『お兄ちゃん!』グサァッ!!

うたた寝

第1話


「せんぱーい! お話したいでーす!!」

 繁忙期を終えた会社の打ち上げの飲み会にて。同期で固まって飲んでいた彼の席へと単身乗り込んできた後輩の彼女。中々の勇気である。新入社員が先輩社員に話し掛けに行くだけでも結構勇気が要ると思うが、そこに加え、先輩たちだけで輪を作っているところに乗り込みに行くのはなおさら勇気が要るだろう。

 飲み会が始まって既に1時間くらい経つから、既に結構飲んでいるのかもしれない。彼女の顔は普段よりも赤く染まっている。普段もテンション高めな方だが、酔っていることもあってか、普段よりももう少しだけテンション高めだろうか?

 一方、下戸な彼は乾杯の音頭からずーっとメロンソーダを飲んでいる。ずっと酒を飲んでいるのと、ずっと炭酸ジュースを飲んでいるの。どっちが体にいいかと聞かれると、ちょっと微妙なところかもしれない。

 壁側に居た彼はメロンソーダを置いて、廊下側で立っている彼女の方を覗き込む。廊下側に座っている同期が、『席、変わろうか?』と彼に打診していると、

「何? ずいぶん懐いてるじゃん」

 同期の女性社員がニヤニヤしながら意味深な笑みを浮かべて彼女に聞く。

「はい! 私お兄ちゃん居ないので」

 嫌な予感。とその場に居る全員が思ったのだがもう遅い。質問してしまったのだから、当然回答が返って来る。


「お兄ちゃんが居たらこんな感じなのかなぁーって!」


 グッッッサァァァッッッ!! と。鋭利な言葉の刃物が彼の胸へとそれはそれは深く深く突き刺さった。言葉が精神攻撃だけでなく物理攻撃も兼ねていたのであれば、彼は恐らく壁を突き破って店の外まで吹き飛ばされていただろう。

 事情を知っている彼の横と正面の同期は気の毒そうな顔をして彼を見て、同じく事情を知っている彼女に質問した同期の女性も気まずそうな顔をしている。

 しかしただ一人、事情も知らない無垢な彼女は、たった今一人の人間に死刑宣告してギロチンを振り下ろしたことなど全く意識もしていないご様子で、ずーっとニコニコしながら立っている。その笑顔に返り血が付いていることを彼女は知らないのであろう。

 もう今にも泣き出したいくらい彼の胸には痛みが残っているが、彼は男の子で何より彼女の先輩なのだ。こんな公衆の面前でおいおい泣くわけにもいかない。彼は必死に笑顔を作ろうと、

「ぼ、僕も妹が居たらこんな感じなのかなーって思ってたよー……」

「ですよねー! アハハハー! お兄ちゃん! お兄ちゃん!! アハハハー!」

『お兄ちゃん』という単語が出る度に、グサッ! グサッ! と何かが彼へと突き刺さるのがその場に居る彼女以外の人間はみんな分かったのだが、彼女だけは依然気付かないご様子でニコニコと『お兄ちゃん』を連呼して彼を串刺しにしていく。

 もちろん、彼女は彼の気持ちを知らないのだろうし、彼も自分の気持ちを彼女へと伝えていないだろうしで、彼女が悪いとは思わないのだが、流石にちょっと彼が気の毒である。『お兄ちゃん』という言葉にそれほど鋭利な印象も酷い言葉という印象も一般的には持たないだろうから仕方がないのだが、彼女が彼に言うにしては結構残酷な言葉を平気で笑顔で連呼している。

 彼女からすると、『先輩』よりももっと近い距離感ですよ、『お兄ちゃん』つまり、身内にカウントしてもいいくらい大好きで懐いていますよ、という最大限の褒め言葉のつもりなのかも分からないが、彼からすれば彼女の『お兄ちゃん』は『死刑』に匹敵する程度には重たい言葉なのである。

 満面の笑みで『お兄ちゃん』という言葉を嬉しそうに連呼しているところを見るに、本当に悪気は欠片も無いのだろう。単純に彼のことを全くそういう風には見ていない、というのと、彼の気持ちを全く知らない、というだけの話。

 誰が悪い、と言われれば、彼女にそういう感情を抱かせられなかった彼が悪いのだろう。もしくはちゃんと自分の気持ちを伝えなかった彼の落ち度であろう。流石に彼の気持ちを知っていれば、彼女ももう少し気を遣ってくれていたのだろう。ただ、それはそれで気を遣ってしまい、彼女との関係ももう少しギクシャクしたものへとなってしまっていたのかもしれないが。

