一夏の驚愕
楠 夏目
髭と眼鏡と半袖と
「ホントは宇宙人なんだぜ、俺」
レトロな洋楽を掻き消すよう、突如聞こえたその言葉。湯気立つ珈琲にフーッと息を吹きかけながら、男は隣接する少年に向かって、揶揄するようにそう言ってみせた。
さあ、どう出る? 少年───
涼しい室内に、温かい珈琲。そして、少年を見下ろす墨色の瞳。男は木色のカウンターに肘を乗せると、まるで悪戯を思いついた子供のように、無邪気な表情を浮かべて笑う。
店内に流れる、鮮やかなメロディ。
少年の耳を掠めるのは、何度も耳にしたであろう、緩やかなジャズミュージックだった。スウィングするリズム、踊る音符、滑らかな高音。店内スピーカーから続々と音が響き、それが一気に周囲へと散る。
洋楽と同時に聞こえたのは───夏特有の『あの音』だった。そう、外から漏れる鮮少な蝉声。ガラス窓を突き抜けて、コチラへやって来る瀕死の呻きが、ジャズ音と妙に絡み合い、至極賑やかな声と成る。
スピーカーから放たれる音が、サビにかけての盛り上がりに変わる。
男の言葉を聞いても尚、少年の表情はぴくりとも動かなかった。むしろ「またか」と内心で毒づき、唖然としながら、じとりと男を見つめるばかりである。
「お待たせしました」
マスターが、カウンター上にグラスを置いてにこりと笑う。それと同時に揺らぐ氷が、からんと冷ややかな音を響かせた。
ハスキーな渋い声、スラッとした細身の体型、顎下に伸びた白い髭。
そして───客の目を奪う熟練の手業。
この一夏で少年の『行きつけ』となったカフェにて、マスターとして働いているこの老人。その堂々たる佇まいは、まさに"オトナ"を示唆していた。
「ありがとうございます」
少年はそれに手を伸ばすと、早速グラスを口元へ運ぶ。
指先に伝わる冷たい冷気。グラス内で踊る、ミルクたっぷりのカフェオレ。夏の暑さを凌駕する、涼しい店内と冷たい飲み物。
少年は一気にグラスを持ち上げると、乾く寸前の己の喉へ、お待ちかねのソレを流し込んでいく。
「おい、俺を無視すんなよ」
温かな アメリカン珈琲 を持ち上げたまま、男は痺れを切らしたように、少年に向かって言葉を発した。
その声に反応し、視線だけを横へずらしてみると、珈琲よりも黒く独特な『無精ひげ』が、少年の視界を瞬時に埋めた。たとえ、そこから目線を落としたとしても───次に視界が捉えるのは『四角い眼鏡と墨色の半袖Tシャツ』のみ。
全身が黒で包まれたような、どこか不思議なこの男性。少年はようやくグラスから口を離すと、未だ喋らず、ただ唇を手で軽く拭う。そして今度は、まるで男の言葉が"聞こえていなかった"かのような素振りで、もう一度、ズズッと液体を体内に運んだ。
そう、完全に『無視』である。
「ったく……せめて何か言えっての。これだから餓鬼はつまんねぇんだ」
子供が拗ねた時と同様に。
隣の男は、分かりやすいほど不機嫌そうな顔を作っては、ヤケクソ気味に珈琲を啜った。それと同時に、珈琲豆の濃厚な香りが周囲へ分散し、少年の鼻をくすりと鳴らす。
店内の洒落た電球の真下で、当たり前のように並ぶ二人の男。まるで親子、もしくは……長年連れ添った良き相方。傍から見たら簡単に"そう"捉えられてしまう程、いつの間にか、横に居るのが当たり前になっていた互いの存在。
洋楽がクライマックスに向けて、じわじわと盛り上がりを増していく。今日も今日とて、変わらずカフェに入り浸る男らに、マスターはくしゃりと顔を萎ませて笑った。
真夏の炎天下の中、永遠と聞こえる蝉の声。躊躇なく降り注ぐ灼熱の太陽は、アスファルトをもじりりと焦がす。
夏休み最終日である
* * *
遡ること、夏休み初日。
「カフェ<
道路に連なる車やバス。
忙しなく動くヒトや小鳥など。様々なモノが行き交う、大きな大きな街中にて───散歩中の少年が目にしたのは、一際目立たない路地裏に位置する、古びたカフェの立て看板だった。
