『初恋は純愛、若しくは』

七瀬 憑依

第一話 #アイしています。 

『初恋は純愛、或いは  』


時は平安。称徳天皇の御代の三〇年程前。

藤原朝臣広足は未だ二十歳そこそこであり、初々しい様子がさらに貴族としての品を高めていた。勿論、貴族としての風雅など青二才なもので、歌詠など絶望的であった。

しかし彼は藤原家の一員である為、そこそこの位に着き、皆の顔の覚えも良く、有望株と持て囃されていた。


定期的に行われる会合の帰り道にて。

ある日彼は、とある容顔美麗な女性に恋をした。

生まれて初めて​の恋だった。否、自覚したのは先であったが。

その時の胸の高鳴りは、きっと一生忘れることはないだろう。

そう確信できる程の感情というものだ、初恋とは。


『また会える日があれば、また逢いましょう……』


彼女のこの言葉を信じて信じて。



一九年経ったある日。

彼は月を見つめて、こう言った。

「人生とこうも上手くいかないものなのか」


中途半端。此れが彼の総評である。

彼は、四〇歳を過ぎ、愛人はいたりしたものだが、事実上の嫁は取らなかった。

勿論彼は、藤原家である。家柄的にも子を残さねばならぬのだが、大してそんな気が起きなかったのが、彼の心境。

風の噂では好事家なんてのも宮中に流れたが彼にとっては心外だろう。

彼女のことが忘れられなかったのだ。

この『純愛』の何が好事家なのだと、陰で愚痴りながら国事を果たす日々。


彼女に逢いたい、逢って話がしたいと天に願うこともしばしばあった。


七月七日。星一杯の夜空にたった一つの希望を込めて。




二〇回目の祈りの日。


運命かと思った。その場で歌を詠んだくらいである。

そうだ、彼は陰で彼女を思っていた所為(お陰)で、歌詠が出来るようになっていた。

あの荒んだ好事家の唯一の特技である。


話を戻そう。

もう逢えないと思っていた彼女に逢えたのだ。

其れは有頂天にもなるだろう。だが、勢いあまって出逢ってすぐに求婚してしまったのは許してほしい。


『はい、喜んで』


彼はその刹那が、この言葉が人生で一番幸せだっただろう。あの時の顔の緩み具合は尋常ではなかった。彼女も宮中で忌み嫌われる存在であったが、自分も大概なので気にはならなかった。


彼女と握った手の温もりが、彼の叶えたかった夢であったから。



称徳天皇の御代、あの頃から九年経って。


妻は家柄も良く、身分的な隔たりもなかった為、トントン拍子で婚約が決まった。

彼女に身寄り(流行病で一家郎党亡くなってしまった為)がなかったからだ。

彼女の姉が

あの好事家とあの娘が、とか噂もされたが、そんなものを払拭するかの如く妻を愛で、楽しく結婚生活を謳歌していた。




彼とその妻は子供を授かった。とても嬉しく目一杯の愛情を育てた。



妻が亡くなった。元々病弱だったのだ。出産と共に、体調が悪化し、天への願いは虚しくも叶わなくなってしまった。しかし、妻と過ごした九年間は何にも変えられない不変的な思い出だった。



広足の体調が優れなくなった。

病を治す為、大和国(京から離れた場所)の山寺で、療養することを決めた。八斎戒を守り、筆をとって字を習い、机に向かったまま日が暮れてもそこから動くことはなかった。


従者の少年は主人が眠っていると思い、「起きてください、夜ご飯ですよ」といったが、しかし動くことはなかった。少年が強く彼の体を動かすと、墨筆を落とし手首を傾げたまま動かない。彼は死んでいたのだ。


少年は死人を見るのは初めてだったのか、酷く震えて逃げ回り、少年の家族、家臣にこのことを知らせた。葬儀はその十日後に行われたそうだ。



私、広足が瞼を開けると、頬のひげが上向きに生えていて赤い衣の上に鎧を被った兵士が其処に居た。その男は私に「広足よ、大王様のお呼びだ。早く行け」と言って、鉾で私の背中を小突く。

