第一章 斗和田の一代

2 初陣

 森羅万象に真神まがみあり。

 大地に、人あり。

 そのはざまされしいのち、あり。

 其を間成生まなせ――『真那世』と云う。


***


 鳳紀ほうき五四七年――初夏。


 陽が沈んで、しばらくの時が流れた。

 頭上には満天の星。

 眼下には、黒々とした樹影を天に向かって伸ばす、原始の森。

 その先で視界を遮るのは、折り重なりながら南北に連なる青い山嶺だった。夜闇に燦然と煌めく星明りの下、北へ、更に北へと続いていく。


 山腹の高台にそびえ立つ、樹齢千年を数えるであろう杉の大樹の頂きに立った三朗さぶろうは、渇望と憂いとが同居した眼差しで、その彼方を見晴るかしていた。


 十二歳という年齢以上に鍛えられ、引き締まった身体に、前合わせを紐で結んだ生成りの上衣に、黒色で膝丈のくくり袴を纏い、脛には脛巾を巻いている。その首に掛けられている朱色の勾玉を連ねた首環くびかざりが、夜目にも淡く光って見えていた。

 氷片を擲ったような天蓋の下を、夏の風が渡ってくる。その風が、首の横で一つに束ねられている黒髪を柔らかくそよがせた。


「――何をぼうっとしてやがる」


 不意に、少し下の梢から声が上がった。

 そこには、髪を角髪みずらにして、貫頭型の長袖の上衣に足首を絞った袴という、戎衣じゅういと呼ばれる檜皮ひわだ色の上下に身を包んだ三人の男がいた。

 三人とも、両手両足の指の先から白い糸を出して杉の幹や枝に絡ませ、樹上に張り付いている。


「的を追い出すのがお前の役目だろう」

「さっさと行け」


 居丈高に命じたのは、強い緊張の中に、隠し切れない反感を滲ませた声だった。


「わかってる」


 双眸から感情を消して、視線を移す。

 天から地へ。黒く横たわる森の一角へと。

 軽く瞳孔を窄めて、『的』の位置を確認する。

 真那世まなせの視力を以てしても、この距離では山や木々の黒い影がわだかまっているようにしか見えない。

 だが、びりびりと伝わってくる気配は、見誤りようがない。


 そこだ――と見定めて、杉の樹の頂きを蹴った。

 飛燕のような勢いと速度で、はるか下に広がる森を目指して空を跳ぶ。


 気配を察知したのか、黒い森の一角から、鉄の板に釘を突き立てて思い切り引っ掻いた時のような、金属質な咆哮が轟き渡った。


 放たれた威圧に、ぞわり、と身の裡に慄えが走る。

 それを押しつぶすように、少年は、左掌を虚空へ向けた。


 その上で、鋭く小さく空気が旋回し、漆黒の光輝が閃く。それを右手で掴み、引き抜く動作をする。

 現れたのは、一振りの剣だった。凍るほどに冴え冴えとした漆黒の剣身が、星のきらめきを受けて凄絶な光輝をまとう。


 三朗の視線の先で、ぐうっと影が膨れ上がった。

 二本の後ろ脚で立ち上がり、むくりと身を起こしたのは、身の丈が六丈(約二〇メートル)はあるヒグマだった。

 ただし、その全身は、普通のヒグマではあり得ない赤に染まっている。

 それは、体毛が火の粉を纏ってちりちりと燃えているからだった。

 更に、頭の中心には目が四つあり、前脚も四本ある。腕には、大人の一抱え分ぐらいありそうな太い棘がびっしりと生えており、その先端が掠っただけでも、人体などは容易く引き裂かれるに違いなかった。


