2 初陣-1
森羅万象に
大地に、人あり。
その
其を間成生――『
***
陽が沈んで、しばらくの時が流れた。
頭上には満天の星。
眼下には、黒々とした樹影を天に向かって伸ばす、原始の森。
その先で視界を遮るのは、折り重なりながら南北に連なる青い山嶺。夜闇に燦然と煌めく星明りの下、北へ、更に北へと続いていく。
三朗は、山腹の高台にそびえ立つ、樹齢千年を数えるであろう杉の大樹の頂きに立って、その山嶺の彼方を見晴るかしていた。
十二歳という年齢以上に鍛えられている身体に、前合わせを紐で結んだ半袖の上衣と膝丈のくくり袴を纏い、脛には脛巾を巻いている。
その首に掛けられている朱色の勾玉を連ねた
氷片を擲ったような天蓋の下を、夏の風が渡ってくる。その風が、首の横で一つに束ねられている黒髪を柔らかくそよがせた。
「何をぼうっとしてやがる」
少し下の梢から声が上がった。
そこには、髪を
三人とも、両手両足の指の先から白い糸を出して杉の幹や枝に絡ませ、樹上に張り付いている。
「的を追い出すのがお前の役目だろう」
「さっさと行け」
「――わかってる」
居丈高な命令に、三朗は双眸から感情を消して、視線を移す。
天から地へ。
黒く横たわる森の一角へと。
三朗には、兄や姉のような霊感は殆ど無い。
その分、物理的な視力と聴力は抜群にいいので、夜闇の中に蠢く影や、それが立てる幽かな足音も聞き分けることができる。
そこだ――と見定めて、杉の樹の頂きを蹴った。
同時に、黒い森の一角から、鉄の板に釘を突き立てて思い切り引っ掻いた時のような、金属質な咆哮が轟き渡った。
放たれた威圧に、ぞわり、と身の裡に慄えが走る。
それを押しつぶすように、三朗は、左掌を虚空へ向けた。
その上で、鋭く小さく空気が旋回し、漆黒の光輝が閃く。
それを右手で掴み、引き抜く動作をする。
現れたのは、凍るほどに冴え冴えとした漆黒の刃を持つ、一振りの剣だった。
柄を握り込み、構えた時、夜闇の一部がぐうっと膨れ上がった。
顕れたのは、基本的にはヒグマだった。
ただし、二本の後ろ脚で立ち上がった姿は六丈(約二〇メートル)近くあり、その全身は真紅に染まっている。
それは、体毛が火の粉を纏ってちりちりと燃えているからだった。
更に、頭の中心には目が四つあり、前脚も四本ある。
腕には、大人の一抱え分ぐらいありそうな太い棘がびっしりと生えており、その先端が掠っただけでも、人体などは容易く引き裂かれるに違いなかった。
「――出た!」
「予想より大きいぞ!」
杉の梢に張り付いていた男たちは口々にそう叫ぶと、一斉に地上に飛び降りて走り出した。現れた巨大な
三朗は気にしない。最初から、あんな連中などあてにはしていない。頼みに想うのは別の面影だからだ。
裂帛の気合と共に、剣を一閃させる。
空を断ち割るような衝撃がヒグマもどきの正面を襲い、その鼻っ柱を叩いた。
鼻は、大概の獣にとって急所だ。それは
「こっちだ、ノロマ!」
大声を上げながら、手近の木々の梢を足場に右へ左へ跳び、一閃、二閃と剣を振り回して、ヒグマの首筋や腕を浅く削ぐ。
増えていく傷に、赤いヒグマが、鬱陶しそうに吼えた。
その口が、不意に大きく開く。
次の瞬間、そこから、真っ赤に燃える岩の塊が撃ち出されてきた。
「え? ――うわっ!」
三朗は慌てて空中で身体を捻り、辛うじてその軌跡に捉えられることを回避した。
一撃では終わらなかった。煩い小蝿を撃ち落としてくれると言わんばかりに、次から次へと溶岩の弾丸を吐き出してくる。
「反則だろ! それは聞いてないぞ!」
思わず罵りながら、目の前に現れた梢を掴んで一回転し、方向を変えた。
