第7話 行方不明の旦那

 かずさは、今回の旅行をどう思っていたのだろう。

「桑原さんと温泉旅行にいく」

 ということは話している。

 そして、それに対して、かずさは背中を押してくれた。

 しかし、かずさは、桑原とは会ったことがない。どんな人かというのは、さくらの口から聞いたくらいで、それ以上のことは何も知らない。

 それでも、さくらの背中を押すということは、さくらに全幅の信頼を置いているからなのか、さくらの見る目を信じているからなのか、どちらかというと慎重なタイプだと思っていたかずさが、ここまで手放しで賛成してくれるということは、逆に怖い気もするが、それだけ、さくらの見る目を信じているからだともいえるのではないだろうか。

 さくらは、そういう意味でも、桑原を信じている。

「自分の見る目を信じてくれているかずさの、自分を見る目を信じている」

 というような、負のスパイラルとは逆の、まるで、

「真のスパイラル」

 とでもいうような感じである。

 見えない中の螺旋階段を上り続けることで、その先に見えてくるものは、また最初に戻っているのではないかという思いがあるのだった。

 しかも、

「交わることのない平行線」

 であるにも関わらず。それがらせん状の曲線であることから、まるで、童話に出てきた。

「ジャックと豆の木」

 のようではないか。

 天に向かって伸びている棒に、ツタが絡み合って、らせん状になっているものを、子供たちが天に向かって登っていくようなそんな光景だった。

 ただ、天に向かって何かを作ったり、伸びていくものの話としては、あまりいいイメージを、さくらは持っていなかった。

 まず最初に思いつくのは、聖書の一説にある、

「バベルの塔」

 の話である。

 古代バビロニアの王が、天に近づくという気持ちからなのか、それとも、自分の権威を民衆であったり、神に対して見せつけようという意味合いからなのか、雲すら貫くほの高い塔を建てようとした。

 そして、完成間際になって、その王は空に向かって矢を射ったのだった。

 それを見ていた神が怒り、人間の傲慢さと、その横暴さに怒りを覚え、一瞬にしてその塔を壊してしまい、さらに、王をはじめとして、民衆皆が、言葉が通じないようにして、世界各地に人類をばらまいたという話であった。

 その話をどのように解釈するかというのは、難しい問題ではあるが、

「人間が自分たちに近づこうとしていることに神が恐怖のように感じた」

 という考え、つまりは、

「出る杭は打たれる」

 というものであろうか、それとも、

「人間は、地域によって言語が違って、考え方も違う。それが戦争を引き起こす」

 という意味で、後付けとして、この話を作ったという考え方。

「人間は、しょせん、神に近づくことはできない。近づいてはいけない」

 ということで、逆に神というものを、絶対の信仰として、信じさせようという暗示のようなものではないかという考えである。

 どれであっても、人間としては、ネガティブな話であることに違いはない。

 もう一つの思い出す話としては、芥川龍之介の

「蜘蛛の糸」

 という話である。

 地獄に落ちた男が、一度だけ、虫を助けたということで、お釈迦様が、蜘蛛の糸を助け船として、血の池地獄に浸かっていた主人公の前に、垂らしたのだ。

 それを知った主人公の男は、それを上り始めた。それを見た他の人たちは自分も助かろうとして、下から登ってくる。

 主人公は、自分だけ助かりたいものだから、自分から下の糸を切ってしまうという話であり、

「自分だけが助かりたいという気持ちで他の人を犠牲にした」

 ということから、お釈迦様に愛想をつかされ、結局、男の手前で糸が切れ、そのまま。地獄に真っ逆さまになって落ちていったということである。

 これも、宗教的に考えれば、戒めに値することではあるだろう。確かに、自分だけが助かりたいということで、他の人を犠牲にするということは、宗教では許されないことなのかも知れないが、実際には、そんなことはない。

 日本の刑法には、

「違法性の阻却の事由」

 というものがある。

「正当防衛」

 や、

「緊急避難」

 さらに、

「自救行為」

 などと呼ばれるものがそれであり、人を殺しても、その違法性を否定する事由とされるものである。

 正当防衛というのは、

「相手に殺されそうになっているので、やむを得ず抵抗すると、相手を傷つけてしまった」

 などというものである。

 緊急避難としての分かりやすい例としては、客船などが遭難し、木の切れ端が浮かんでいたので、それに必死にしがみついたら、他の生存者もそれに気づいて、その木にしがみつこうとした。

