3 お出かけの姫君


 せわしない足音が広縁を駆けてきた。


 「――若様!」

 「ふぁい」


 御簾みすの内側に延べられたままの床の中で、二十歳前後の青年がもぞもぞと寝返りを打った。


 「芳野よしのかい? なーに? 昨日は、夜明け近くまで、主上おかみの闘犬遊びにお付き合いしたものだから、まだ眠くて」

 「姫様がおいでになりません!」

 「ほあ?」


 切羽詰まった声に、青年は寝ぼけ眼をこすりながら起き上がった。


 「ゆかりが居ないのなんて、いつものことじゃない。どうせまたふらふらと洛中らくちゅうで遊び回っているか、高台山こうだいさん英照えいしょう殿のところで『術試合じゅつしあい』でもやってるか、秋月あきづきの母君に会いに行っているかじゃないの?」

 「そんな呑気なお話ではないと存じます。旅装が一式と、姫様の通行手形が消えております!」

 「通行手形?」


 欠伸を途中で止めて、青年は視線を巡らせた。


 「てことは、つまり、畿内きないを離れたってこと?」

 「どういたしましょう!」

 「落ち着きなよ、芳野」


 完全に泡を食っている叫び声に、青年は途中だった欠伸を最後までやり遂げると、大きく伸びをした。


 「柾木まさきは?」

 「三室みむろ殿も姿が見えません!」

 「じゃあ、まあ、最悪なことにはならないでしょ。紫は時々とんでもなく莫迦だけど、柾木が付いている限り、滅多なことにはならない筈だから」


 気の抜けた声で応じながら、のそのそと臥所ふしどから抜け出す。

 壁際の文机まで這い進み、その前でどかりと胡坐をかくと、上に置いてある螺鈿の箱の蓋を開けた。


 中には、一枚の銅鏡が収められている。


 「でも、あの、神祇頭じんぎのかみ様には」

 「おじい様には、僕からお話しておくよ」


 それを手に取り、鏡面を確認して、青年はふっと口角の端を吊り上げた。


 「大丈夫だよ、芳野。とりあえず、女房たちには騒ぎ立てないようにとだけ言っておいて」

 「ですが……」

 「心配しなくても、君らの責任にするつもりはないよ。その気になった紫を止めるのは、僕らだって至難の業だからね。ただし――」


 銅鏡を手にしたまま、青年は幽かに笑った。


 「紫の不在が外に洩れたら、その時は、お喋りの対価を払ってもらうことになるよ」

 「か、かしこまりました」


 びくっとして平伏する気配の後、報告に来た女房があわただしく戻っていく。


 「通行手形が必要――つまりは、関所を越えなくちゃいけないような遠く、か」


 どことなく楽しそうに言いながら、青年は、手にした銅鏡を眺め下ろした。


 「さあて、一体どこへ何をしに行ったのかな。我が愛しの妹姫は」

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