「――出た!」

「予想より大きいぞ!」


 杉の梢に張り付いていた男たちは口々にそう叫ぶと、一斉に地上に飛び降りて走り出した。現れた巨大な生物とそれに向かっていった三朗とは反対の方向へ、である。


 三朗は気にしない。最初からあんな連中は当てにしていないし、頼みに想うのは別の面影だからだ。


 裂帛の気合と共に、剣を一閃させる。空を断ち割るような衝撃がヒグマもどきの正面を襲い、その鼻っ柱を叩いた。


 鼻は、大概の獣にとって急所だ。それは闇黒あんこくより湧き出す妖種ようしゅでも同じなのか、赤いヒグマは苦痛と不快の唸り声を迸らせて、その場に立ち止まった。


 三朗は、手近な大樹の頂きに着地し、即座に身体の向きを変えて、再び空へ跳んだ。

 一閃、二閃。

 剣が翻る度に、太い頸や空中で振り回されている前脚を、浅く削ぐ。緑色の血が飛沫いて空に散り、赤いヒグマの唸り声が不快さを増した。


「こっちだ! このノロマ!」


 巨体の周囲を飛び回りながら叫んだ時、四つの眸に怒気が爆ぜた。

 はっきりとした怒りの咆哮と共に、その口が大きく開く。


「へ?」


 次の瞬間、口から真っ赤に燃える岩の塊が撃ち出されてきた。


「うわっ!」


 三朗は慌てて空中で身体を捻り、辛うじてその軌跡に捉えられることを回避した。


 赤いヒグマは止まらない。煩い小蝿を撃ち落としてくれると言わんばかりに、次から次へと溶岩の弾丸を吐き出してくる。


「反則だろ! それは聞いてないぞ!」


 思わず罵りながら、目の前に現れた梢を掴んで一回転し、方向を変えた。

 相手が飛び道具を使うとなれば、直線で跳ぶことを避け、小回りを効かせながら右へ左へ、じぐざくに樹上を奔り抜ける。


 どがんっ。ばがんっ。どごんっ。


 その背後を、破壊音を響かせながら六本脚のヒグマが追う。

 金属質な吼え声が轟く度に赤い溶岩の塊が空を奔り、周囲の巨木の幹や巨大な岩が、理不尽に対する抗議の悲鳴を上げながら砕け散った。


 僅かでも気を抜いたら、少しでも速度が落ちたら、一瞬で終わりだ。

 緊張の汗を額に散らしながら、三朗は、人間はもちろん、並の真那世にも到底不可能な速度と飛距離で樹から樹へ飛び移り、赤いヒグマを所定の位置へと誘導していった。


 樫の古木の幹を蹴り、一際大きく跳躍した刹那、目の前が開けた。


 森が切れ、眼下に一筋の谷川が現れる。

 緩やかな清流が大きく蛇行している曲がり角。

 その岸辺に張り出している大岩の上に、一つの人影があった。


「姉上‼︎」


 三朗の叫びに、その人影が顔を上げる。

 姉の二緒子におこは、三朗より一歳年上の十三歳。

 透明感のある白い美貌の持ち主で、ほっそりとした肢体を白色の小袖に藤色の袴に包み、腰まで届く真っ直ぐな黒髪を首の後ろで一つに纏め、梅結びをあしらった朱色の組紐で括っている。


