第3話 滝と祠のある風景

 十月十五日の水曜日、二人は落ち合ってから、気が付けば、伊豆急電鉄に乗って、伊豆急下田駅に到着していた。

 そこから、バスで一時間ほど、山に入ったところが、今回の目指す宿、桑原の話では、

「ごめん、本当は、一般客がいない時を狙ったんだけど、どうも、カップルがいるみたいなんだ。いいかな?」

 ということだった。

 一瞬、考えてしまったさくらだったが、別に彼が悪いわけでもないし、そもそも、それくらいのことは予測できたこと、

「大丈夫よ、あまりうるさいようなら、宿の人に言えばいいんだから」

 と言って、申し訳なさそうにしている桑原をねぎらった。

 いくら秘境とはいえ、誰もいない宿というのも、さすがに寂しいだろう。いくら、湯治の人や、芸術家がいたとしても、しょせん彼らは、影のような存在だと思っている。

 そう、温泉だけに、湯気の向こうでシルエットとなって浮かんで見えるような、そんな存在を思い浮かべるさくらだった。

 伊豆急下田までは、落ち合ってから、三時間くらいかかった。途中のオーシャンビューは、何ともいえない心地よさを感じさせ、元々、海が苦手だったさくらだが、この絶景は感動おのだった。

 海が苦手だというのは、さくらが昔から身体が弱かったからである。

 小学生の頃には、年に何度か、三十九度近い高熱を出して、寝込んでいた。インフルエンザの時もあれば、扁桃腺の時もある、気を付けていても、なかなかうまくいかず、病院にも相談したが、

「そもそも、身体が弱いのかも知れないですね。たまには、温泉で療養するというのもいいですね」

 と言われた。

 さくらは、子供の頃から、何度か療養という目的で、小さい頃には、海の近くで療養していたというが、海の療養から帰ってきて、決まって熱を出していた。

「海風に弱いのかも知れないですね。人によっては、潮などの湿気が身体に合わない人もいますからね」

 と言われたものだ。

 海の近くにあった別荘のようなところを、夏休みの間だけ、借りることができたらしい、どうしてそんなことができたのか、子供だったのでよく分からないが、せっかくの話ではあったが、一年目で効果が出ないばかりか、余計に悪くなってしまっていたのでは、本末転倒もいいところであった。

 さすがに、そんな状態になってしまった後で、

「どうして、別荘が借りられたの?」

 などと聞けるはずもなく、そのうちに、今度は父親が、信州と山梨県の間くらいにある、湖畔の別荘を探してきてくれた。

 そこは、信州などほど大きなものではなかったが、家族で過ごす分には、夏休みの間だけなので、ちょうどよかった。

 父親は仕事なのでそうはいかないが、母親と、兄の三人であれば、別に問題はない。

 兄とは二つの年齢差だったが、小学生の頃はそんなに年齢差を感じることはなかった。

 だが、年齢差を感じていたのは兄の方であって、完全に、妹のさくらを子ども扱いにしていた。さくらは、それが面白くなかったのだが、どうしてそんな感覚だったのか、高校生くらいになって分かった気がした。

「思春期を挟んで、男の子と女の子では、圧倒的に成長は女の子の方が早い」

 と言われている。

 実際に、小学生の頃は、男の子よりも、女の子の方が、身長が高い子も結構いたのだが、中学生になる頃から、男の子にはかなわなくなっていた。

 ただ、女の子の方が丈夫な子の方が多かったように思えるのは、自分がその中で、病弱だったから、余計にそう感じるからなのだろうか。さくらは、どうしても、意識してしまうのだった。

 そして、そんな成長を妹の立場から見ていると、小学生の頃の方が印象は深いのだが、兄のように男の子は、思春期に入ってからの、急成長の時期を自分で感じられる時期にいることで、余計に、