相手が飛び道具を使うとなれば、直線で跳ぶことを避け、小回りを効かせながら右へ左へ、じぐざくに樹上を奔り抜ける。
どがんっ。ばがんっ。どごんっ。
その背後を、破壊音を響かせながら六本脚のヒグマが追う。
金属質な吼え声が轟く度に赤い溶岩の塊が空を奔り、周囲の巨木の幹や巨大な岩が、理不尽に対する抗議の悲鳴を上げながら砕け散った。
僅かでも気を抜いたら、少しでも速度が落ちたら、一瞬で終わりだ。
緊張の汗を額に散らしながら、三朗は、人間はもちろん、並の
樫の古木の幹を蹴り、一際大きく跳躍した刹那、目の前が開けた。
森が切れ、眼下に一筋の谷川が現れる。
緩やかな清流が大きく蛇行している曲がり角。その岸辺に張り出している大岩の上に、一つの人影があった。
「姉上‼︎」
三朗の叫びに、その人影が顔を上げる。
姉の
透明感のある白い美貌の持ち主で、ほっそりとした肢体を白色の小袖に藤色の巫女袴に包み、腰まで届く真っ直ぐな黒髪を首の後ろで一つに纏め、梅結びをあしらった朱色の組紐で括っている。
その右手には、既に三朗のものと同じ、真っ直ぐな剣身が抜き放たれていた。
弟の呼び声と共に、二緒子が両手で握った剣を、斜め上段に振りかぶった。
サー……と微かな音を立てて、大気に水の気配が凝る。
何処からともなく生じた白金色の水流が少女の剣に集まり、渦を巻きながら天へと駆け上る。
一旦着地した三朗が再び大きく上空へ跳躍し、川岸に立つ大樹の頂きへ退避する。
同時に、二緒子が剣を振り切った。
剣身に纏わりついていた長大な水流が撃ち放たれる。
大きくうねり、空を疾るその姿は、さながら白金色に輝く竜だった。
赤いヒグマと水の竜が、真正面からぶつかった。
大気が白濁し、爆発した水蒸気の靄を中天高くへと噴き上げた。
二緒子の水の竜が、長く優美な首をぐりんと伸ばす。ヒグマの巨体に巻きつき、その四肢を締め上げて、拘束する。
「三朗!
「了解!」
姉の指示に、三朗は大樹の梢を蹴っていた。
赤いヒグマの真正面へ向かって跳びながら、剣の柄を両手で掴み、大上段に振りかぶる。
風を巻いて。
漆黒の燐光を纏う刃が、四つの眼が並ぶ頭に叩きつけられる。
閃光が奔って、剛毛に覆われている額が真二つに割れた。
緑色の血が跳ね上がり、金属質な悲鳴と共に赤い巨体がのけぞる。
だが、よろめきはしたが、赤いヒグマは、そのまま倒れはしなかった。
苦痛の悲鳴を、血も凍るような激昂の咆哮に取って代わらせ、前脚の一本を振り上げる。
「――危ない!」
「っわ!」
一撃を叩き込んで着地したところだった三朗に、背後から二緒子が飛びつく。一塊になって地に転がることで、弟の頭が、西瓜のように叩き潰されることを防いだ。
追いすがろうとしたヒグマの鼻先に、二緒子が、転がりながらも死に物狂いで放った水流が炸裂する。
不快の呻きを上げた赤いヒグマが、地響きを立てて身を翻した。
一飛びで川を越え、対岸の森へと駆け込んでいく。
「ッあ、しまった!」
「追わないと!」
一転して跳ね起き、二人はそろって、転がるように走り出した。
「ごめん、姉上。失敗した!」
「だ、大丈夫」
六本の脚で木々をなぎ倒しながら激走する赤い背を追って、姉弟は飛ぶように地を駆けた。
「その為の二段構えだったんだから。でも、気をつけて」
緊張と恐怖に強張った眼差しが、肩を並べる弟に注がれる。
「
「うん、わかってる!」
ぎゅっと唇を噛み締めて、三朗は、燃えるような眼差しで前方を見据えた。
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