 その右手には、既に三朗のものと同じ、真っ直ぐな剣身が抜き放たれていた。

 弟の呼び声と共に、二緒子が両手で握った剣を、斜め上段に振りかぶった。


 サー……と微かな音を立てて、大気に水の気配が凝る。

 何処からともなく生じた白金色の水流が少女の剣に集まり、渦を巻きながら天へと駆け上る。


 一旦着地した三朗が再び大きく上空へ跳躍し、川岸に立つ大樹の頂きへ退避する。

 同時に、二緒子が、懸命の気合い声と共に、剣を振り切った。


 剣身に纏わりついていた長大な水流が撃ち放たれる。

 大きくうねり、空を疾るその姿は、さながら白金色に輝く竜だった。

 赤いヒグマと水の竜が、真正面からぶつかった。

 大気が白濁し、爆発した水蒸気の靄を中天高くへと噴き上げた。

 二緒子の水の竜が、長く優美な首をぐりんと伸ばす。ヒグマの巨体に巻きつき、その四肢を締め上げて、拘束する。


「三朗!」

「了解!」


 姉の合図で、三朗は大樹の梢を蹴った。赤いヒグマの真正面へ向かって跳びながら、剣の柄を両手で掴み、大上段に振りかぶった。


 風を巻いて。

 漆黒の燐光を纏う刃が、四つの眼が並ぶ頭に叩きつけられる。

 閃光が奔って、剛毛に覆われている額が真二つに割れた。

 緑色の血が跳ね上がり、金属質な悲鳴と共に赤い巨体がのけぞる。

 だが。


「――危ない!」


 よろめきはしたが、赤いヒグマは、倒れはしなかった。

 苦痛の悲鳴を血も凍るような激昂の咆哮に取って代わらせ、前脚の一本を振り上げる。


「っわ!」


 一撃を叩き込んで着地したところだった三朗に、背後から二緒子が飛びつく。一塊になって地に転がることで、弟の頭が、西瓜のように叩き潰されることを防いだ。


 追いすがろうとしたヒグマの鼻先に、二緒子が、転がりながらも死に物狂いで放った水流が炸裂する。

 不快の呻きを上げた赤いヒグマは不利を悟ったのか、地響きを立てて身を翻し、一飛びで川を越えると対岸の森へと駆け込んだ。


「ッあ、しまった!」

「追わないと!」


 一転して跳ね起き、二人はそろって、転がるように走り出した。


「ごめん、姉上。失敗した!」

「だ、大丈夫」


 六本の脚で木々をなぎ倒しながら激走する赤い背を追って、姉弟は飛ぶように地を駆けた。


「その為の二段構えだったんだから。でも、気をつけて」


 緊張と恐怖に強張った眼差しが、肩を並べる弟に注がれる。


兄様にいさまは一撃か二撃が限界。後は無いからね」

「わかってる!」


 ぎゅっと唇を噛み締めて、三朗は、燃えるような眼差しで前方を見据えた。


 ***


 視界の先で、森の一部が崩れる。

 同時に清涼な水の気配が弾けて、連なる木々の頂を越えた高みまで、真白の水蒸気を噴き上げた。


 その中を、小さいながらも太陽のような輝きが貫いた。

 対峙する妖種の気配へ向かって、真っ直ぐに。

 だが、僅かに力が足りない。撃ち倒し切れなかった。


 虚空にその気配を読み取って、森を臨む村外れの崖の上で、一人の青年が立ち上がった。


 首の後ろで一つに束ねられた長い髪が、風になびく。

 周囲で焚かれている幾つもの篝火の明かりが、垂領たりくびの合わせを紐で結んだ浅葱色の上衣と、裾が足首まですとんと落ちている藍色の袴を纏った、すらりとした痩身を浮かび上がらせた。


「――駄目だな。あのガキ、失敗しやがった」

「使えねえな。化け物のくせして」


 背後で、そんな声が囁き交わされる。

 篝火の周囲を守っている、檜皮色の戎衣を纏い、髪は左右に分けて角髪に結っている男たちだ。


 十二歳と十三歳の子供たちだけを妖種の元へ向かわせ、自分たちは高みの見物を決め込みながらのこの台詞に、青年の冷涼な眉目に険が走る。

 だが、滲ませた憤りを言葉に替えるような無駄はせず、青年は近づいてくる気配に向き直った。


 その腰には一振りの鉄剣が下げられているが、それを抜くのではなく、左の掌を虚空に向ける。そこに弾けた蒼銀の光を右手に掴み、弟妹と同じ、凍る様な非物質の剣身を抜き放った。