「自分が妹には、絶対に追いつかれることはない」

 という確信めいたものを感じたのだろう。

 妹をバカにしているわけではなく、いつも頼りになるお兄ちゃんというイメージが確立したのは、そういう感覚だったからに違いない。

 さくらと、兄とは仲が良かった。

 兄の名前は博人と言った。そう、奇しくもであるが、桑原と同じ名前だったのだ。さくらが桑原の下の名前を聞いた時、ドキッとしたのは無理もないことで、しかも、いまだに桑原のことを、

「桑原さん」

 と呼ぶのも、兄と同じ名前だったからだ。

 どうして、名前で呼んでくれないのかということに、桑原はこだわりを持っているわけではない。正式に、付き合い始めようという話をしたわけでもないので、桑原が、

「名前で呼んでほしい」

 と思っていたとしても、それを言い出しきれない気持ちも分からなくもない。

 だが、桑原が名前で呼んでほしいと思っているのも当然のことであろうが、今はまだ話せる時期ではないと、さくらは思っていた。

「話せる時期がくれば、話をすればいいんだわ」

 と、さくらは感じていて、その思いを、ウスウスであろうが、桑原も感じているような気がした。

 さくらが、兄の博人をどのように思っていたのか、桑原は知る由もなかったが、さくらにとっては、いつも健康的で、まわりと溶け込んでいる兄が眩しく見え、羨ましかった。

 だからと言って、嫉妬しているわけではない。

「ひょっとすると、私の幸運をすべて、お兄ちゃんが吸い取ったのかも知れないわ」

 とも感じたが、だからと言って、兄を恨むようなことはなかった。

「お兄ちゃんが、輝いてくれているのを見ていると、そのうちに私も……。って気分になれる気がするの」

 と、思っていたのだ。

 それを、家族はどう見ていたのだろうか?

 母親などは、必要以上に、さくらに気を遣っているように思えた、

「そんなに気を遣わなくてもいいのに」

 とは思ったが、そこまで感じているものを、口に出して、

「気を遣わなくてもいいよ」

 とは言えなかった。

 そんなことを口にすると、却ってぎこちなくなってしまいそうに思うからだったのだ。

 さくらにとって、兄も母親も優しい人だという意識はあった。

 ただ、それだけに、父親には、警戒心が強かった。

 子供に対して、いろいろ気を遣って、別荘を探してきてくれたりはしてくれているのだから、感謝こそすれ、怒りを表す相手ではないことは分かっている。

 しかし、母親を見ていると、どこか、父親に変な気を遣っているように感じられ、それが自分のせいではないかと思うと、どうしても、母親の味方をしてしまう自分がいることで、父親に怒りがなくても、怒りのようなものをロックオンしておかなければいけないという感覚であった。

 父親もそれを分かっているからか、いろいろしてはくれるが、面と向かって、さくらを見ることはなかった。きっと、面と向かえば、お互いにぎこちなくなって、自分では何を言うか分からないとでも思っているのかも知れない。

 もし、そんなことを感じているとすれば、また、悪いのは自分であり、さくらは自分を責めてしまうことを分かっているので、それくらいなら、父親と面と向かうことをしないようにしなければいけないと感じるのだった。

 だから、決して、父親は、自分が探してきた別荘なのだが、来ようとはしなかった。

 どちらかというと、父親は、兄の方に期待をしているようで、兄とはよく話をするという。

 そして、兄の話によると、父親との話の時に、自分のことを父がいうことはないという。だからこそ、二人の会話に、さくらは存在しないことになっている。兄は、それが嫌だと言っていた。そのため、父と話をした後、気分が悪くなるので、それを何とかしようと、さくらと話をしにくるのだ。

 兄が高校生になってから、さくらに話に来る頻度が急に増えた。

「きっと、お父さんがお兄ちゃんに、結構な頻度で話に来ているんだろうな」

 と思った。

 兄は、その頃には、さくらの話をしない父親を嫌だとは思っていなかったような気がするが。それでもさくらと話したいと思うのは、

「何か理由をつけてでも、私と話をしたいと、お兄ちゃんが思ってくれているからなんじゃないかしら?」

 と、さくらは感じていた。

 ひょっとすると、父親が、自分のことを粗末に思っているということを気遣って、話に来てくれているのではないかと感じた。だが、さくらは、父親のことは、半分、どうでもよかった。