真夏の平日。しかも昼の真っ只中。
湿気と熱が混沌した、薄暗い路地。視界に映る立て看板は、疎らに生える草木に埋もれ、黄ばみ、汚れてしまっていた。
蝉の陽気な鳴き声が、己の耳を激しく貫く。
少年は太陽の日差しを直に受けながら、微動だにせずその場に暫く佇んでいた。Tシャツから伸びている腕が、じわじわと熱に焼かれていく。額から溢れた汗は、やがて少年の頬を伝って、躊躇いもなく地面へ落ちる。アスファルトに唯一出来た、丸く小さな黒いシミ。それも何れは、灼熱の太陽の手によって、跡形もなく消されてしまうのだろう───意味もなくそんなことを考えては、少年は一人乾いた笑みを零した。
視界に入り始めてから数秒まで、別段気にかけようともしなかった、目先の立て看板。しかし、そこに書かれている『文字』を目にした瞬間、少年は明らかに表情を変えたのだった。
「
偶然か、或いは必然か。
少年が立ち止まったのは他でもない、この"
隙間なく響くエンジン音。電車がレールを滑る音。しかし、それらをも凌駕する───心を撃ち抜かれたような、凄まじい感覚。
親の仕事の関係により、今年の春に越してきたばかりの、馴染みないその街で。共働きの両親に加え、友人も居なければ、知り合いもいない。たとえ家に帰ったとしても……暗く、静かな"あの"空間で、一人寂しく息をするだけ。そんな孤独に駆られた少年の生活は、日々暗黙の不安と寂しさに包まれていた。
昔から、少年唯一の心の支えは、決まって 好きな小説 を読むことだけだった。そんな孤独を日々刻々と痛感する、夏休みの初日。
しかし今。色の無かった少年の瞳が、期待という眼差しによって、確かに色付けられていた。そう───<
新しい環境に未だ馴染めず、闇の中で藻掻く少年が唯一、肌身離さず抱えているもの。それこそが、人気小説家『
美しい情景描写と感情移入のし易い登場キャラクターたち。そして何より、目が離せない怒涛のストーリーが、見事に少年の心を撃ち抜いてしまった。
どこまでも澄み渡る青白い空が、太陽と共に宙で暴れる。そこに追い打ちをかけるよう、蝉や外界の騒音が混ざり、少年の身体はそろそろ限界を迎えそうになっていた。
そんな 都合のいい理由 を首にぶら下げ、少年はごくりと生唾を飲み込む。
ただの『偶然』と知っていながらも、少年はゆっくりと歩を前へと進めた。いや、本音を言うなら"何でも良かった"のだろう。孤独に蝕まれる己を救う、そんな『何か』を求めるために、無心で散歩に出かけたのだから。
少年は額の前髪を手で掻き上げると、何食わぬ顔で<
その瞳は、やはり『何か』を求めている。
* * *
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
心して入ったその店で、少年を待ち構えていたのは───人気小説家「
辺りを見渡すも、それ以外に人影はなく、店内はがらんと静まり返っている。
(路地裏に立地した……しかも平日の昼間だ。場所的にも、時間的にも、人気なわけが無いか)
少年はほっと胸を撫で下ろすと、その場で大きく息を吐いた。
先の太陽とは打って変わって、冷たい冷気が肌に張り付く。まるで生き返るようなその居心地の良さに、何だか胸が痛くなる。
木色に彩られたカウンター席。外の景色が一目で見渡せる二人用テーブル。店内自体は少々狭いが、素朴でレトロな内観は、愛情に飢えた少年の心を、確かに落ち着かせてくれた。スピーカーから流れる洋楽、鼻を掠める珈琲の香り。
少年はとりあえずカウンター席に腰を下ろすと、メニューを片手に老人を見上げた。
「あの、すみません。カフェオレを一つ」
「はい、かしこまりました」
笑顔で頷く、白髭の老人。その手慣れた仕草や言葉からは、ベテラン感が漂っている。
(まあ……
