第4話 滝つぼの話
宿についた時間は、午後三時くらいだった。昼食は伊豆急下田駅の近くで済ませた。お互いにそれほどお腹が減っていたわけではないということで、喫茶店での軽食で済ませたが、さくらは、久しぶりにエビピラフを食べたのだが、
「こんなにおいしいと思ったのは久しぶりだ」
と感じた。
そういえば、エビピラフを最後に食べたのはいつだっただろう? 確か、かずさと食べたのが最後ではなかったか。あの時は、さくらが無性にかずさに会いたくなって、自分から連絡をした時だったと思う。
その時のエビピラフの味を思い出してみたが、今回食べたエビピラフの味が記憶を打ち消したのか、思い出せなかった。それだけ、あの時の味と違ったということか、それとも同じだったので、意識が重なってしまったのか、どちらか分からないが、その時の記憶を思い出させておいて、味を思い出させないというのは、何ともじれったい気持ちにさせられて、辛さすら覚えたほどだった。
だが、エビピラフがおいしかったのは事実で、エビピラフに罪はない。
「そのおいしさに免じて、許してやろう」
などと思ったが、自分が何ともおこがましい人間なのかと思い、急におかしくなったさくらだった。
そのおいしさを忘れないようにしようと思ったが、
「しばらくは忘れないような気がする」
とも思った。
それだけ、バターの味とエビの味が微妙にマッチしていて、
「そういえば、前に食べた時も同じことを思ったんだっけ」
というのを思い出すと、
「エビピラフ、恐るべし」
と感じたのだった。
さすがに、あまりお腹が空いていなかったせいか、エビピラフでも、結構腹が膨れたような気がした。
だが、ここでエビピラフを食べたことが、果たしてよかったのかどうか、その時はまだ何も分かっていなかった。
宿について、早速散策に出かけようと思ったのは、お互いに満腹感が残っていたからだろう。せっかくの夕食をおいしく食べない手はない。
「どこか、まずは、散策してみよう」
と言い出したのは、桑原の方だった。
「ええ、私も今、そう思っていたのよ」
と、お互いに気持ちが一緒だというのは嬉しかった。
やはり、一緒に来たのだから、お互い気持ちが離れていては、嬉しくないと思うのももっともなことではないだろうか。
宿の女中さんに聞くと、滝つぼのことを教えられ、
「へえ、温泉に滝つぼって、セットなのかしらね?」
と、思わず呟いたさくらに対し、一瞬怪訝な表情をした女中さんを顔を見逃さなかったさくらだ。
「ここから、あの道を横断したところに入り口があるから、そこから入ればいいですよ。標識も出ていないので、知らない人はただの登山道としてしか思わないでしょうね。今は時期的に落ち葉も多いので、特に知らない人には分かりにくいところだと思います」
と、女中さんは言った。
確かに、季節は秋になっていたが、まだまだ都心部では真夏日が続いたりしているのだが、さすがにこれだけ山間に入ると、紅葉の時期になっているということか、
「やっぱり、来てよかったのかしらね?」
と感じた。
もし、誰かが同伴してくれなければ、一人でとても温泉に来てみようとは思わなかっただろう。
「桑原さんには、感謝だわ」
と感じたが、この思いは、温泉に連れてきてもらったというだけではなかったのだが、きっと、桑原も同じ思いなのだろうことは、さくらにも分かっていたのだった。
二人は、部屋で落ち着いて、三十分もすれば、
「そろそろ、滝の方に行ってみようか?」
という桑原の言葉に誘われるように、表に出た。
やはり表は想像以上に涼しくて、寒いくらいだった。寒さを予想して、長袖にセーターを着てきたのは、正解だったと二人は思ったのだった。
滝を見ていると、滝つぼに吸い込まれそうな感覚に陥るのは、今までに何度もあった。特に、さくらは、高所恐怖症で、閉所恐怖症だった。
高所恐怖症は、子供の頃、遊んでいて、高いところから落っこちて、背中から落ちたために、一瞬呼吸困難なったという恐ろしさが秘められていた。
あれは、まだ小学生の二年生くらいだっただろうか、そのことはまだ自分が、瓦の弱い子だということを自覚できていない頃だった。
「もう少し、身体が弱いという自覚が早かったら、けがをすることも、高所恐怖症を感じることもなかったかも知れない」
と思うのだった。
閉所恐怖症の場合は、ずっとそのことに気づいていなかった。三大恐怖症と言われる、高所恐怖症、閉所恐怖症、暗所恐怖症の中で、一番意識しにくいものではないかと思うのだ。
