万有の天 相克の大地

佐々木凪子

第一部 風の十字架

序章

1 竜神の子供たち


 リーン。

 リリーン。


 切り立った崖の上からその下に拡がる湖へと、透明な鈴の音が拡がっていく。

 周囲は乳白色の霧に沈み、湖の彼方も、地平を遮る山嶺も、見渡すことはできない。


 その崖の端には、太い丸太を組み合わせて作った舞台があった。

 地上から階段にして三段上がっただけの高さで、縦幅は一丈(約三メートル)、横幅は二丈(約六メートル)ほど。崖先に対して、横長に向き合っている。


 その真ん中で、一つの人影が舞っている。

 両手を水平に伸ばし、腕にかけた紗の肩巾ひれを翻して、くるり、くるりと、大きく、小さく、回っている。

 漆黒の髪を頭の後ろで輪になるように結い上げた、三十代前半の女性だった。

 ふっくらとしたたおやかな肢体に白の内衣ないえと薄紅色のほうを重ね、その下には朱色のを纏っている。両の手首には細い銀の環が填められており、舞う度に、そこに結び付けられている小さな銀の鈴が澄んだ音を響かせる。


 そんな母の姿を、八歳の三朗さぶろうは、正座した舞台の後方から見つめていた。


 しゃ、という音が聞こえた。

 舞台の真ん中に立つ女性を真横から見る位置に、二つの人影が並んで座っている。

 一人は六十歳ぐらいの老人。

 もう一人は三十歳そこそこの男性。

 やはり、髪を頭の後ろで輪になるように結び、共に白の内衣に青灰色の袍を重ね、下には白袴を纏っている。


 老人の方が、両手で掲げている幣帛へいはくを左右に振る。

 それを合図に、男が、両手に持っていた横笛を唇に当てた。

 澄んだ音が滑り出す。緩やかな起伏の調べが、白い大気を伝って天へ、地へ、拡がっていく。


 叔父が奏でる笛の荘厳な響きは、嫌いではなかった。

 が、如何せん、退屈だった。

 田植えが始まる前に、今年の豊穣を祈って行われる儀式であればその大切さは分かっているが、長時間の正座は、元気盛りの八歳の少年には些か辛いものがある。


 足先をもじもじさせながら、ちらりと横を見やると、左隣に並ぶ姉の二緒子におこと、そのまた左隣に端座している兄の一也いちやの姿が目に入った。

 二人とも真面目な表情で、姿勢も全く崩れていない。八歳年上の兄はともかく、姉とは一つしか違わないのに。


 二人とも凄いなあ――と思いながら、今度は肩越しに視線を投げた。


 舞台の下、背後の地面には、村の老若男女が整列している。

 男は、筒袖の上衣に足首丈の脚衣。女は小袖と呼ばれる、上下一続きの着物。共に、髪は結い上げて頭の後ろで輪になるように結び、足には獣皮のくつを履いている。


 その最前列には、幣帛の老人や笛の男と同じような白袍を纏った、二十人ほどの男女が並んでいる。こちらも全員ぴしりと正座し、視線を俯けて、誰も一言も話さない。


 その列の中央に、三人の子供の姿があった。

 一人は三朗と同い年の少年で、あとの二人は、二歳年下の双子の少女たちだった。

 その双子が、見返った視線に気付いて、にこりと小さく笑う。


「――三朗」


 よそ見に気付いたのか、姉が窘め声を掛けてくる。

 三朗は慌てて背筋を伸ばし、視線の方向を戻して、居住まいを正した。

 姉が肩を竦め、兄がくすりと微笑む。


 その時だった。


 白い闇の彼方で、幽かな水音が響いた。


「‼」


 初めての感覚が脳天から身の裡を貫いて、ハッと顔を上げる。


 大気に、えもいわれぬ緊張感のようなものが凝った。

 同時に、静謐にして圧倒的な気配が、切り立った崖の前方に沸き上がった。

 それが近づいてくる。

 ゆっくりと。こちらへ。


 振り仰いだ視界の先で、白い闇が二つに割れた。


 後ろで、少年と双子の少女が小さく声を上げ、周囲の大人たちに慌てて窘められている声が聞こえた。


 そこに現れたのは、光を纏って、蒼銀にも白金にも漆黒にも見える鱗に全身を覆われた、一体の竜だった。

 全長は十状(約三十メートル)を超えるだろう。天に向かって伸びる双角と、燐光をまとってたなびく白銀のたてがみ、高みから見下ろす眸は深く、村の川で採れる砂金より深い黄金色を放っている。