微かに抱いていた期待が、この時しゅっと音を立てて消えた。
「外、暑かったでしょう?」
心の声が漏れてたのか、と。老人の急な問いかけに、少年はびくりと身体を跳ねさせる。
「この時間帯は、いつも一人『来られるか、来られないか』なんです。この暑さのせいでしょうか」
「えっと……どうですかね。オレはたまたま通りかかっただけなので」
学校では友人が居ない。家には仕事で親がいない。しかも今日から夏休み。
そんな少年にとって、見ず知らずの老人に会話を求められるのは、酷く恐ろしい事でもあった。しどろもどろになりながらも、少年は意味なく机上に手を置く。そして凹凸のある表面を撫でながら、精一杯の愛想笑いを浮かべ続けた。
「学生さんは、今日から夏休みなのでしょう? 朝の通学声が聞こえないのは……嬉しい半面、寂しい気もしますね」
「……はは、そうですね」
少年はそう言って笑ったまま、背筋を後方に倒すと、さり気なく自分の服装を確認して見た。しかしどうだろう。制服でも無ければ、子供ぽくもない、至極シンプルな格好のはずなのに───何故『学生』だとバレたのか。
身長も顔も体格も、どちらかと言えば大人よりだと思っていたのに。
「お待たせしました。カフェオレです」
そんな少年の思考を遮るよう、カウンター席にグラスが置かれた。夏の暑さに扱かれたせいか、それは酷く美味しそうに見える。
直後。少年は、老人に対してふつふつと感じていた一抹の不思議から、いとも簡単に目を背けて喉を鳴らした。
夏の暑さによって、完全に意識を"カフェオレ"に奪われてしまったのである。
「いただきます」
少年は早速それを受け取ると、一気に喉へ流し込むべく、グラスを口に近づけた。
天井の電球が頭部を照らし、洋楽は華やかなメロディを響かせる。
少年は一足先に、体内に流れるカフェオレの冷たさを、過去の記憶から振り返っていた。そしてそれを、脳が助長し、怒涛の期待に包まれていく。
さあ───お待ちかねのカフェオレが、あと数ミリで唇に触れる。
「よお〜。来たぜマスター」
反射神経とは恐ろしいもので。
乾ききった身体を潤すべく、カフェオレを飲もうとグラスを傾けていた、そんな少年の期待を打ち砕くよう。液体と唇が触れる直前に響いた声は、少年の動作を容易く止めた。
「暑くてやってらんねぇな。いつもの頼むわ」
「はい、アメリカン珈琲ですね」
不揃いな髪を掻き上げながら、男は構わず奥へと進む。そしてやっと気づいたのか、墨色の瞳を丸くさせながら、男は少年を見つめて言った。
「こりゃ驚いた。この時間に俺以外の客がいるとはな」
「ああ……どうも」
「悪いな、変なとこ見せちまって。マスターとは長い付き合いだからつい、な」
眼鏡のレンズが、電球に反射して白く光る。
半袖Tシャツに眼鏡、それから瞳。
その全てが墨色で覆われ、只者ならぬ雰囲気が、洋楽に合わせてふわふわと流れる。
男は笑顔で少年を見上げると、そのまま躊躇無く隣に座った。両手で数えられる程、席は余っているのに……それらには目もくれず、少年の横へ。
「ああ、そういや子供は夏休みだったか。まったく……俺はお前らが羨ましいぜ」
なんでこんなに馴れ馴れしいのだろう。
ふと浮かび上がった疑問を前に、少年は我知らず眉を顰める。
「んー見た感じ『高一』ってとこだな。最高じゃねえか! 俺がお前の年齢の頃は、毎日友達と外に出かけて遊んだぜ」
虫取り、川泳ぎ……あ! 泥遊びなんかも。
どう考えても高校生向けでない夏休みの過ごし方に、少年は無意識に老人を見つめた。大人びたこの『マスター』と『隣の男』が知り合いだなんて、一体どんな縁があるのだろう。
しかし肝心のマスターは、ただ静かに手を動かすだけだった。珈琲豆の大人びた匂いが、ふわりと二人の間を通る。
(それにしても……急に話しかけてきて、一体何がしたいんだ?)