高所恐怖症の場合は、高所に上らなければ分からないが、結構すぐに分かってしまう感覚である。暗所恐怖症は、一番分かりやすいと思われるが、高所恐怖症ほどではないと思えた。だが、暗所恐怖症というのは、その場において、何かビビッてしまったり、不安に感じることになったとしても、それを閉所恐怖症だと自分で感じないのではないかと思うのだ。
さくらが、閉所恐怖症を意識したのは、ひょんなことからだった。一番意識しにくいのが併称恐怖症だとすると、確かにさくらが意識をしたシチュエーションも分からなくもない。
たぶん、閉所恐怖症の人で、同じシチュエーションによって閉所恐怖症だということを理解できることはないのではないかと思う。
「一体、世の中に、閉所恐怖症だと感じている人がどれほどいて、実際に閉所恐怖症なのに、意識できていない人がどれだけいるのか、調べてみたい」
と感じるほどだった。
きっと、後者は結構いるに違いない。
さくらが感じた、
「自分が閉所恐怖症なのではないか?」
という感覚は、電車に乗っている時に感じたことだった。
閉所恐怖症とは、ある意味、狭いところに閉じ込められた李した時、それが密室だったりなどすると、閉所恐怖症になったりするのだろう。それがエレベーターの中など、故障や、ちょっとした地震などで、停止してしまった時などに感じてしまうもの、そう、トラウマである。
恐怖症とは、恐怖体験がトラウマとして残ってしまい、その最初の経験を覚えていなかったとしても、似たような経験をすれば、恐怖がよみがえるというもの、それがトラウマというものではないだろうか。
さくらにとっての電車の中というのは、
「車窓が見えないと怖い」
という感覚であった。
よく電車の中で、日が差し込んでくることで、ブラインドをしているのを見かける。以前であれば、
「ブラインドを下ろす」
と言っていたが、今はその表現は通用しない。
以前のように、窓は下から上にあげて、ブラインドは上から下におろすと言われていたことが、今の電車では逆の場合が多い、
「窓は、上から下におろし、半分くらいしか開かない。ブラインドは、下から上にあげるパターンのものが増えている」
という電車が多くなってきた。
電車は、一日中走っていると、午前は東側のブラインドを下ろしていたが、午後は西側を下ろすことが多い。さらにここが不思議なのだが、もう眩しくなくても、誰もブラインドを外そうとはしない。だから、夕方以降になると、ブラインドはすべてで閉められていることが多い。これが恐怖なのだ。
まず、ブラインドが布形式のものが下ろされていると、気持ち悪くて仕方がなかった。窓の外は見えないのに、光の加減で、シルエットだけが動いている。
「こんな気持ち悪いことに、誰も気にならないというのか?」
さくらはその思いがどうしても信じられない。ブラインドが下がったままの場所に平気でいる人を見ると、腹が立ってくるくらいだ。
「何で誰も、何も言わないんだ?」
と、感じるのだった。
さくらは、そんな高所、そして閉所恐怖症だった。どちらが怖いかといえば、正直、高所の方であるが、閉所に関しては、ある一定の条件が揃うと、怖く感じるようで、どうも、滝が気になるのは、そんな閉所恐怖症の反動からきているのではないかと、最近になって気づいたさくらだった。
まわりが、白い霧に包まれていて、ハッキリと前が見えないところが、まるで、電車の中のブラインドを下ろした状態のようで、しかも、水の勢いが耳の感覚をマヒさせるほどの大きな音をさせている状態を考えると、実に厄介な気持ちがしていたが、それが、最初は閉所恐怖症からきているとは思わなかった。
それを気づかせてくれたのが、電車に乗っている時のシルエットで、
「どうして、もう眩しくもないのに、誰もシルエットを開けようとしないのか?」
という思いからであった。
そもそも、自分が閉所恐怖症ではないと思っていたのは、ブラインドを下ろしていて、気持ち悪いと感じるのは自分だけではなく、まわりの人は皆だと思っていたのだ。
それなのに、眩しくないのに、どうして皆ブラインドを上げようとしないのか、単純にそれが不思議だったのだ。
確かに、皆意識していないとはいえ、ブラインドを上げないということに、非常な違和感を持っていた。
「普通に上げればいいだけなのに」
と思っていたのだが、それはきっとほとんどの人が、スマホに夢中になっていたり、車窓の外の景色が気にならないからだと思っていた。
