3 初陣-2

 視界の先で、森の一部が崩れる。

 同時に清涼な水の気配が弾けて、連なる木々の頂を越えた高みまで、真白の水蒸気を噴き上げた。


 その中を、小さいながらも太陽のような輝きが貫いた。

 対峙する妖種の気配へ向かって、真っ直ぐに。

 だが、僅かに力が足りない。撃ち倒し切れなかった。


 虚空にその気配を読み取って、森を臨む村外れの崖の上で、一人の青年が立ち上がった。


 首の後ろで一つに束ねられた長い髪が、風になびく。

 周囲で焚かれている幾つもの篝火の明かりが、垂領たりくびの合わせを紐で結んだ浅葱色の上衣と、裾が足首まですとんと落ちている藍色の袴を纏った、すらりとした痩身を浮かび上がらせた。


「駄目だな。あのガキ、失敗しやがった」

「使えねえな。化け物のくせして」


 背後で、そんな声が囁き交わされる。

 篝火の周囲を守っている、檜皮ひわだ色の戎衣じゅういを纏い、髪は左右に分けて角髪みずらに結っている男たちだ。


 十二歳と十三歳の子供たちだけを妖種の元へ向かわせ、自分たちは高みの見物を決め込みながらのこの台詞に、青年の冷涼な眉目に険が走る。

 だが、滲ませた憤りを言葉に替えるような無駄はせず、青年は近づいてくる気配に向き直った。


 その腰には一振りの鉄剣が下げられているが、それを抜くのではなく、左の掌を虚空に向ける。

 そこに弾けた蒼銀の光を右手に掴み、弟妹と同じ、凍る様な非物質の剣身を抜き放った。


 大気が揺れる。

 森が唸る。

 静穏なのは、天で瞬く星々ばかりだ。


 その中を、闇黒あんこくに練り固められた『力』の塊が突進してくる。

 それが進路を逸れようとする度に、左右を奔る二つの気配がまだまだ拙い技を振るって懸命に邪魔をし、この崖下へと誘導してくる。


「来るぞ!」


 檜皮色の戎衣の男たちが叫んだ。


 一際派手な破砕音と共に、赤い影が森から躍り出る。

 四つの眼が、眼前に現れた崖と、その上で煌々と焚かれている幾つもの篝火を捉える。


 獣の知性で追い込まれたことを悟ったのか、赤いヒグマはその場で急停止すると、威嚇の歯鳴りと共に後ろ脚で立ち上がった。

 崖の高さはせいぜい三丈(約十メートル)ほどだった。

 よって、その上に立つ者たちは、立ち上がれば六丈近い赤いヒグマから見下ろされる格好になった。


一也いちや! 何をしている!」

「ガキどもの尻拭いはお前の役目だろう!」


 篝火の周りで、角髪の男たちが後ずさりながら叫んだ。


 青年の方は、そんな声が放たれるより先に、地を蹴っていた。

 数歩の助走で崖先から飛び出し、赤いヒグマの頭上を上回る高さまで一気に跳躍する。


 その姿を追った四つの眸が、爛々と燃え上がる。

 頭を上に向け、頭上の人影に向かって大きく口を開けた。


「兄上‼」

「三朗、あなたは脚! 私が上を‼」


 その光景に、三朗と二緒子におこは、必死の形相で突っ込んだ。


 三朗が剣を一閃させ、赤いヒグマの後ろ脚の一本を斬り払う。

 二緒子の剣から水の竜が放たれ、眼前の敵に向かって口を開いていた赤いヒグマの首を引きさらう。


 狼狽めいた絶叫と共に、赤い巨体が体勢を崩した。

 最後の足掻きとばかりに撃ち放たれた溶岩の塊が、狙点を狂わされて明後日の方向へ飛んで行く。


 そこへ、青年の剣が落雷のように撃ち込まれた。

 先の三朗と全く同じ動きだが、はるかに速く、強く、深い。

 その一撃は蒼銀の閃光となり、赤い巨体の脳天から股下までを一気に切り下げ、断ち割った。


 金属質な絶叫が、天地の間に轟き渡る。

 篝火の炎が轟と撓んで、周囲に居た男たちの内の何人かが小さな悲鳴を上げ、両手で両の耳を抑えた。

 真二つになった赤いヒグマが、大きく左右にのけぞる。四本の前脚が大きく振りかぶられ、まだ足掻くかのように振り回された。


「兄上!」

「兄様!」


 青年は、一撃の後に崖下へ着地し、片膝を着いていた。

 その手の剣が、形を保っていられなくなったように、蒼銀の粒子となって消えていく。


 走り寄った三朗と二緒子は、そんな青年を背後に庇う位置に並んで立ち、握ったままの剣を正眼に構えた。

 だが、今度は、その警戒は無用だった。

 割れた巨体が、ゆらりと揺れる。

 倒れ込んでいく赤が、端の方から次第に黒くなっていく。


「塵に……」

「ええ……」


 思わず呟いた三朗に、二緒子が頷いた。


妖種ようしゅは、物質界の生き物ではないから。命が砕けたらただの粒子になって、この天地の狭間を巡る大きな『力』の環の中に、還っていく」

真神まがみと同じだね」


 赤いヒグマの輪郭が、更にぼやけていく。

 灰とも塵芥ともつかないものに変化しながら、さらさらさらさらと崩れていく。


 その全てが大気に解けて消えたところで、姉弟は、同時に溜息を吐いた。

 歓喜とも安堵とも違う。強烈な緊張状態から解放され、とにかく終わった、という虚脱感めいたものだけが滲んだ吐息だった。


「兄様、大丈夫ですか?」

「ごめんなさい、兄上。俺があいつを仕留め切れなかったから」


 赤いヒグマを構成していた『力』の粒子が全て塵となって大気に吹き散らされたところで、二人はそれぞれの右手の剣を消し、背後の兄の傍らに膝を着いた。


「いや」


 兄の一也は、額に珠のような汗を浮かべ、大きく肩を上下させている。

 常に良くはない顔色が更に悪くなり、唇も鉛色になってしまっている。

 だが、重い疲労と苦痛の靄を掛けながらも、その双眸は柔らかい微笑を浮かべていた。


「あれは、黒衆くろしゅう術者じゅつしゃでも『使つかい』に降すのを躊躇する類の大物だ。初陣のお前が単独で挑んで良いものじゃない。桧山ひやま組長の采配がおかしかったんだよ」

「でも……」

「独りなら、私でも危なかったかもしれない。それでも仕留められたのは、お前の最初の一撃が、あの妖種の『妖珠ようじゅ』に綻びを作っていたからだ」


 兄の両手が伸びて、三朗と二緒子の頭に乗せられた。


「あんなものに向かって走るのは、怖かっただろう? だが、よく乗り越えた。よくやったよ、二人とも」

「――うん!」

「――はい!」


 柔らかく撫でられて、姉弟そろって、くしゃりと表情を崩す。

 張り詰め続けていた気持ちの糸が切れて、三朗と二緒子は、左右から兄の首に両腕を回してしがみつくと、そのあたたかい肩口に額を埋めた。

 一也は、今更のように小さく震え始めた二つの身体に両腕を回し、包み込むように抱きしめると、もう一度、労いの言葉を繰り返した。

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