第5話 渚。

「しかしベアトリーチェが同じバスにいた事すら失念していたとは…我が今生の雪辱…!」

「…」


 後輩君はどうやら、隣にいたわたしの存在にすら気付いていなかったらしい。凄まじい集中力か、はたまたえげつない鈍感少年か。

 彼は蝉の牛牛牛ひしめく公園の暑さにか、アタシに手を引かれて全力疾走した身体の火照りにか学ランを脱いだ。薄い白のYシャツ越しに猫が虹を吐いてる赤いTシャツが見える。


「へぇー、カワイイシャツ着てんじゃん」

「!」


 後輩君は顔を学帽を下ろして完全に隠してしまった。そんなに顔赤くしてるの見せたくないのかな? 近付いて掻っ攫ってやると、帽子の裏には茹でたエビの殻くらい赤くて眉を八の字に歪めた可愛らしい顔が息を潜めていた。後輩君はまじまじとアタシに見つめられて石になってしまった、微動だにしない。


「どっかの神話なら、アタシはメデューサかな?」

「あ…ギリシア神話」

「物知りだね」


 帽子がつけた変な癖毛の前髪を弄ってみるも治らず。


「あああああああ!!」

「何その動き」


 慌てふためく後輩君は蚊でも振り払うか下手っぴな平泳ぎでもしてるのか、トンチンカンに両腕をバタつかせて白い砂浜に尻餅の跡を残した。


「さ、さっき…手、に握って…」

「今かよ。時差ボケかな?」

「あ…その…」

「その?」

「あ、ありがとう…ございました。柔らかかった」

「お礼なんだ…あと、その感想いる?」

「柔らかかったので」

「ンフフ…そっ」


 やっぱり面白い子だな〜と改めて実感した。俯いてグラビアの娘みたいなセクシーポーズで佇む後輩君に両手を差し出す。


「ん」

「どうも…」

「んしょっ」


 スラっとした背丈の割には軽い手応えだった。180とちょっとくらいだと思う。未だ起こした後輩君の手を離さず握っていると、彼は困り顔→動揺→赤面と綺麗な三態をアタシに見せた。


「名前は?」

「え、あっ…雲泉亜紋うんぜんあめん

「それ、本名じゃないでしょ」

「?」

「何。さも不自然だったかなって顔して」


 自称アメン君の教室を4月頭に通った時に、彼が窓際の席に居たのをアタシは知っている。出席番号順であ行の子がそんな後ろのワケはない。


「まいっか、アタシは…」

「ベアトリーチェ」

「…そ、ベアトリーチェ」


 真っ直ぐ過ぎる瞳が一瞬アタシを見据えて、そして直ぐに赤い顔をそっぽ向けた。余りに反応が可愛かったので改名して差し上げた。


「そろそろ…」

「そろそろ?」

「解放して、貰えないだろうか?」

「あー、手ね」


 もいっこくらい可愛いのが欲しい。意地悪用の顔を作る。


「アタシのが年上だしなぁ」

「え?」

「『お願いします』」

「はい、お願いします」

「そこはあっさりいくんだ笑」


 押し引きが先天的に上手い子だな〜、おもしろ♪

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