 だが、二人が捕まってしまうと、確実に二人とも溺れ死んでしまうということが分かった場合、最初に掴んだ人が、自分が助かるために、木にしがみつこうとしている人を、引き離そうとする行為などを、緊急避難という。

 この場合も、自分が助かるために、行ったやむを得ない行為ということが認められれば、罪に問われることはない。

 もちろん、道徳的や、被害者家族の心情からすれば、やりきれない気持ちになるだろうが、二人ともそこで死んでしまうことが分かっていて、一人でも助かろうとすることを罪としてしまうことが本当にいいのか? というのが問題になるだろう。

 そういう意味で、蜘蛛の糸という話は、法律問題、倫理の問題とも絡んでくるので、実に難しい問題であった。

 そして、もう一つが、前述の、

「ジャックと豆の木」

 の話であるが、この話も、少し変わっている。

 何を教訓にする話なのかというのが、最後まで曖昧で、取って付けたような教訓が描かれているところが面白いと言えば面白い。

 不可思議な話も多いような気がするのは、気のせいであろうか。

 エピソードのわりに、教訓が最後の取って付けというところが、いまいちわかりにくいというべきであろうか。

「バベルの塔」

 の話であったり、

「蜘蛛の糸」

 の話のように、明らかに何が悪いのかということが分かっているわけではない。

 そこで考えられるのは、前の二つの話には、

「勧善懲悪」

 というものがハッキリと分かるのだが、

「ジャックと豆の木」

 の話では、勧善懲悪という感覚とは少し違っている。

 しかも、この話は、なぜか最後に主人公が、

「楽をして幸せを手に入れることがよくないことだ」

 と、いきなり感じるところに違和感があり、

「取って付けたような話だ」

 と言われても仕方がない。

 そもそも、何も悪くない巨人が、追いかけてきたという理由だけで、豆の木を切られて、落っこちて死んでしまうという話ではないか。そもそも、盗んだ方が悪いのに、自分のものを取り返しに行った方が、殺されるというのはいかにも理不尽である。

 それこそ、勧善懲悪とはまったく違う話だといえるのではないだろうか。

 確かに、巨人の死によって、ジャックの目が覚めるというのであるが、一人の人間の目を覚ますために、この話はあまりにも、ひどすぎるではないか。そもそも、そのことに誰も気づかないというのが、いけないことだといえるのではないだろうか。

 そんな理不尽な話は、この、

「ジャックと豆の木」

 の話だけではない。

 日本の、

「浦島太郎」

 の話にも同じことが言えるのではないだろうか。

 浦島太郎という話は、大まかにいえば、

「浜辺で釣りをしていた浦島太郎が帰ろうとしたところに、カメを苛めていることもたちがいて、それを諫めると、カメがお礼にということで、浦島太郎と竜宮城に連れていってくれる」

 というところがら始まり、

「竜宮城では、乙姫様がいて、浦島太郎に、まるでハーレムのような豪華なもてなしをしてくれ、それが幾日も続けられた。最初は楽しくて仕方がなかったが、そのうちに故郷を思い出してしまい、望郷の念に駆られたのだった。それで、太郎は乙姫に、自分のいた世界に帰りたいというと、乙姫は太郎に対して玉手箱を渡し、決してあけてはいけないといって、太郎をまた来た時同様、カメに乗って、元の地上に戻してあげたのだった」

 ここからが問題なのだが、

「太郎が元の世界に戻ってみると、そこは自分の知らない世界になっていて、そこでは、知らない人たちが住んでいた。そこで太郎は途方に暮れてしまい、開けてはいけないと言われた玉手箱を開けると、おじいさんになってしまった」

 という話が一般的に教育で受けたり、絵本に書いてあったりすることである。

 しかし、おかしいではないか、

「カメを助けていいことをしたはずの浦島太郎が、最後おじいさんになってしまうというのは、理不尽だ」

 ということが言われていたりする。

 しかし、実際には、この話には先があるのだ。

「浦島太郎がお爺さんになって途方に暮れていると、浦島太郎を気になった乙姫様は、カメになって、地上に太郎に会いにくる、そして、太郎は鶴になって、二人は幸せに暮らした」