後ろから急かされ、前の見張り役と二人に挟まれ急ぎ向かっていた。


向かう途中で道が途切れており、深い河があった。

河色が黒く濁り、何も流れていない。音をたてる事なく只静まりかえっていた。

彼岸花が麗しく狂い咲き、より河の印象を強めている。

前にいる男は「お前はこの河に入るのだ。私についてこい」と言い、私に河を渡らせた。お陰で、私が着ていた白装束は黒く染まっていたが気に留めることもないだろう。


道の途中では屋根が重なり合った楼閣が見え、京とは比べ物にならない壮大な外観に眼を惹かれしまっていたのは些か不可抗力であろう。



四方には玉の簾が掛けられていたため、顔までは見えなかった。

すると、使いの者が簾の前まで寄り、「連れてまいりました」と報告していた。

中にいる者が、「中へ召し入れよ」と仰っていた為、使いの者は自分を中に入れさせ端で​侍った。


その人は「お前の後ろに立っているのは誰か」と私に尋ねた。


振り返ると、そこには私の妻がいた。間違いない、顔の造形が彼女であったから。

思わず目尻が熱くなる。

「間違いありません、私の妻です」とえずきながら答えた。


その人はまた「この女の嘆き訴えにより、お前を呼んだだけだ。女の受ける罰は六年あり、既に三年は罰を受け、まだ三年残っている。女の願いはまたあの苦しみを味わうくらいなら、忌子の私と共にいてほしい、ということだ」と話す。


私は迷わず是非にと答えた。

どうせ人はいつか死ぬのだ。五年後、一〇年後、三〇年後だろうが皆あの世に旅立つ。

なら、どうせなら愛する人と共にいたいのは自然だろう。

冥府の果てだろうがなんだろうが、自分には『彼女』が必要なのだ。


そのようなことを思っていると、あの人が息を吐いたかと思えば、何かを喋っていた。

余りにも小声だったものだから、聞こえなかったが誰かと会話しているのだけは分かった。


暫くすると会話がひと段落した為、私はとある問いを投げかけた。


「貴方様の御名前を教えてくれませんでしょうか」と。


その人は逡巡して、肘置きにもたれ掛かると重い言葉で答えた。

「あゝ、余の名前は、閻魔王。お前の國では地蔵菩薩とも呼ばれている神明の一柱である」


そう答えると、御簾を抜け私の下げた頭に近づく。絳の絨毯を歩く姿は眼を向けなくても伝わる。


「その心は、純愛か?」  「是」(*はいの意味)


何処となく面貌が険しい(元々)為、重々しい言に、私は気を呑まれる。

そう聞くと、忽ち「ふむん、判った。去れ」と、声色を明るくしたかと思うと、そう仰ったので、此処を彼女と共に去った。


因みに、閻羅王の指の大きさは人一〇人分くらいだったと言われている。



彼が離れて幾許経つと、王は独白を話し始める。


「『その心は、純愛か?』か。朝臣広足、お前には期待の念を抱いていた。お前の初恋の人間はその女だ、間違いないだろう。しかし、お前に歌詠の才はあるのかもしれないが、人読の才は無かったようだな。残念だ」


────何が純愛だ、痴れ者が。愛すべき女が其処で泣いているぞ。


王は嘆息しながら、眼を一人の女に向けた。




其処には御簾の奥で広足の妻が崩れていて、床には大粒の雫を垂らしていた。


私は泣いていた。嬉しさと哀しさが交わり混じり、何とも形容しがたい何らかの感情になっていた。一つは夫に会えたこと。自分が家族もいない『一人』で暮らしていた自分の光だったからだ。だから私は仲の良かった双子の姉の『殺害』さえ乗り越えることができた。

そしてもう一つは、


愛する人の初恋は、『私』ではなかったということだ。


そうして私は濡れた絨毯の上に立ち、拍手してしまった。涙は依然止まらない。


「おめでとう、広足様、『お姉様』。末長くお幸せに…」


王は妻を見ていた。王から視るその長く伸びた豊かな髪も、彼から贈られた美しい髪留めも、美しく飾られた端正な顔だちと化粧も。その小さくなった背中とパチパチと鳴る祝福の合掌を聞いていると、何故だか躁鬱な気分になってきた。


王も人間臭いところはあるらしい。



初恋とは残酷で盲目的なものである。

また、人間は最初視たものは広く永く、忘れることは難しいと云われている。


彼の者の行方は誰も知らない。皮肉にも彼の人生には『愛妻家』という永劫の汚名を被る羽目になり、本人は知る由もないことは確実であろう。


初恋は純愛、或いは『呪縛』、なのかもしれない。

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『初恋は純愛、若しくは』 七瀬 憑依 @Le_mikann

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