「父神……?」


 話には聞いていた。

 だが、実際に相見えるのは、生まれてこの方初めてのことだった。


 竜が姿を見せると同時に、斜め前方の老人と青年がハッとしたように手を下ろし、頭を下げた。同じように、舞台の下に居る大勢の人々も、一斉に地面に手をつき、叩頭した。


 顔を上げているのは、目の前に立つ母と、自分たち兄弟だけとなった。

 無音の内に時が流れる。

 それは永劫のようでもあり、一瞬のようでもあった。

 竜の金色の眸が、目の前の女性に注がれる。それから兄に、姉に、最後に三朗へと向けられて、また目の前の女性へと戻る。


 天に雷光が閃いた。同時に一滴の雨が落ち、一陣の風が吹いた。


「あ」


 三朗は、思わず声を上げていた。


 竜の額の上、二本の角の間に小さな光の珠が生じた。

 それが、ゆっくりと下に降りてくる。身じろぎ一つせず佇立している目の前の女性の額に触れると、そのまま、溶け込むように消えて行く。


「今のって」


 隣で、姉も同じように、小さく声を上げた。

 三朗もわかった。

 初めて逢った、父神。

 その父が、母の胎内に神珠しんじゅを――新しい命を授けた。


 つまり、兄弟が増える。

 自分に、弟か妹が生まれる。


 瞬間、三朗は、胸の中で光そのもののような感情が爆ぜ、一瞬で全身に行き渡るのを感じた。それは、目がくらむような歓喜、そして、えもいわれぬ幸福感だった。


 ***


「三朗」


 とん、と背中を軽く叩かれて、三朗はハッと我に返った。


「どうしたの?」


 傍らに立っていた姉が、心配そうに顔を覗き込んでくる。


「どこか具合でも悪い?」

「ううん。大丈夫」


 笑って首を振って見せた時、視界に光が差した。


 東の山際で、曙光が閃く。葉月の陽が薄紫の空を貫いて、夜闇を西の彼方へと駆逐し始める。


「では、行って来るよ」


 その光が屋敷の玄関先に届いた時、目の前に居た兄がそう言って、腕に抱き上げていた末の弟を地面に下ろした。


「うん……」


 小さな唇を懸命に噛み締めながら、秋が来れば四歳になる幼子が何とか頷く。決壊寸前の眸が兄を、姉を、そして三朗を、順に見つめた。


「ちゃんとご飯食べて、ちゃんと眠って、元気で待っていてね」


 藤色の小袖姿の姉が身を屈めて、小さな身体をぎゅっと抱きしめた。


「大丈夫だよ。すぐ帰ってくるからな」


 十二歳の成人年齢を迎え、今回、初めて見送る側から見送られる側になった三朗も、まだまだ大きいとは言えない掌で弟の頭を撫で、精一杯の笑顔を浮かべて見せた。


「や、約束だからね」


 小さな紅葉の手が姉にしがみつく。無垢な眸の端から、とうとう、一生懸命に堪えていた涙があふれだした。


「絶対、みんな一緒に、帰ってきて」

「ええ。勿論」


 泣きながら希う幼子をもう一度抱きしめてから、姉が名残惜しそうに腕を解く。


 末弟の背後には、生成りの上衣に褐色のくくり袴を纏った五十がらみの男と、四十歳そこそこの藍絣の小袖を纏った細面の女とが、うっそりと控えていた。


四輝しき様のことはご案じなく」


 男の方が、慇懃な口調で言った。


「皆さまが恙なく勤めを果たされてお帰りになるまで、この綿貫わたぬき惣五郎そうごろうが妻と共に、大事にお預かりいたします」


『大事に』のところに、親愛や誠意ではなく威圧の響きを込めた男に、肩越しに見返った兄の眉目に険が滲む。

