温い雨
五木林
温い雨
天使がドアから入ってきた。現れるにしても、舞い降りてくるとか、そういうやり方が期待されているのだと考えたことはないのだろうか。
ま白い翼をたわわんと、揺らしながら歩み寄ってくる。近くから見ると、黒縁眼鏡をかけていることに気づいた。顔のほとんどを覆う長い黒髪に隠されていたのだ。天使らしくないではないか。訝しむ僕を、真っ向から見つめ返す彼女のTシャツには恥ずかしげもなく「LOVE and PEACE」と。
「俗っぽいなあ」
「そう、それなんです」
天使が初めて言葉を発した。壁にかかった時計は、四時を指したまま止まっている。
「私の周りにあると、俗っぽいものはだんだん壊れていくのです」
ほう、と、はあ、の中間で返事をする。いよいよ天使とは思えないが、純白の翼は、天使のようなとしか形容することができない。天使であることの証明、のようなものが、極端にその両翼に偏っていた。
「あなたは本当に天使なのですか」
「まあ、私天使だなんて名乗った覚えはありませんよ」
目を丸めて言う。では、天使ではない?
「まあ、随分どうでもいいことに頓着なさるのね」
天使、あるいはその他の異形、は、そう言い放つと僕の隣に座り込んだ。翼が後頭部にぶつかる。思ったよりも、粉っぽい。落ちた粉がカーペットに積もりだした。天使を自室に招いたことも、もてなした経験もないので、とりあえずお茶でも飲むか聞いてみる。
「こっちの飲み物って、あまり好かないのだけれど。せっかくだから頂きましょうか」
にこりともしない。
お茶を入れている間、天使は窓の外を見つめていた。いつも――当然、僕が物心ついてから現在までという意味で――と変わらず雨は降っている。雨が強酸であるせいか、世界は昨日より摩耗して見えた。
粗茶ですが、と言って差し出したお茶を、そうね、と言って天使は受け取る。一口だけ飲んで話し出す。
「俗っぽいものが、多すぎるのです」
いや、多くあるものが俗である、と言った方が正しいのでしょうが。
「なので、いくらか取り払ってやるのです。そうやって擦り減らした世界なら、何か、ましになる気がしませんこと? 」
僕は、肯定も否定も出来ずに、天使の手を見つめる。手の甲の、フラットさに、つい見惚れる。
「その、世界をましにするとして、何の為なのでしょう」
「さあ? さあ……。」
天使は考え込んでしまった。
天使は、お茶を飲み終えると立ち上がった。僕は下半身に力を入れようとして、起き上がれないことに気づく。脚が、脚ではないような、機能不全。それどころか、ひびが入っているような。
「あの、俗っぽいものって、もしかして」
「わからないのです」
天使が力なく答える。
「それすら、建前かもわからないのです」
そこで再び、窓の外を見やる。暮れが滲んで、ほのかに抒情的である。雨は、悲しみながらも粛々と役目を果たしているように見えた。雨によって閉ざされているというのに、家々に漂う人の気配と死の予感は届いている。体温で押し込められるかのような、延びることも縮まることもない終わりを待っているのだ。
「神の意思というのは――」
天使が意を決したように言おうとするのを、僕は遮った。
「まだ、待っている人がいるのでしょう」
「ええ、しかし」
「わかっています。ですが、僕たちには結局、長すぎたのです」
僕の皮膚は、乾いた泥のように剝がれつつある。手の先からだんだん、広がってくる。
「ありがとうございました。良い旅を、それから、同胞たちをよろしく。」
天使は、ようやく微笑んだ。
「本当、月並みな言葉ですね」
天使は、ドアから出て行った。
温い雨 五木林 @hotohoto
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