ふと湧き上がる警戒心に動揺を誘われながらも──黙ったままで居るのは、やはりどこか釈然としない。少年は、そんな己の幼稚なプライドを上下させつつ、静かに男を見上げていた。
しかし、突然の訪問者にどれだけ意識を奪われようとも、喉の乾きは消え去らない。少年は怪訝な表情を浮かべながらも、ひとまずカフェオレを喉へ流し込んだ。
店外で響く蝉の声は、暑さに負けず悶々と盛り上がる。
そしてそれは。やがて、少年のプライドに火をつけた。カフェオレで喉を湿らせてすぐ、少年は負けじと、男に言い返す。
「オレは外で遊ぶのとか、人とつるむのとか嫌いなので、そう言うのはわからないです。まだ越してきたばかりだし。あと……高一じゃなくて『高二』です」
少年がそう言い終えたタイミングで、男の前にマスターから、アメリカン珈琲が置かれた。涼しい店内とは裏腹に、湯気立つ温かな珈琲を前に、男は笑顔でお礼を述べる。
「へえ。人とつるむのが嫌い、ね」
年齢についてはノーコメントか。
どうやら男の中では、少年の学年など興味の対象にならないらしい。まるで揶揄するような、全てを見透かしたような男の笑顔。少年はどこか居心地の悪さを感じ、負けじとグラスに口をつける。
「じゃあ、お前は『何』が好きなんだ?」
挑発的な声色だった。
「別に人と居ようが居まいが、そんな事はどうでもいい。ただ、気になんだよ」
温かな珈琲を躊躇なく飲み込み、男は少年を見つめて笑う。墨色の瞳が含む、その多大な好奇心には嘘偽りが一切なかった。
───洋楽の美しい音色が、沈黙の間を繋ぐ。
少年は静かに息を吸い込むと、堂々と男を見上げて述べた。
「小説を読むことです。好きな作者がいるので、その人の作品は全部読んでます」
暗いだとか、つまらないとか───文句があるなら言ってみろ。それくらいの度量が、少年の内部を根付いていた。
友達が居ないから本を盾にしたのか
本を盾にしたから友達がいないのか
はたまた、それらは何一つ関係ないのか
人に囲まれ、色鮮やかな高校生活を過ごしたであろう男 と 慣れない街にて孤独と戦う少年。その両者が至極対極に見えて、少年は必死に弱さを隠した。
自分は今、本を盾にしている。
ふとそう悟った少年は、冷房の効いた空間の中で一人背徳感に埋もれていた。慣れない環境で蹲るのは、やはり己の心だけだったと。足踏みをして誤魔化しているのは、やはり己のつま先だったと。
しかし、そんな少年とは対照的に、隣の男は笑顔で続ける。
「へえ、いいじゃねえか。俺も好きだぜ、小説読むの。ちなみに何が好きなんだ?」
一蹴も嘲笑も含まれない、恐ろしい程に眩しい笑顔。この時、少年の目に映った男の表情は、やはり好奇心だけを先立たせていた。
会話を重ねる少年たちの傍で、マスターは一人仕事を続ける。まるで二人を見守っているような、その朗らか雰囲気を前に、少年はもう───先の居心地の悪さを見失っていた。
「
誇らしげに述べた少年。
しかし彼の中で溢れる
「デビュー作品から新作まで、全部読みました。最後のあとがきも絶対に見るし、特に気に入った作品は何回も読み返してるんです」
それから暫くの間、少年は夢中で話を続けた。サビに入った洋楽が、一曲綺麗に途切れるまで。ユーモアに手を上下させ、あどけない表情で語り続けるその姿は、やはり周りの子供と大差がない。
男とマスターは、少年の言葉を目を丸くして聞いていた。無理もない、先程まで寡黙で警戒心丸出しだった一人の少年が、急に饒舌に話し出したのだから。