さくらは、車窓の外の景色も気になっていた。
その景色を誰も気にしないということの方が不思議で仕方がなかったのだが、
「毎回同じ路線を乗っていれば、車窓の景色なんて、すぐに見飽きる」
ということなのだろう。
その気持ちはさくらも分かっているはずなのに、それでも、さくらは車窓からの景色を毎日でも見なければ気が済まない。
その理由がどこにあるのか、正直分かっていないのだが、窓の景色を見ていると、
「何も考えないで済む」
と思っているからだ。
だが、まわりの人を見ていると、車窓からの景色に関係なく、何も考えないで済むという感覚は、考え込んでいたり、スマホを覗いている時でも、同じように、余計なことを考えないで済むという意味からも、ブラインドは関係ないと思っているのだろう。
「自分と、皆とではどこが違うんだろう?」
とさくらは思った。
そんな風に考えると、どこが違っているのかを想像すると、行きついた先が、
「閉所恐怖症」
という考えだったのだ。
閉所恐怖症というのは、本来は、狭いところ、あるいは密室のように閉ざされたところが怖い人をいうのだろう。
そういう意味で、飛行機が怖くて乗れないという人の中には、高所恐怖症だけではなく、むしろ、閉所恐怖症の方が強いと思っている人も多いのではないだろうか。
しかも、飛行機は窓が開かない。そういう意味でも、新幹線などと同じで、恐怖を感じるのだろう。新幹線の場合は、トンネルが多いというのも、恐怖を煽る一つなのかも知れない。
さて、もう一つ、閉所恐怖症は、先ほどの、
「窓が開かない」
であったり、
「ブラインドでぼやけてしか見えない」
ということが起因しているのだろうが、アイマスクをしていると、その恐怖が和らいでくるのだ。
そもそも、ブラインドが怖いというのは、
「まるで、炎が揺らめいているのを、影絵のように見ているからだ」
という感覚ではないかと思っていた。
だから、アイマスクであれば、揺らめいているのが感じられずに大丈夫なのだろうが、やはり、窓が開かないなどの恐怖は、意識の中で窒息を感じるからではないかと思うのだ。
さくらの場合は、子供の頃に背中から落っこちて、一瞬だったが、呼吸困難になったことがトラウマとなっているので、その時の恐怖が、閉所恐怖症のような形でよみがえってくる。
それが、さくらの意識であった。
滝にやってくると、まず、本当であれば、高所、閉所の恐怖症が出てきて、トラウマがよみがえってくるもののように感じられるが実際には、高所恐怖症はやわらげられないが、閉所の方は少し和らいでいるように思えるのだ。
その理由としては、さくらには、
「もう一つのトラウマ」
というのがあったからだ。
それは、以前、小学生の頃にまたしても、父が見つけてくれた別荘においてのことであったが、その別荘の近くは、絶景な場所お多く、自然に囲まれた、まるで自然の要害のような場所だったりした。
表の登山コースには、山の中腹に森に囲まれた湖があって、知らない人は、
「まさかこんなところに湖があるなんて」
と思うようなところであった。
風が吹けば、湖の上には波紋が広がり、まるで天気図の等圧線のように小さな波が線を描いていた。
そんな湖は、森に囲まれているからなのか、他では結構な風速であったとしても、その場所だけは、波も実に静かだった。
しかし、逆に森の外の、いわゆる、
「裏側」
と呼ばれるようなところは、結構風が強かったりする。
そもそも、大自然に囲まれているわけなので、自然の猛威をもろに受けないわけはないだろう。
そう思うと、裏もどうなっているのかと思い、探検してみたくなった。
海風があるわけではないので、潮に当たる心配もない。だから、身体が弱いと思っているさくらも、
「自分は大丈夫だ」
と思ったのだ。
さくらが、その裏側感じながら歩いていると、途中に、谷のようなところがあった。
それぞれに断崖絶壁で、しっかりとバリケードも築かれている。下手に近寄れば、怖いことも分かっていた。
その頃はまだ、高所恐怖症とまでは思っていなかったので、近づかなければ大丈夫だと思っていたが、向こう側に渡ることのできる場所があると書いてあるではないか。
矢印が書かれていて、行ってみると、そこには、断崖絶壁を結ぶために、吊り橋が掛かっていた。
それほど、距離のない吊り橋で、まるで、手を伸ばせばすぐに向こうにつけるのではないかと思うほどの距離に感じたのだが、完全な錯覚だったのはm近づくにしたがって分かっていった。