「あの人はいい人なんだろうけど、私とは合わないの。しかも、あの人は合わない相手を強引に合わせようとするから嫌なのよ。自分が合わせてくるということは絶対にしないで、こっちを合わせるようにしているのよ。あんなので、会社でよく勤まるわね」

 と、さくらは、父親の話になると、まともには言わない。

 ただ、、小学生の時に、身体の悪いさくらのことを考えて、別荘などを探してきてくれたことに対しては感謝の気持ちがあるのも間違いない。

 しかし、成長してきて大人のことが少しずつ分かってくると、自分が父親とは合わない性格だということはハッキリと分かってきた。どちらかというと、母親に似ている。

 でも、母親はそんな父親の言いなりなところがある。小学生の頃は、母親を通して父親を見ていたので、遠い存在でありながら、その分、気高い存在だという意識があり、自分には近づいてはいけないとさえ思っていたのだ。

 だから、母親を見ていて、父親のことを考えていた。

 いつも母親は、父親に怯えていた。何かあれば謝っていた感覚があるのだが、

「どうして、そんなに平謝りしなきゃいけないのかしら?」

 と思っていたが、小学生の頃は、その原因は自分にあると思っていた。

 確かに、身体が弱いのは自分が悪いわけではないと思うのだが、だからと言って両親が悪いわけでもない。

 大人になって考えれば、両親のどちらかの遺伝子が、弱い子供を作るというものを持っていたのかも知れないが、それも、親が悪いというには、気の毒だ。

 だから、両親も、身体の弱いさくらのために一生懸命にいろいろ手を尽くしてくれたのだろう。

 中学生になると、それまでと違って、友達もできたし、少し開放的になったことで、クラスにも解けこみ、友達も少しずつできていった。母親も、一安心したことだろう。

 そんな中学時代というと、思春期の時期である。子供が大人への階段を上ると言えば、恰好はいいが、そんなきれいごとだけでは済まされない。

 どちらかというと、女の子は大変だ。身体に変調もあったり、何といっても、初潮を迎えてからというもの、肉体的に不安定になっていき、精神的にも肉体の不安定さについていけない時もあったりする。

 それよりも、男子の成長も気になる。それまでは、あどけなさの残る男の子だったものが、顔には、ニキビや吹き出物のような汚らしいと思えてくるものが出てきて、しかも、精神的に、女性を欲する気持ちが強いのか、それとも、性に目覚めたことで、目がギラギラしてくるのか、あれが、この間まで、かわいらしい少年だったのかと思うと、ゾッとするほどである。

 だが、さくらも、兄の成長を見ていたはずである。

 兄だって、同じように思春期を過ごしてきたのだから、確かに顔にはニキビがあったのを覚えている。

 しかし、さくらは兄を汚らしいとは思わなかった。

「お兄ちゃんも、大人になっていくのね」

 という目で見ていたような気がする。

「さくらも、そのうちに、大人の女になるんだろうな」

 と、ボソッと聞こえるか聞こえないかというような声で、囁いたことがあったのを、さくらは覚えていた。

 その時の、兄の表情がどんなものだったのか、なぜか思い出せない。

 逆光になっていて、その顔を覗き込んでいるのだが、影絵のように、目と口と鼻だけが光って見れている。口を開けると、歯の白さが目立っているようだった。

「きれいな歯並びだ」

 と感じたのを思い出した。

 ただ、その顔を見たのは、あくまでも、さくらの錯覚だったような気がする。

「夢で見たのかしら?」

 と思うのだが、その夢もいつだったのか、まったく分からない。

 もし、それが夢だったとすれば、どの夢は怖い夢だったのだろうか? それとも、楽しい夢だったのだろうか?

 さくらは、思い出そうとするのだが、ハッキリと思い出せない。むしろ思い出そうとしているせいか、次第に忘れていくかのようで、忘れてしまいたい顔であるにも関わらず、忘れることの方が怖いくらいだ。

 さくらは、中学時代を、あまり思い出したくはない。思春期の学校が頭に浮かんでくるからだ、

 しかも、男子の汚らしい顔であったり、どことなく臭ってくる、異臭。あの何とも言えない臭いを、フェロモンとはいえないだろう。だが、クラスの女の子に、その臭いを、

「フェロモンだ」

 と言っている子がいて、その子は、クラスメイトの女の子から、

「気持ち悪い」

 と言われていた。

 彼女も、何とも言えない異臭が漂っていた。それは、男子の臭いでも、女子の臭いでもなかった。

 悪臭であることに間違いはないのだが、人によっては、

「これは嫌いな臭いではない」

 という人もいるような気がした。

 ただ、さくらとしては、その臭いが、

「まるで虫の臭いのようだ」

 と感じられたのは、気のせいだろうか。

 虫の臭いだということを感じたので、その時点で、いい匂いとは、絶対に思えなかったのだ。

 男子というのが、どういうものなのかを知る前に、まさか同じ女子で、よく分からない人がいるとは思わなかった。

 その女の子は、女子からは嫌われていたが、なぜか男子に人気があった。愛嬌があるわけでもなく、男子に媚びているわけでもない。

 逆に男子を自分の前にひざまずかせようとしている感じだった。

 まるで女王バチに群がる働きバチとでもいえばいいのか、女性は毛嫌いしているのに、男子は彼女にひれ伏している。

「女性であれば、男子をひれ伏させるような女にあこがれを持つのではないだろうか?」

 と、さくらはそんな風に思ったのだが、他の女性は、なぜか、憧れどころか、毛嫌いである。

 思春期の女の子は、まだ大人になり切れていないので、男子に媚びるということも分からないし、男女の違いも、おぼろげにしか分からない。

 自分が女性であるということを理解し、女性がどういうものなのかを感じようとする。

 その時、男子をどのように意識しているというのだろうか?

 まずは自分のことが最優先なのだろうか?

 男子の場合は、自分が男子であるということよりも、もっと、本能に忠実なようである。目の前にいる女の子をまずは意識してしまい、

「自分が女の子から好かれるには、どうすればいいんだ?」

 ということを考える。

 つまり、

「自分が男子として成長するのは、女の子にモテたいからだ」

 という意識を持つからなのではないだろうか。

 女子は。、まずは自分のことを考え、男子は女性ばかりを見ている。だから、女王バチのように見えるのではないかと思えてきた。

 女性の中で、少し変わった人がいると、女子は、毛嫌いして、男子は興味をそそられる。そのことを、

「思春期だから」

 ということだけで解釈しようとすると、自分が分からなくなる。

 それは、自分が何を考えているのかということからなのか。それとも、自分の考えが自分以外のことに向いていることに不思議な感覚を覚えるからなのかの、どちらかなのではないかと思うのだった。

 そんな中学時代のクラスメイトや、兄を見ていると、女性をどのような目で見ているのかが怖く感じられる。中学時代の、変わった女の子のことが、なぜか高校生になるまでトラウマのようになっていて、そのことを、かずさも知らなかったくらいだ。

 その女の子のことを次第に意識しなくなった頃に、かずさと知り合ったのだから、それも無理もないことであろう。

「さくらは、時々、ボーっとしていることがあるよね?」

 と、たまにかずさに言われるが、それが、その女の子によるトラウマであった。

 かずさに言われるまで、確かに頭はボーっとしていた。何かを考えていたはずなのに、声を掛けられた時に何もかも忘れてしまったのだ。

 その、

「忘れてしまうという行為」

 それが、さくらにとっての、トラウマだといえるのではないだろうか。

 そんな中学時代が、今では忘却の彼方にあるというのも、皮肉なことであった。

 伊豆急下田までは、今までに何度か来たことがあった、そのほとんどは、かずさと一緒に来たのであり、それ以外の時は、兄と一緒に来たのだった。

 伊豆の温泉がいいということで、かずさと一緒に高校の時、二人で来た。それが最初だったのだが、そこから、遠くまで足を延ばすこともなく、普通に温泉宿に泊まって、ゆっくりしたかったということで、かずさも、気持ちは同じだったようだ。

「皆でわいわい騒ぐようなことはしたくないわよね」

 と、かずさがいうと、

「うんうん、それは、私もまったく同意見」

 と、その時初めてさくらは、自分が今まで身体が弱くて、時々、別荘に行ったり、温泉に来ていたりしたことを明かした。

「そうだったんだ。さくらを見ていると、どこか、病弱な感じはあったのよね。でも、それは言ってはいけないことだと思っていたので、自分から告白してくれたのは、私にとっても、ありがたいことだわ」

 と言ってくれたのは、さくらにも嬉しいことだった。

 二人は温泉に浸かって、おいしいものを食べて、軽く宿の近くを散歩がてら、散策することが好きだった。

 あれは、伊東の温泉に行った時だっただろうか。少し奥まったところにある温泉に行った時、ちょうど、滝があるということで、一緒に行ってみたことがあった。

 あれは、夏休みの、最高気温が、三十五度を超えるという、猛暑日だったにも関わらず、ここの滝では、

「半袖では寒いくらいだわね」

 と思うほど、冷えていた。

 しかも、水圧は結構なもので、その水しぶきは、白い霧を形成していて、その湿気は、半袖からはみ出した腕に、湿気でべとべとするくらいになっていた。

 元々、海が苦手だったのは、この湿気が問題だったのだが、この滝では、気分が悪くなることはなかった。むしろ、この涼しさが、身体を強くしてくれそうな気がするくらいで、一緒にいるかずさも、

「ここなら、さくらは強くなれるんじゃない?」

 と言ってくれた。

「またしても、同意見」

 と言って笑うさくらを、かずさは暖かい目で見つめてくれているのだった。

 滝の圧力に圧されて、水の音で、耳の感覚がマヒしてくるほどだったが、そこから少し奥に入り、滝を後ろにすると、今度は、その音がほとんどしなくなってきた。

「まるで、音が遮断されたみたいよね」

 と、かずさは言ったが、まさしくその通りだった。

 さらに歩いていくと、そこには、小さな祠が建っていて、祠には、つい先ほど誰かが備えたと思われる供物があったのだ。

「こんなところに、お供えに来るというのは、地元の人なのかしら?」

 ということであったが、どうやら、ここに供物を収めていたのは、宿の人だったという。

「私は、前ここに訳があってきたんですが、その時の縁で、ここで働かせてもらっているんです。あの祠には、本当に助けられたと思っているので、私は、それからずっとお供えを持っていくようにしているんですよ」

 と、女中さんが、そういって、話してくれた。

 後で、かずさと話をした時、

「さっきの女中さん、訳があってって言ってたけど、ひょっとすると、自殺しようと思っていたのかも知れないわね」

 と言った。

 そのことは、さくらもウスウス感じていたので、

「うん、私もそんな感じがした。そうであれば、祠にお供え物をするという気持ちになるのも分かる気がするわ。でも、毎日のようにお供えをしているというのは、本当に素晴らしいと思うわ。そんな彼女を雇っている、宿の女将さんも、きっといい人なんでしょうね」

 と話した。

 宿の女将さんとは、その後話をする機会があったが、さすがにプライベートに押し入るわけにもいかず、気にはなっていたが、女中さんのことを聞くことは控えていた。

 だが、確かに女将さんがいい人であることは、話をしていて分かった気がした。それを思って、それから、しばらく定期的に、かずさとさくらは、一緒にこの宿に泊まっていたのだった。

 そのことは、今回一緒に旅行している桑原には話していない。そもそも、かずさとの思い出なので、他人に話すつもりは、毛頭なかったのだ。

 そして、今回の宿の近くにも滝があって、やはりその先にも、祠があったのだ。

「どこかで見たことがあるような風景」

 そう思ったのは、一瞬、時間をさかのぼった気がしたからだった。

 宿についた時、女中さんが話してくれた。

「この宿の近くに、大きな滝があって、そこがここの名物にもなっているんですよ。後で行かれてみればいいですよ」

 と言われたので、桑原も興味があったのか、

「へえ、それはすごいですね。さくらさん、後で早速行ってみることにしましょうよ」

 と嬉しそうにはしゃいでいた。

 それを見て、

「かずさだったら、こんな桑原さんと見て、どう思うんだろうな?」

 と思った。

 桑原は、この宿に来るまで、あまり話をしてくることはなかったが、その理由がどこにあるのか分からなかった。

「このまま、こんな調子だったら、どうしよう? 誘ってきたのは、あなたなんだからね」

 と、思わず口にはしなかったが、心の中でそう呟いていた。

 だが、滝の話を聞いて、急にはしゃぎ始めたのを見て。まるで、どこかわざとらしさを感じるくらいだった。

 滝に行ってみると、なるほど、結構大きな滝だったが、さくらには、それほど感動するほどの大きさではなかった。どちらかというと、

「前に行った、伊東の滝の方が大きかったような気がする」

 と思ったほどだが、それはきっと、初めての滝だったというのと、それほど最初は期待していなかったという思いのわりに大きかったこと、しかし、今回は最初から期待してしまった分、それほどでもないという、半分がっかりしたという感覚よりも、がっかりさせられたという方が強いのは、なぜなのかという感覚が自分でも不思議に思ったのだった。

 今回の滝の奥にある祠は、伊東の祠よりも、一回り大きな感じがした。

 やはり、滝が近くにあるので、湿気のために濡れていたが、祠を見た瞬間、滝の音が急に聞こえなくなった。

 それは、伊東の時と同じだったが、何かが違っているような感覚だった。

 何が違っているのか、自分でもよく分からなかったが、それを分からせてくれたのが、

「この滝と祠に、もう一度来ることになるような気がする」

 という思いであった。

 しかも、その思いの奥に、もう一つ感じるものがあり、それが、

「今の心境とはまったく違う心境で、ここにこなければならない」

 という感情であった。

 しかも、それは、

「なるべくなら来たくない」

 と思わせるものであり、それを思うと、頭の中に、この目の前の風景が、本当に風景としてインプットされてしまうような気がするのだ。

 それは、感覚がマヒしているものであり、滝を見ている時に感じたあの音が、耳から離れないと思っているくせに、何かの拍子に、その音が、籠って聞こえてしまうようであり、自分が滝つぼに吸い込まれていくような気がして仕方がなかった。

「そういえば、滝つぼを、まじまじと見た記憶はなかったわ」

 と感じた。

 音だけが印象に残っていて。景色を思い出すことができないでいた。それはきっと、滝の圧力が強すぎて、水圧のために、水しぶきからか、白い滝のようになっていて、視界がハッキリとしていなかったからなのかも知れない。

 それを思うと、目の前に見えている光景は、

「人の顔が目の前にあったら、その表情がどんなものか分からないんでしょうね」

 と思うような感じだった。

 滝つぼに落ちる水の勢いのせいで、人の顔すら、水に吸い込まれるように思え、気が付けば、滝つぼに叩き込まれてしまうのではないかという錯覚に陥ってしまっていた。

 この目の前にある滝を超えると、急に音が籠って聞こえるのは、感覚がマヒしたというよりも、

「その滝の勢いから逃げ出したい」

 という意識が強いことで、逃走本能のようなものが芽生えたからではないかと思うのは気のせいであろうか。

「ここだったら、楽に死ねるのでしょうね」

 と、恐ろしいことを感じてしまうほどだった。

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