そして少年がやっと話し終えた頃。
マスターと男は度肝を抜かれたように押し黙ると、たちまち二人で顔を見合せた。そして───
至極大きな声で笑った。
* * *
「お前、おもしれぇな」
目尻に浮かんだ涙を拭いて、男は笑顔で少年の背を叩く。嫌な笑いでは無かった。優しくて、どこか嬉しそうな男の笑顔に、少年はたちまち顔を赤くする。
我に返ると、結構恥ずかしかったのだ。
「うるさいな、好きなんだからいいでしょ」
先の敬語はどこへ行ったのか。警戒心が解け、無邪気な子供に戻った少年に、マスターはくすりと優しく笑う。
「あ! もしかしてお前、このカフェの名前が<
「ち、違う! そんな訳ないだろ。オレはちゃんと明確な理由で……」
「おや、おかしいですね。先程は『たまたま』通りかかったと仰っていたではないですか」
「なっ……!」
楽しそうな男に続けて、今度はマスターまでもが少年を揶揄する。その優しくも容赦ない眼差しを前に、少年は頬を染め首を振る。
また響いた大きな笑声に、電球の光が覆い被さる。久しぶりに感じた、その暖かい雰囲気を前に───気付けば、少年もつられて笑っていた。
緩やかな洋楽をも掻き消すような、心から出たその笑い。名前も年齢も知らない他人なのに、何故居心地がいいのだろう、と。
少年はふと、そんな事を考えていた。
時計の針が、かなりの時間を刻んだ頃。
少年は最後のカフェオレを飲み干すと、混沌した不思議な気持ちを噛み締めて、そっと席を立つ。
「おいおい、もう帰んのか?」
「帰ります」
髭と眼鏡と半袖と。
その全てが黒色で出来た、特徴的な男の姿。少年はそれを目に焼き付けると、マスターに代金を支払い、逃げ出すようにカフェ<
気持ちに整理を付けるには、この気持ちに気付くには、一人になる必要があったから。
夏休み初日の空は、恐ろしい程に美しかった。
* * *
「ホントは宇宙人なんだぜ、俺」
それから少年は、夏休み最終日を迎える今日まで、ずっとカフェを行き来していた。平日の昼間に、男は決まって姿を現す。
この一夏で少年の心を動かしたのは、ここカフェ<
「宇宙人なんて非科学的なもの、オレは信用してないですよ」
少年はやっと口を開くと、男に向かって淡々と述べる。
この夏休み間で少年が分かったのは『この店の居心地の良さ』と『男の性格があまりにも楽観的だった』という事のみであった。
突拍子もない話題に、呆気にとられること多数。しかし、それでもココに来続けたのは、そんな男の性格を密かに気に入っていた事にもあった。
「え、お前ホントに高二? 俺がお前くらいの歳の頃は、毎日UFOを探してたけどな」
なんなら今も探してる。そう言って笑う男の横顔は、やはり自由且つ気ままに見えた。「そんな姿に憧れている」とは、口が裂けても言わないけれど。
髭と眼鏡と半袖と。
少年から見た男の瞳は、墨色に輝いていた。そこに眼鏡のレンズが覆いかぶさり、きらりと縁が白く光る。貫禄のある大きな瞼と、ポツポツと生えた無精ひげ。そして最後に、この男きってのトレードマークである墨色の半袖Tシャツが、今日も今日とて『男の姿』を指し示す。
小説の話、カフェの話、幼少期の男の話。
この一夏で、少年が耳にした話の数々は、どれもが鮮明で瑞々しいものばかりだった。
マスターと男が知り合いだということ。
『今』の男の仕事があるのはマスターのおかげだということ、なども。