近づくにしたがって、吊り橋が大きく見えてこないからだった。
大きく見えないということは、それだけ、近づいているというわけではないということを示しているのだろう。だから、
「錯覚を見ているようだ」
と思うのであって、そう思うと、
「吊り橋が短いと感じているのが、大きな錯覚ではないのだろうか?」
と感じたのであって、確かに近くに見えていたのが錯覚だったのが次第に分かってくるのだった。
「こんな橋、渡れるわけはない」
と思ったが、できないと思えば思うほど、渡ってみたいと思うのは、子供としての、
「怖いもの知らず」
という意識だろうか。
渡ることのできない虚しさのようなものが、自分を、根性なしだと言っているようで、実にむなしい感じであった。
ただ、その言い訳を何とか考えないといけないと思ったのだが、その時に感じたのか、きっと高所恐怖症ということだったのだろう。
そのすぐ後にけがをしたので、けがの時のインパクトが強すぎたので、この吊り橋での出来事は、実際にあったのかということすら勘違いではないかと思わせるほどだった。
この虚空ともいえる意識があることで、滝のあ轟轟とした喧噪が、
「まるでウソのようではないか?」
と感じさせるようになったのだった。
感覚がマヒしてしまうという思いはこのあたりからきているのかも知れないと思うと、実におかしな感覚になる。
後ろにまわると、音が籠っているように聞こえるというのは、本当はドップラー効果なのだろうが、自分の中では、吊り橋の感覚に近いものだと感じてしまうのだった。
そのつり橋が怖かったおかげで、滝つぼが怖くなくなったというのは、あくまでも、さくらの勝手な妄想であるが、確かに、以前、かずさと一緒に滝つぼを見た時、ハッキリと滝つぼに、最初は恐怖を感じたのを覚えているのである。
だが、その時に目を瞑ったその時に、同時に感じた吊り橋への恐怖、そして、その時、
「吊り橋に比べれば、こんな滝なんて、怖くはない」
と思ったのも確かだったのだ。
吊り橋だけではない恐怖が、自分の中にのしかかってきたのは間違いないわけであり、それが何であったのか思い出せないが、滝つぼの恐怖を取り払った要因の一つ、しかも、そのほとんどと思われる意識が、吊り橋だったというのは、間違いない事実だったのである。
怖かった吊り橋を思い出していると、もう一つの恐怖が何であったのか、ハッキリと思い出せない。だが、
「近いうちに思い出すことができるような気がする」
と感じていて、思い出せるということが、いいことなのか、それとも悪いことなのかが分からないだけに、ちょっとした恐怖が募ってくるのであった。
「ここの滝つぼも怖いわね」
と、思わず、
「も」
という言葉をつけてしまったことに気づいたさくらは、一瞬、ビビッてしまった。
それは、滝つぼに来たのが初めてでないことを知られたくないという思いと、滝つぼが怖いと口では言っているが、本当はそうでもないということを知られたくないという思いからであった。
本当は、この場所では、最初に桑原の方から口を開いてほしいと思っていたに違いないにも関わらず、結局、さくらの方から声をかけたことも、何か自分の中で気に入らない一つだったのだ。
「どうして、桑原さんは何も言わなかったのだろう?」
と感じたが、彼が何も言わなかった理由を、
「初めてみた滝つぼに、全神経を集中させていたからじゃないかしら?」
と思ったのだが、その考えは半分は当たっていた。
彼の横顔をじっと見つめていたさくらだったが、ずっと桑原の表情が、こわばっていたのを感じていたのだ。
「どうして、そこまで顔が怖っているのだろう?」
と感じたが、
「初めての滝つぼで、怖がっているにしては、腰が引けている様子はない。高所恐怖症のように、見るのも怖かったのであれば、少なくとも、重心は後ろに持っていくものではないか?」
と考えていたのだ。
だが、実際に見ていると、重心が後ろにあるわけでもない。ただ、滝つぼを見ていると、何かの恐怖に襲われているのは事実のようだ。
ということは、
「滝つぼ自体に恐怖を感じているわけではないということなのかしら?」
と考えた。
滝つぼというところには、恐怖に感じるポイントはいくつかあるだろう。
「水が流れ落ちているところを目で追ってしまう」
あるいは、
「叩きつけられた水が、その水圧で吸い込まれそうになっている瞬間」
あるいは、
「叩きつけられた水が水蒸気となって、白い霧になってしまうことで、視界が不良になっているということ」
などであるが、そのすべてにいえることは、
「目の錯覚を引き起こし、水というものの魔力に引き込まれるという感覚なのではないだろうか?」
というものであった。
さくらにとっては、それが高所恐怖症と同じ感覚で、トラウマを引き起こさせる力になると思っていたのだが、中和剤としての、吊り橋の光景が思い出されることで、恐怖が半減してしまうような感覚だったが、少なくとも、身体だけは反応しているようで、自分の重心が、後ろにあって、
「絶対に、錯覚に惑わされることのないように」
という感覚を持っていることは分かっていたのだった。
もう一つの恐怖が何であるかというのが、頭の中に引っかかっている中、その日滝つぼを見たことを二人で感動しながら、宿に戻ってくると、食事が用意されていた。その宿では、基本的には、部屋食になっていて、宴会でもなければ、集団で食べることもない。
ただ、ここは、あくまでも秘境だということなので、今までに宴会らしいものは、ほとんどなくて、あったとしても、この温泉のファンの人が結婚し、その遠因としてこの温泉に来たことだということだったので、家族でのしめやかで質素な食事会というものを催したことがあるくらいだった。
その新婚さんというのも、実に控えめな方だったようで、
「この温泉のお客様というのは、比較的おとなしめの方が多いんですよ。間違っても騒がれる方がここに来ることはなく、そもそも、湯治や芸術家さんのお仕事の一環としてご利用されることが多いので、こちらとしても、宴会関係はお断りさせていただいているんですよ」
と言っていた。
それだけ、この宿は、
「常連さんでもっている」
と言ってもいいのではないだろうか。
「今回も、数名の湯治客の方たち、芸術家さんたちが来られていて、一般のお客さんは、もう一組、夫婦の方がおられるくらいなんですよ」
というではないか。
「その方たちは、こちらは常連さんなんですか?」
と聞くと、
「どうやら、以前に泊まったことがあるらしくて、その時は、まだお付き合いされている頃だったんですが、懐かしいといっておられましたね」
ということであった。
「じゃあ、まだ若い方なんですか?」
と聞くと、
「ええ、どうやら、旦那さんが今年年男さんだということなので、二十四歳くらいですよね。ですから、お客さんとはそこまで離れているわけではないと思いますよ」
ということであった。
それを聞いて、さくらは思わず、桑原を見つめたが、さくらが見る前に、桑原は、さくらを見つめていた。
その表情が思ったよりも真剣だったので、さくらは一瞬戸惑ったが、ここで戸惑ってしまうと、考えていることがバレてしまいそうなので、すぐに目を反らした。
さくらが考えていることは、たぶん、桑原には分からないと思っていた。
何を考えているのかを分かっていると、もし桑原が感じているとすれば、
「それは勘違いだ」
ということを、さくらが感じているということだと思うのだった。
さくらは、その話を聞きながら、何か胸騒ぎのようなものを感じていた。
それが、自分の中で先ほどから考えている、
「もう一つの恐怖」
であるということを感じていたのだが、それをすぐにでも思い出せそうなのだが、どうしても思い出せないのは、
「思い出してはいけないこと」
という意識があったからだ。
「思い出すにしても、今ではない。何かが起こったことで思い出すというのが、順序であって、それが何なのか分からないだけに、そういう意味での恐怖からも、胸騒ぎだけで終わらせておくべきではないか?」
とも感じていた。
だが、さくらの中のもう一人のさくらは、
「いや、怖がっているばかりではいけない。ここに来た以上、開き直りが必要なのではないか」
ということを感じていたからだ。
何かを怖がっている自分と、その恐怖に打ち勝つというべきか、開き直りにより、自分が何かの目的を果たさなければいけないという意識を持っているということを、いかに、自分の中で融和していくのが大切かということを、考えていた。
「とにかく、二泊しかないんだ」
という思いがあり、帰る時には、自分たちやまわりの状況が一変しているということを予感しているように思えたのだが、それがどこからきていることなのか、さくらには分かっているのだろうか?
そのことを、桑原も分かっているのではないかと思うと、一抹の不安が襲ってくるさくらだった。
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