 というのが、本当の話だという。

 これであれば、ハッピーエンドなのだが、それを敢えて、途中で終わらせてしまったのは、実は明治政府の考えだという。

 要するに、

「開けてはいけない」

 という、いわゆる、

「見るなのタブー」

 と呼ばれるものが、おとぎ話には多いのに、これだけは別だとすれば、辻褄が合わなくなるということで敢えて、おじいさんになるというところで、この話は戒めだとして、途中で切ってしまったのだろう、

 確かに、

「見るなのタブー」

 というものは多い。

 聖書の中でも、

「ソドムの村」

 であったり、おとぎ話としては、

「雪女や、鶴の恩返し」

 などという話があるではないか。

 そのすべてが、見てしまったことで、制裁を受けるという状況なので、これだけ違うとしてしまうと、

「見るなのタブー」

 の説得力がなくなってしまう。

 それが、明治政府の考え方だったのだろう。

 おとぎ話というものは、確かに、いろいろな地方に昔から残っているものを編集して書いているものなので、起源は違っているのだろうが、教訓は、世界どこでもほとんど変わりはない。不思議な話ではあるが、そう考えると、宗教が信じられるという理由も分からなくもないといえるだろう。

 おとぎ話のように、何も一つのこととして、解釈させなければいけないわけではないので、さくらは、自分の中で、何を考えればいいのかということを想像してみた。

 さくらは、今回の事件をまるでおとぎ話のように考えている自分がいるのを感じていた。

「今度の事件には、何か教訓めいたものがあるのだろうか?」

 と考えると、浮かんできたのは、

「勧善懲悪」

 という考えである。

 世の中の仕組みとして、

「善は正しいので、助けられるべきで、悪は悪いことなので、懲らしめなければいけない」

 これが、勧善懲悪の意味であり、実に分かりやすいものではないだろうか。

 おとぎ話にしても、

「見るなのタブー」

 などというのが、一番分かりやすいもので、

「見てはいけない」

 と言われたものを見てしまうと、それまでの幸福をすべて失ってしまうということになる。

 しかし、見てしまうというのは、人間の中にある好奇心に負けることで見てしまうというものではないのだろうか。人間というものは、好奇心が決して悪いものというわけではない。むしろ、

「知的好奇心」

 というものが存在するからこそ、人間は他の動物にはない、高等棒物としての特徴をたくさん持っているわけである。ここまで自力で進歩する動物もないのではないだろうか。

 それを敢えて、好奇心を否定するということは、

「人間は神ではない。神に近づこうなどというのは、おこがましいことであり、神のいうことは絶対だ」

 ということによる、一種のマインドコントロールなのではないかと思えるのだった。

 さくらは、今回の旅行を、一種の、

「見るなのタブー」

 のようなものではないかと思っている。

 誰かから、自分に対して、それは桑原なのだろうが、

「見てはいけない」

 ということに類することを行って、勧善懲悪から、自分が不幸になるという構図が見えてくるような気がするのだった。

 もっとも、それがどのようなものかなどということも分かってはいないし、今回の殺人事件というものが、ひょっとすると、その予感の一部なのかどうかということも分からない。

「いや、その発想は根本的におかしい」

 というものであるが、さくらが感じているのが、

「偶然かどうか」

 ということであることを、ハッキリとは分かっていない。

 だから、さくらは、自分が考えていることが理不尽であり、辻褄があっていないということだと分かっているのだろう。

 そんなことをいろいろ考えていたりすると、いつの間にか、皆それぞれ独自の行動をするようになっていて、それだけ気が付けば時間が過ぎていたということを感じたのだ。

 そんなことを考えていると、警察のその日の捜査も一段落したようで、

「こちらの現場には、誰も立ち入らないでくださいね。そして、皆さんには申し訳ないが、この宿を去る時にまだ事件が解決していない時は、申し訳ありませんが、連絡先だけは、ハッキリさせておいてください」

 ということであった。

 今のところ、一番先にここから離れる予定になっているのは、さくらと桑原だった。

 桑原は、自分だという自覚をもってか、

「はい、分かりました」

 と、片桐警部補に答えていた。

「よろしくお願いしますね」

 と明らかに桑原一人に返事をしてから、片桐警部補は、帰っていった。

 警部補の話では、まだ旦那の行方は分かっていないという。明日も発見できない時は、近いうちに、捜索願が出されるかも知れない。もっとも、これが容疑者だということになれば、