夏休み初日、もし少年がカフェ<
少年はそんなことを思い返しては、くすりと一人で笑みを浮かべる。孤独では無い『今』の姿、好きな物を心から語れる『今』の現状。
少年の心を満足させるのは、やはりココだけだった。
「つかお前───平日は殆どココに来てるけどよ、小遣いあんのか?」
「それくらいありますよ。第一、ココは他より値段が断然安いし、何より……」
ああ───そうだった、と。
少年は急に言葉を飲み込むと、カフェオレの入った冷たいグラスを両手いっぱいに握りしめる。
少年が言葉を紡ぐのも無理は無い。ココを唯一の居場所だと感じ、通い続けていた少年にとって……レトロな内観に映る、八月のカレンダーが、全ての憂鬱を示唆していたのだから。
「お前、もしかして……今日で終わりなのか? 夏休み」
言葉を失い、カレンダーに目を向ける少年の横で、男は察したように呟いた。その声に反応したのか、奥でマスターがぴたりと動きを止めている。
「いやはや……もうそんなに日が経っていたとは。寂しくなりますね」
男が来るのは、決まって平日の昼間。人が殆ど来ないタイミングだった。夕方のカフェは意外と混む。「だから今来るのが賢い選択なんだ」と陽気に語る男の顔が今でもハッキリ思い出せる。
「はい。そうですね」
少年はそう言ってにこりと笑うと、何食わぬ顔でカフェオレを口にした。
夏休み最終日は憂鬱になるとよく聞くが、カフェから出れば『孤独』が待ってる少年にとって、それは憂鬱どころの話では無かった。
学校が始まれば、生活リズムは一瞬で変化する。少年がカフェに足を踏み入れる日は、恐らくもう───
「あ、忘れてた。オレ始業式の準備してないや。そろそろ時間だし、帰らないと」
まだグラスには、カフェオレが残っている。
しかし少年は、"それ"に目を配ることなく、颯爽と席から立ち上がった。すぐ隣にいる男も見ず、目の前に佇むマスターも見ず。
───ただ、只管に地面を見ながら。
そうでもしないと「帰りたくない」とただを捏ねてしまうだろうから。高校生にもなってソレは、流石に有り得ない選択だった。
一夏の思い出として、自分は今日までの日々を忘れないだろうと、少年は一人心の中でそう呟いた。
それでも、男らの顔を見上げることが出来ないのは、やはり名残惜しいからだろうか。
お気に入りのカウンター席を背に、少年は小さく歩を進める。これで『最後』になるかもしれないのに「またね」とも「ありがとう」も言えない自分に、心底呆れて目の周りが熱くなる。
喉が痛かった。風邪を引いた訳でもないのに、搾り取られるような謎の苦しさが、ひしひしと少年の身体を蝕む。
体が急に熱くなった。いつもの二分の一にも満たない小さな歩幅で。少年は必死に目を擦る。
蝉の声は、そろそろ終わりだ。
「おい───待てよ」
その時。背後から聞こえたのは、何度も聞いた"あの"声だった。
少年の耳には洋楽の鮮やかなメロディが、一切聞こえなくなっていた。
「何も言わずに帰るつもりか? やれやれ、ホントに薄情な餓鬼だぜ」
唯一少年の鼓膜を揺らすのは、溜息混じりに立ち上がる、一人の男の声だった。振り返ることが出来ず、その場に佇む少年の元へ、ゆっくりと足音が近づいてくる。
「おい、こっち向けよ」
「……嫌です」
「向けってば」
「嫌です」
「ココにお前を笑うヤツなんて居ねぇぞ」
ハッキリ響いた男の言葉に、少年はハッとしたように目を見開いた。マスターは一人、男の言葉に頷きながら、静かに少年を見つめている。