 大気が揺れる。

 森が唸る。

 静穏なのは、天で瞬く星々ばかりだ。


 その中を、闇黒あんこくに練り固められた『力』の塊が突進してくる。

 それが進路を逸れようとする度に、左右を奔る二つの気配がまだまだ拙い技を振るって懸命に邪魔をし、この崖下へと誘導してくる。


「来るぞ!」


 檜皮色の戎衣の男たちが叫んだ。


 一際派手な破砕音と共に、赤い影が森から躍り出る。

 四つの眼が、眼前に現れた崖と、その上で煌々と焚かれている幾つもの篝火を捉える。

 獣の知性で追い込まれたことを悟ったのか、赤いヒグマはその場で急停止すると、威嚇の歯鳴りと共に後ろ脚で立ち上がった。

 崖の高さはせいぜい三丈(約十メートル)ほどだった。

 よって、その上に立つ者たちは、立ち上がれば六丈近い赤いヒグマから見下ろされる格好になった。


一也いちや! 何をしている!」

「ガキどもの尻拭いはお前の役目だろう!」


 篝火の周りで、角髪の男たちが後ずさりながら叫んだ。


 青年の方は、そんな声が放たれるより先に、地を蹴っていた。

 数歩の助走で崖先から飛び出し、赤いヒグマの頭上を上回る高さまで一気に跳躍する。


 その姿を追った四つの眸が、爛々と燃え上がる。

 頭を上に向け、頭上の人影に向かって大きく口を開けた。


「――兄上‼」

「三朗、あなたは脚! 私が上を‼」


 その光景に、三朗と二緒子は、必死の形相で突っ込んだ。

 少年が剣を一閃させ、赤いヒグマの後ろ脚の一本を斬り払う。

 少女の剣から水の竜が放たれ、眼前の敵に向かって口を開いていた赤いヒグマの首を引きさらう。


 狼狽めいた絶叫と共に、赤い巨体が体勢を崩した。

 最後の足掻きとばかりに撃ち放たれた溶岩の塊が、狙点を狂わされて明後日の方向へ飛んで行く。


 そこへ、青年の剣が落雷のように撃ち込まれた。

 先の三朗と全く同じ動きだが、はるかに速く、強く、深い。

 その一撃は蒼銀の閃光となり、赤い巨体の脳天から股下までを一気に切り下げ、断ち割った。


 金属質な絶叫が、天地の間に轟き渡る。

 篝火の炎が轟と撓んで、周囲に居た男たちの内の何人かが小さな悲鳴を上げ、両手で両の耳を抑えた。

 真二つになった赤いヒグマが、大きく左右にのけぞる。四本の前脚が大きく振りかぶられ、まだ足掻くかのように振り回された。


「兄上!」

「兄様!」


 青年は、一撃の後に崖下へ着地し、片膝を着いていた。

 その手の剣が、形を保っていられなくなったように、蒼銀の粒子となって消えていく。


 走り寄った三朗と二緒子は、そんな青年を背後に庇う位置に並んで立ち、握ったままの剣を正眼に構えた。

 だが、今度は、その警戒は無用だった。

 割れた巨体が、ゆらりと揺れる。倒れ込んでいく赤が、端の方から次第に黒くなっていく。


「塵に……」

「ええ……」


 思わず呟いた三朗に、二緒子が頷いた。


「妖種は、物質界の生き物ではないから。命が砕けたらただの粒子になって、この天地の狭間を巡る大きな『力』の環の中に、還っていく」

「真神と同じだね」


 赤いヒグマの輪郭が、更にぼやけていく。灰とも塵芥ともつかないものに変化しながら、さらさらさらさらと崩れていく。


 その全てが大気に解けて消えたところで、姉弟は、同時に溜息を吐いた。

 歓喜とも安堵とも違う。強烈な緊張状態から解放され、とにかく終わった、という虚脱感めいたものだけが滲んだ吐息だった。


「兄様、大丈夫ですか?」

「ごめんなさい、兄上。俺があいつを仕留め切れなかったから」


 赤いヒグマを構成していた『力』の粒子が全て塵となって大気に吹き散らされたところで、二人はそれぞれの右手の剣を消し、背後の兄の傍らに膝を着いた。


「いや」


 兄の一也は、額に珠のような汗を浮かべ、大きく肩を上下させている。

 常に良くはない顔色が更に悪くなり、唇も鉛色になってしまっている。

 だが、重い疲労と苦痛の靄を掛けながらも、その双眸は柔らかい微笑を浮かべていた。


「あれは、黒衆くろしゅう術者じゅつしゃでも『使つかい』に降すのを躊躇する類の大物だ。初陣のお前が単独で挑んで良いものじゃない。桧山ひやま組長の采配がおかしかったんだよ」

「でも……」

「独りなら、私でも危なかったかもしれない。それでも仕留められたのは、お前の最初の一撃が、あの妖種の『妖珠ようじゅ』に綻びを作っていたからだ」


 兄の両手が伸びて、三朗と二緒子の頭に乗せられた。


「あんなものに向かって走るのは、怖かっただろう? だが、よく乗り越えた。よくやったよ、二人とも」

「――うん!」

「――はい!」


 柔らかく撫でられて、姉弟そろって、くしゃりと表情を崩す。


 張り詰め続けていた気持ちの糸が切れて、三朗と二緒子は、左右から兄の首に両腕を回してしがみつくと、そのあたたかい肩口に額を埋めた。

 一也は、今更のように小さく震え始めた二つの身体に両腕を回し、包み込むように抱きしめると、もう一度、労いの言葉を繰り返した。

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