 姉も同様で、きっと自分も、同じような表情を過らせたに違いなかった。


「――よろしくお願いする」


 しかし、何も知らずに見上げる幼い眸の前で、余計なことは言えない。

 だから、兄はただそれだけを口にすると、踵を返した。


 屋敷の冠木門を抜け、外へ出た。

 往来を挟んだ真向かいには、八手やつで一族の族長家の私邸と里の公庁の役割も兼ねる、御館みたちの大門がそびえ立っている。


 その門扉は既に開かれて、荷車とそれを曳く牛の用意が整えられていた。

 周囲には、垂領たりくびの合わせを紐で結んで綴じた筒袖の上衣に、膝で裾を括ったくくり袴を穿き、脛には脛巾はばきを巻いて、鼻緒から踵に回した紐を足首で縛って固定する戦草履いくさぞうりを履いた男たちが集まっている。

 年齢は、十七、八から四十代ぐらいまでで、その数は十二人。

 全員、髪を左右に分けて顔の横で輪に結ぶ、いわゆる角髪みずらにして、腰には鉄剣を佩き、荷駄や武装の確認をしたり、見送りに来たと思しき家族と挨拶を交わしたりしている。


「遅いぞ」


 荷車の脇に立っていた四十代半ばの男が、往来に出て来た兄弟をぎろりと見やった。

 角ばった体躯に、四角い顔。その顎は、黒いひげに覆われている。水守家の兄弟を見る目はどこか薄暗く、黒い炎のようなものを孕んでいて、その声にも明らかな険があった。


 遅い訳はなかった。指定された時間通りの筈だ。

 だが、この男が事あるごとに自分たちに難癖をつけてくるのはいつものことなので、兄は特に抗弁するようなこともなく、恬淡と目礼を返すに留めた。


「では、八手五番組、出立する」


 ついと視線を外した黒ひげの男が、大きな声を上げる。

 軽く鞭を当てられた牛が歩き出し、荷車の車輪がごとごとと回り出す。


「兄上、姉上……!」


 三朗たちが周囲の男たちに混じって歩き出すと、幼い声が背中に弾けた。

 ハッと振り返ると、留守居役の夫婦の手を振り切った末弟が、往来の真ん中へ飛び出してきていた。涙をいっぱいに溜めた眸で、食い入るようにこちらを見つめながら、懸命に手を振り続けている。


「――よそ見するな」


 後ろに居た男が居丈高な声と共に、背中を小突いてくる。つんのめりそうになったが、何とか堪えた。


 兄は振り返らない。

 隣の姉も、ぎゅっと唇を噛み締めたまま、前を向いている。振り返ってしまったら、きっと駆け戻りたい衝動がこらえきれなくなるからだろう。


 不安と寂しさを堪えて、手を振り続ける幼い眼差し。

 それが、あの日の光景に重なった。

 天を突く峻険な山々と凍り付きそうに透明な湖。

 母が居て、祖父が居て、叔父が居て、従兄妹たちも居た。

 初めて見えた父神と約束された新しい命に、世界が今まで以上に輝いて見えた。


(たった四年前のことなのに)


 ここから思い返せば、はるか昔のことのようで。

 想えば想うほど、あまりの運命の変転に、声を限りに叫び出したくなる。


(――それでも)


 まだ何も知らず、覚えてもいない小さな弟を護る為に。

 兄弟四人で、生きていく為に。


(敗けない。敗けるものか)


 その想いを改めて心に刻み、焼き付けて、三朗は顔を上げ、前を見た。

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