「指名手配」

 ということになるのだろう。

 彼ら夫婦については、それから新聞で、

「仮面夫婦」

 というような書かれ方をしていた。

 死んだ奥さんも、行方不明になった旦那さんも、二人とも不倫をしていたという。そうなると、旦那の同期は十分だし、だからと言って、旦那だけが容疑者ではない。奥さんの不倫相手も十分に容疑者だろうし、下手をすれば、旦那の不倫相手も、怪しいだろう。

 旦那の行方が分からないということは、旦那の不倫相手が旦那を隠しているということも考えられる。そうなると、旦那と不倫相手の共犯という説も、まんざらでもないだろう。

 とにかく、W不倫ということであれば、いろいろな可能性が考えられる。もちろん、一番の問題は、それぞれの性格にあるのだろう。

 旦那が犯人だとすれば、奥さんを殺してでも、不倫相手と一緒になりたいと思ったか、あるいは、奥さんから、相当ひどいことを言われて、衝動的に殺してしまったか? ただ、殺害が毒殺ということは、衝動的な犯行とは思いにくい。奥さんに恨みがあったとしても、衝動的というよりも、ストレスがたまりまくって我慢できなくなったということが理由としてはあるだろう。

 もし、奥さんの不倫相手は犯人だとすると、どこででもいつでも、犯行は可能なので、アリバイは関係がなくなる。ただ、この場合は、毒殺なので、毒をようやって手に入れられるのかということも、大きな問題となるので、果たして誰が、毒を手に入れることができる人なのかも問題である。

 旦那の不倫相手が犯人だとするのであれば、これが一番信憑性はない。奥さんを殺してでも、旦那と一緒になって、どれほどのメリットがあるのかということであるが、この旦那が、どれほどの資産があるか、あるいは、保険金がどれほど入るかということも問題になる。

 ただ、保険金の問題であれば、下手に保険金が高額であると、旦那と不倫相手は、一番の容疑者ということになる。そこまでのリスクを犯すだけのメリットがあるというのだろうか?

 ただ、W不倫をしているということは、基本的に、二人は冷めた関係だったことは間違いない。少なくとも愛のない夫婦だったということなのであろう。

 そう考えてくると、もう一つの違う考えが生まれてくる。

 あれから数日、警察は血眼になって、旦那を探しているが、一向に見つかる気配もない。公開捜査に乗り出そうとしている状態で、警察が足取りを追っているが、まったくつかめないということであった。

 その状態を新聞で見た桑原は、

「まさかとは思うけど、もう旦那さんもこの世の人ではないかも知れないな」

 と言った。

 事件が起こってから、一週間が経ったが、二人は大学もあるので、すでに戻ってきていた。

 変な事件に巻き込まれてしまったことで、幸か不幸か、二人の関係は、温泉に行く前に比べて、少し深まったようである。

 それは、桑原が事件に興味を持ったからであり、それは、趣味で小説を書いているということが大きく影響しているようだ。

「事実は小説よりも奇なりというからね」

 と言ったが、さくらも、

「まさにその通りよね」

 と同意見であった。

 桑原は結構、ミステリーも書いているし、昔の探偵小説などを読むのが好きな方なので、自分でもいろいろ推理をしてみた。戦術の、W不倫における犯人の可能性についてのことも、さくらに話して意見を聞いてみたが、

「う―ん、どれも、信憑性がありそうには思うんだけど、決め手に欠けるというか。皆信憑性があるということは、それぞれに穴もあるというわけで、それが、

「決め手に欠ける」

 ともいえるのではないだろうか。

「でも、一つ一つを潰していくことで、信憑性を絞ることはできる。論理的に考えるだけではなく、時には、大胆な考えも持っていた方がいいかも知れないわね」

 とさくらは言った。

「そういえば、温泉で知り合った画家の先生が面白いことを言っていたな」

「というと?」

「画家は、目の前に見えることだけを書くだけではなく、時には大胆な省略も必要なんだと、言っていたんだよ」

 と、桑原は話した。

「これは、画家の話ではなかったんだけど、僕も昔、絵を描こうと思ったことがあったんだ。そして、僕の友達に、同じように絵を描きたいと思っているやつがいて、その友達と絵を描くことについて話をしたことがあったんだけど、それを今回、少し思い出したんだよ」

 とさらに、桑原が続けた。

「それはどういうことなんですか?」

 とさくらが聞くと、

「その絵を描くのが好きなやつも、その時の僕も、絵を描きたいとは思うんだけど、なかなか描けなかった。なぜ、描けないんだろうっていう話をしたことがあったんだけど、その時のことなんだよね」