 どっちがいいか、という話ではあるだろう。意識していないが故のこの無邪気な笑顔。彼が好きになったのは彼女のそういう素朴な笑顔。この笑顔を見続けたいのか、見れなくなってもいいから一線を越える挑戦をしたいのか。結果として、選ぶ間もなく挑戦権は失ったようなものではあるが。

 挑戦権自体は持っている。使うことだっていつでもできる。だが、ハッキリと、『お兄ちゃんみたい』と言われてしまったこの後に、ほぼ100%敗北が決まっているこの状況で、それでも彼が現状を打破するために挑戦権を行使できるかと言われると、恐らく無理であろう。フラれる、と分かっていて告白できるほど、彼は強く無いのである。

 彼女はニコニコ笑っている。彼の大好きな笑顔で。それはそれは楽しそうに笑っている。いっそ怖いくらいと言ってもいいだろう。彼女が笑いながら返り血の付いた包丁を振り回しているようにさえ見えてきた。仕留めた死体に跨ってずーっと包丁をブスブス刺している感じである。止めて! もう彼のライフはゼロよ! 状態である。彼がこの場で涙を流さずに笑顔をキープできていることに、その場に居る同期全員は拍手喝さいを送りたいくらいであった。

 ひとしきり刺して満足したのか、彼女は『アハハー』と笑いながら去って行った。他の先輩ともお話をしに行ったらしい。あの包丁で次なる被害者が出ないことを祈るばかりである。

 彼女の姿が見えなくなった後、横に座っていた同期は彼に聞く。

「……おーい。生きてるかー?」

「………………多分」

 返事はあるが、ほとんど屍のようである。酔ったわけでもあるまいに、机に手を着いて突っ伏している。

「いやー……。ごめんねー? まさかあんな返事が返ってくるとは……」

 件の鋭利な言葉の引き金となった質問をした同期の女性が申し訳なさそうに謝ってくる。多分、同期の女性としても、彼女が顔を赤らめるとか、言葉に詰まるとか、もうちょっと色っぽい反応をするものかと思っていたのだろう。それがまさかの返って来たのはただの死刑宣告である。

 失恋、と言っていいのかは微妙なところだ。告白もしていないし、彼女が誰かと交際している、という話も聞かない。チャンスとしてはまだ残っている、と言ってもいいだろうが、あれだけハッキリ『お兄ちゃん』認定されたものを、『恋人』へと位置替えできるかと言われると、正直困難を極めはするだろう。

 彼がこの先、例えば仕事で成果を出したとしても、彼女の評価はきっと『お兄ちゃんカッコイイ』だ。この『お兄ちゃん』が彼のこの先の好感度上げを全て邪魔するであろう。『お兄ちゃんとして好き』に全て変換されてしまうと、恋人となる未来は中々見えてこない。

 頼れる先輩ではあるのだろう。大好きな先輩でもあるのだろう。だけど、これらの彼への好感度は全て『お兄ちゃん』の箱へと収納される。上げなければいけない好感度のパラメータを間違った、とでも言うべきか。既に異性として好き、とは別のお兄ちゃんとして好きのパラメータが上がり過ぎてしまい、なまじ上げてしまったそっちの好感度が彼の本来上げたい好感度の邪魔をする。

 これは例えるのであれば、異性との友情は成立する、と思っている女性が居て、その女性に『友人と好き』と認定されている状態と酷似している。ここから、恋人として好き、に持って行くのは難易度が相当に高い。女性からすると全て、『友人』としての好感度が上がっていくだけだからである。友人に割り振られてしまう好感度を無理に恋人の方に割り振ろうとすると、下手すれば関係性さえ破綻しかねない力技となってくるのである。

 もちろん、男女の話だ。ふとしたきっかけでごっそり変わる可能性も無いわけではないが、ケースとしてはそれほど多くは無いだろう。逆の立場になれば分かるが、友達として見ていた人、妹みたいに思っていた人、に対して急に恋愛感情を持てるか、と聞かれると、やはり難しいだろう。

 ギャルゲーであれば選択肢を間違えすぎて、もうそっちのルートにはいけない状態。ギャルゲーであればリセットもできるが、生憎この人生と言うゲームにクイックセーブ機能もクイックロード機能も無い。選んだ選択肢も、上げてしまった好感度もやり直せないのである。出会った頃からやり直したい、とは思っても、そんな便利機能は無いのである。

 彼は机に突っ伏したまま、居酒屋の喧騒内ではあまりにも聞き取れなそうな、小さな小さな声でポツリと、

「週末……、海に行ってくるわ……」

「「「…………死ぬなよ?」」」

 ものすご~く曖昧な危険そうな笑みが返ってきたため、週末の海へは同期3人も同伴することにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『お兄ちゃん!』グサァッ!! うたた寝 @utatanenap

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