指先が震えた。やはり少年にとって『心地良い場所』から『孤独の地』へと自ら帰っていく事は、至極辛いことだったのだ。
早くこの場から居なくなることで、名残惜しさに気付かないふりをしようとしたが───どうやら男は、そんな『別れ』を許さないらしい。
少年はもう一度目を擦ると、ゆっくりと後ろを振り返ってみせた。
「ふっ……ブサイクな顔だなぁ、おい」
「……うるさいな、別にいいでしょ」
「ああ、そうだな」
男が少年に同調すると同時に。少年の頭に、ずしりと大きな重みが乗った。
「また会おう、少年」
髭と眼鏡と半袖と。
今日も今日とて全身墨色に包まれた男は、そう言ってニッと白い歯を見せて笑った。それに負けじと、プライドの高い少年は、無理やり笑顔を作って対抗する。
「次会った時は、お前の質問に『何でも』答えてやる。特別にな」
「別に質問なんてないですよ」
「おいおい、ひでぇ言い草だな」
頭に乗っていた重みが、わしゃわしゃと少年の髪を撫で去る。雑だが優しいその手つきに、少年はまた目の周りが熱くなっていくのを感じた。
「それじゃ、またな」
「はい。ありがとございました」
やっと言えたその言葉。「ありがとう」に込められた数々の意味を、きっと男は理解していないだろう。それでも少年の心は、先程より断然、穏やかな気持ちに変化していた。少年は、今度は大きく一歩を踏み出すと、しっかり"前"を見て歩き出した。───さあ、行こう。
「あ、ちょっと待て少年。そういえば俺、お前に言い忘れてた事があったわ」
「……なんですか?」
やっぱり楽観的で自由気まま。
さっき迄のいい雰囲気が台無しだと、少年は静かに男を振り返る。すると男は、三日月のような笑顔を作ると、まるで悪戯を思い付いた子供のように、少年に向けて言葉を発した。
「次の新作は『青春系』だから、絶対読めよ。なんせお前、まだ若ぇのに 全部諦めたような顔 してるだろ? だから、な。この夏で伝え切れなかった事は、全部文章で教えとく。だから───」
楽しく生きろよ。
男はそう言うと、満足したようにカウンター席へと戻って行った。ジャズミュージックが、店内に流れる沈黙を連れ去る。
意味が分からず、その場で固まる少年を他所に、男は楽しそうにアメリカン珈琲を飲み込んでいた。
「おいおい、まだ分かんねぇのか? 髭と眼鏡と半袖。これ俺の『ペンネーム』なんだぜ」
「……え?」
戸惑う少年を他所に、マスターはくすりと笑みを零していた。
「ひげ、めがね、はんそで」少年は男の言葉をぶつぶつと復唱すると、その場で暫く考え込む。そして遂に───
「え、
声が震えた。全身が震えた。
呑気にアメリカン珈琲を飲む男に向かって、少年は瞬きもせず真剣に呟く。
───こつん、と。
木色のテーブルと珈琲のコップが音を響かせる。その場に佇む少年を他所に、男はにこりを笑みを浮かべると、今迄とは違う「大人」な表情で言った。
「次会った時は、お前の質問に『何でも』答えてやる、特別にな。だから、また会おう」
ジャズミュージックと蝉声が混ざる。
夏休み最終日の空は、夕焼けに溶け込む烏の群れや、忙しなく歩く人々、そして弱々しく鳴く蝉声の中で───
至極美しく煌めいていた。
一夏の驚愕 楠 夏目 @_00
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