 と言って、一瞬考え込んでいるようだった。

 さらに続ける。

「その理由が二つあるんじゃないかという結論にその時は至ったんだけど、そのどちらも、よく考えると、結局は一つではないかと思うような、関連性のあることのように感じたんだ。まず一つは、バランスの問題ではないかと思ったんだけど、そのバランスというのは、例えば風景画を描く時など、海があって水平線があって、空があるという光景を見た時、自分の絵をどの部分に水平線を持っているか? ということになるんだけど、目の前に見えている光景をそのまま描こうとすると、いつもバランスが悪い気がするんだ。要するに、空と海をどのあたりから描き始めるかによって、変わってくるからに違いはないんだけどね。それについて、友達は面白いことを言っていたんだ」

 と桑原はいう。

「どういうこと?」

 と一瞬、言葉が止まった桑原に、相槌を打つかのように、さくらは訊ねた。

「友達はね。その時、急に後ろを向いて、腰をぐっと屈めて、股の間から、被写体を見たんだ。そして、僕に、お前もやってみるって言ったんだけど、やってみると、面白い光景が見えたんだよ。今までは空が七で、海が三くらいの割合に見えていたものが、逆さから見ると、反対に空が三で、海が七に見えたんだよ。錯覚だろうから、当然の誤差はあるだろうが、その違和感は、確かに心境を一変させるものだったんだ」

 と、桑原は言った。

「それって、日本三景の天橋立では有名な、股のぞきというものになるのかしらね? 股の間から除くと、竜が天に昇っていくように見えるんですって」

 とさくらはいう。

「うん、それは知っている。僕もそれを感じたんだけどね。そして、僕はそれを見た時、もう一つのことに気づいたんだ」

「というと?」

「もう一つというのは、遠近感だったんだ。そして、遠近感ということに気づくと、どうして股の間から覗くと錯覚を起こすのか少し分かった気がしたんだ。股の間から覗いた時には、それまでに感じていたはずの遠近感がまったくない。頭に血が上っていくのを感じるからなのかって思ったくらいだったよ」

「どうしてなのかしらね?」

 と、いうさくらの質問に敢えて答えようとはせず、

「その時の遠近感のなさがなぜなのか、それもすぐに分かった気がしたんだ。その原因というのが、光の濃淡だったんだよ。光あるところに必ず影があるはずだろう? 普通に見ている時は、意識をしていないせいか、影というものをあまり気にしないんだ。それだけ風景に同化しているとでもいえばいいのかな? でも、絵を描こうと思うと、光と影を無視することはできない。なぜだか分かるかい?」

 と聞かれたさくらは、少し考えて、

「影をどのように描こうかという意識をするからなのかしら? 特に素人だったら、それを意識するじゃないかしら?」

 と答えた、

「うん、確かにそうなんだ。絵を描く時というと、最初は全体を見てバランスを考えて描こうと思うんだけど、その途中から、どんどん、描いている範囲ばかりに集中して、まともに描けていないことに気づく。そして、色の濃淡が次第に遠近感を表していることに気づくと、影が立体感を表していると感じるんだ。そう、股の間から見て、遠近感を感じないのは、そこに絵を見ているような、平面を感じるからなんだよ。だから、僕は敢えて、絵を描こうと考えた時、股の間から覗いてみることにしたんだ。まだ実際に絵が描けるまでにはなっていないんだけどね。やっぱり、才能がないのかな?」

 と言って、彼は笑ったが、さくらは、笑い返すことはできなかった。

 それだけ、桑原の考えに陶酔したというか、感動していたのだ。

 こんな話をしている時、警察から連絡があった。行方不明になっている旦那が見つかったという。出頭してきたわけではなく、殺害されているのが見つかったらしいのだ。さらに不思議なのは、

「死後かなり経過しているということなのだが、どうやら、奥さんよりも先に殺されている可能性が高いようなんです」

 ということであった、

「ところで、どこかにその死体は隠してあったんですか?」

 と桑原が聞くと、

「ええ、だからなかなか見つからなかったんですよ」

 と、刑事は答えた。

 それを聞いて、さくらは、不安な顔になり、電話をしている桑原を見つめた。スマホをスピーカーにしていたので、話は聞こえたのだ。ということは、今二人きりで、他には誰もいない部屋の中にいた。何をしていたというのだろうか?

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