、念のため家族が出たあと三十分ばかり間を空けてから、私はリュックにお弁当と(母はついでとばかりに私の分のお弁当も作っていった)財布を入れて駅へと向かった。気が向いたら友達のとこに遊びにいくかも、と言っておいたので、私より先に誰かが帰ってきたとしても変に思われる心配はないはずだ。
切符の金額も乗車するホームの番号もちゃんと頭に入っていたが、駅に到着して券売機の前に立つと、なんだか途端に周りの大人の視線が気になりだした。周囲を見回しても、小学生一人で乗ろうとしているのは私だけのようだった。顔見知りに出くわさないことを祈りながら慌てて切符を購入しようとして、十円玉を何枚かこぼした。
その後も駅の出口案内を読み間違えたり、人の流れに飲まれてうっかり行き過ぎてしまったりしたが、最終的に予定より二十分ほど遅れてどうにか私はケティの元にたどり着くことができた。今度こそただひとり、だれにも邪魔をされる心配のないこの身ひとつである。額にうっすらと汗をにじませながら、私は笑って彼女を見上げた。
久しぶり。久しぶりだね。
壁面で静かに微笑む彼女の顔が、私を歓迎して輝いているように見えた。私は植え込みのふちに腰をかけて、持ってきたお茶に口をつけた。喉を潤して、ほっとひとつ息をつく。
絵の中のケティは目を伏せていたが、にもかかわらず彼女がいま私を見ているということが、なんとなく私にはわかった。もっと言えば、彼女が見ているのは私だけではなかった。ケティはこの広場のすべてを、それどころかレストラン街の壁を隔てた店内でお昼を食べている人たちのことも、絶えず優しく見下ろして心を配っているのだ。そうして若くして即位した王女のように、ケティはこのフロアにいるすべての民を慈しみ、柔らかな空気を与え続けている。
そこまで考えて、私は少しだけさびしい気持ちになった。身近に思っていた人が実は有名人だった時のような感覚、とでもいえばいいだろうか。しかしそれは健全なことには思えなかったので、私はすぐに気を取り直して鞄からお弁当を取り出し、ここでお昼をとることにした。玉子焼きを頬張りながら雑踏に耳を傾けていると、なんとも言えず心がリラックスして、それでいてどこかちょっとリッチな気分にもなれた。
たくさんの人が、こうしてケティの下で憩いのひとときを過ごしている。でもそんな中でケティを見つめ返し、彼女に想いを寄せ続けているのは、きっと私ひとりだろう。ただ私だけが彼女に尽くす忠実なしもべであり、同時に彼女にとって唯一の友人なのだ。そう思うと誇らしかった。
私は王女様に仕えるメイドのように、今日はここで時間の許す限りケティの傍にいようと決めていた。しかし現実は甘くはない。私はすっかり自分が王国の一員になったつもりでいたが、実際はフラミンゴの群れに迷い込んだペンギンも同然だった。
「お嬢ちゃん、もしかしてここでお母さんを待っているのかしら」
ふいに後ろから声をかけられて、思わず飛びあがりそうになる。膝の上からずり落ちかけたお弁当を慌てて手で押さえて振り返ると、胸に名札を付けた店員らしき女の人が、私を見下ろして微笑んでいた。私は振り返った姿勢のまま、目を丸くして硬直した。優しい顔のその店員さんは、ちょっと困ったように首をかしげて、私の言葉を待っているようだった。
まずい。百貨店の人に目をつけられた。
私はようやく自分がここでどう見えているのかを理解しはじめていた。考えてみれば、こんなところで子供がひとりでお弁当を広げて座っているのだ。親に置き去りにされたか、家出でもしてきたと思われたに違いない。彼女の呼びかけになんと答えてよいかわからず、私は固まったままただ口をぱくぱくとさせた。店員さんの表情が当惑に翳るのがわかった。
警察をよばれる。そう頭に浮かんだ瞬間、私はがたがたと乱暴にお弁当を鞄に放り込んで立ち上がった。
「なんでもないです」
と言ったつもりだったが、まともな発声になっていたかすらあやしい。私は極度の緊張とぐらぐらと揺れる視界をどうにか押さえつけながら、ただ一刻もその場から離れることだけを考えて足を動かした。幸い、店員さんが追いかけてくる気配はなかった。
百貨店を出て茫然自失のまま歩き続けた私は、気が付くと駅前の広いバスターミナルの端っこで、呆けたようにベンチに腰をおろしていた。これから何をどうするべきか、まったく頭が働かなかった。ただ、私が百貨店の人にマークされてしまったことだけは間違いなさそうだ。じわじわと胸から後悔がこみあげてきて、私は涙目になって頭を抱えた。
なぜあんな目立つところでお弁当など広げてしまったのだろう。馬鹿な私は、もう二度とあの広場に近づくことすら許されない。きっと姿を見せたが最後、「またあいつだ」と店員さんに囲まれて、今度こそは捕まってしまうだろう。そして警察を呼ばれ、親を呼び出されて、あの家とコンビニと田んぼしかない住宅街に拘束されるのだ。
そこまで考えて、私ははっと立ち上がった。都会の街中において、涙目になってひとり座り込む小学生など通報の対象でしかない。
どこに向かうべきかも定まらないまま、私はとりあえず背筋を伸ばして歩きだした。そのまま五十メートルほど歩いたところで右に曲がり、さらにもう一度右に曲がって結局Uターンした格好になる。ちょっと歩く間にも景色はどんどん私の知らないものに変わっていき、このまま無目的に歩けば本当に迷子になってしまいそうで怖くなったのだ。結局私には、ひとまず電車に乗って家に帰り、何食わぬ顔で家族を迎える以外になかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます