古い池
これは「古池や蛙飛び込む水の音」から発想を得たショートストーリーです。
・・・
「ごめんなさい」
彼女から言われた言葉がまだずっと頭に残っている。今俺の頭をブルーレイレコーダーに繋げれば、彼女の申し訳なさそうな顔を映像をずっとループ再生していることだろう。
消去しようとしても、何度でも復元されてしまう最悪な記憶だ。
目を閉じていると、瞼の裏にあのときの映像が浮かんできてしまうから、仕方なく空を見ている。腹立たしいくらいの晴天だった。
小さな欠片みたいな雲がたまに一つ流れてきては、一切スピードを変えずに頭上を去っていく。
「はあ」
意図していないのにため息がでた。
駄目だ。真っ青な空の奥にまで彼女がいる気がした。どこまでいってもあの申し訳なさそうな顔から逃れられない。
せっかく百年に一度くらいの勇気を出して告白したというのに、好きな相手にあんな顔をさせてしまった。
空を眺めていても嫌な映像しか流れてこない。だからベンチに寝転がるのはやめて、歩くことにした。
細い道には落ち葉が大量に溜まっていて、ほとんど森のようになっている公園の奥からは蛙のやかましい声が響いてくる。
もはや子供を失ったのではないかと思えるほど同年代が少ない町の、何十年も前から存在しているらしい公園だ。遊具はほとんど錆びていて、遊べば手から鉄の臭いがとれなくなる。
二つあるブランコのうち、片方はこの前壊れてしまって撤去された。新しいブランコが導入される気配はない。
存在しない子供よりも、馬鹿みたいに大量にいる老人のほうに金を使っているのだろう。だからブランコひとつ直らない。
この公園は無駄に広い。
その割に見る者はないが、自然だけは大量に存在する。たまにバードウォッチングに来ている人もいる。
だが今日は誰もいなかった。誰もいない公園を、俺は我がもの顔で歩く。
色々なものを見ていると、思考が固定化されないので余計なことを考えずに済む。
少なくとも、彼女のあの顔は忘れられる。
段々蛙の声がうるさくなってきた。どうやら蛙の生息地に近付いているようだ。
ほとんど藪のような道を抜けると、少しひらけた場所に出た。随分前から放置されているような古い池だ。落ち葉が何枚か浮かんでいて、濁っているため底は見えそうにない。
そこは蛙だらけだった。あっちを見ても、こっちを見ても、蛙だらけ。しかもお盛んなことに、小さな蛙の上に乗っかっている大きな蛙までいた。
やかましいことこの上なかった。
「なんだよ」
どうしたってそんな現場を見れば、彼女の顔を思い出さざるを得ない。
俺は近くの小石を拾って、その蛙に投げつけた。運動なんてからっきしなので、もちろん投げた石は蛙に当たることはなく、池の中にポチャンと落ちた。
その瞬間、池がぴきっと静かになった。本当に何の音もしなくなった。
あんなに騒がしかった蛙たちも、他のささやかな虫の音も、風が葉を揺らす音も、なにもかもが無くなった。
辺りを見回しても、見た目には何の変化もなかった。ただ、本当に音が無くなっただけだった。
一体何があったのか。全く分からない。ただ困惑して、キョロキョロと警戒するしかできなかった。
そのうち、怖さに耐えられなくなって、帰ろうと思った。
そして来た道を辿ろうと後ろを振り向いたとき、俺は心臓が飛び出るかと思った。
そこには人がいて、真ん丸な目で俺をじっと見つめていたのだ。
着物のようにも見える汚れた服を着た、ガリガリの人だった。男か女か分からないような、平べったい顔をしている。目が大きくて、一切瞳を動かさずに俺の目を見つめ続けていた。
俺は最初の一秒で相手の視線に耐えきれなくなって、もう目を逸らしてしまっていた。
それでも相手はお構いなしと言った様子だった。
何か言ったほうがいいのだろうか。でも、何か言い出せるような雰囲気ではなかった。なんというか、その人の纏っているオーラが不気味で、できれば関わりたくないのだ。
目を逸らし続けてそれで済むなら、俺はじっと待つ。
「君」
しゃがれた声だった。でもやはり男女の区別はつかない。あるいは、性別などないのだろうか。
返事をしないのはマズい気がした。直感的に。
「……はい」
喉から水分が全部抜けてしまったみたいだ。まともな声が出ない。
「安心しなさい。怒っているわけではないし、取って食ったりはしない」
恐らく、本人は柔らかい声だと思っているのだろうが、真ん丸な目で俺を見つめているのは変わらないし、声がしゃがれているので怖さが増しただけであった。
「——では、なんの御用でしょうか……?」
「うむ。一体なぜ石を投げたのだ?」
なぜ。なぜだろう。
「えっと……嫌なことを思い出したからです」
本当にそうか。
「嫌なこと。それはなんだ?」
「それは……」
フラれたこと。——本当にそうだろうか。
「好きな人にフラれたことです」
「ほう。思い人に拒絶されたのか。それはそれは」
その人は、真ん丸な目を少しだけ細めた。
「では、私がお前と思い人をくっつけてやろうか」
「は……?それはどういう意味で?」
「そのままの意味だ」
どうやって、だろうか。もしかして、この人はこの辺の有力者なのか。だから権力にものを言わせて彼女に無理を強いるのだろうか。
「それは……」
彼女と付き合えるなら願ったり叶ったりだ。嬉しいことのはずだ。
なのに、なぜか全く嬉しくない。
なぜだろう。
「必要ありません」
「いらんと申すか」
少し威圧的な物言いになった。俺は思わず、「やっぱりお願いします」と言いそうになった。
でも、やっぱり何か違うのだ。
「いりません」
そう言うと、その人はずいっと前へ出てきて、大きな目で俺の目を覗き込んだ。そしてそのまま黙ってしまった。
俺は何も言い出せなくなってしまった。
十分ほどそのまま待った。冷汗が背中を濡らしているのが分かる。
すると、突然その人は後ろに下がった。
「ならいい」
そう言いながら、俺の横を通り抜けていく。そっちには池しかないはずなのに。
「お前は誠実な男だ。だから、心配するな」
耳元で聞こえた。思わず後ずさりして、耳を抑えながら池のほうを見る。すると、どこにも人なんていなかった。
それどころか、気付けば蛙が鳴き始めていたのだ。
さっきまでの無音とは違う。安心できる音だ。生き生きと鳴く蛙たちがいた。
一匹の蛙がもう一匹の蛙にアプローチしているのが見えた。だが、フラれてしまったらしい。俺と同じだ。
そして池の中にぽちゃんと飛び込んだ。
だが何を思ったのか、フった側の蛙まであとを追って飛び込んだ。
水の輪は何重にもなった。そのあと二匹の蛙は、もう見つかることは無かった。
もう帰ろう。
俺は出口に向けて歩き出した。
公園の出口まで行くと、彼女がいた。なぜか息を切らして疲れ切ったような顔をしていた。
「どうしたの?」
「言いたいことがあって……なんかわかんないけどここにいるような気がして、走ってきたの。——お父さんからね、交際禁止令を出されてたんだけど、言ってみたら『あの子ならいいよ』と言ってくれたの。だからね……」
俺は掌を彼女に見せた。すると、彼女はピタッと止まった。
俺はそれを見て、言葉を紡ぐ。
「……じゃあ、もう一回言わせて。——付き合ってください」
俳句鑑賞の物語 北里有李 @Kitasato_Yuri
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。俳句鑑賞の物語の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます