4 大咲村の夜ー1
「ありがとうございます。ありがとうございます」
草ぶきながらも立派な門構えの屋敷の庭では、盛大な篝火が焚かれていた。
その庭を臨む座敷では、下座に控えた恰幅のいい老人が、へこへこと何度も頭を下げている。背後には、この
「おかげ様で、明日から皆、安心して山や畑へ出られます」
「なに、我ら
座敷の上座に敷かれた座布団に腰を下ろし、ふんぞり返るようにして頷いたのは、灰色地に矢絣模様の
小柄でのっぺりとした顔つきだが、目ばかりがぎょろりと大きい。
その男に、老人は更に深々とお辞儀をしてから、後ろへ向かって合図を送った。
襖の影から、揃いの赤い前掛けを締めた二人の若い娘が現れる。
それぞれが、立派な塗りの膳を両手で捧げ持っている。その上には、椀に山と盛られた白米に焼いた魚や茸、猪汁といった豪勢な夕餉が、所狭しと並んでいた。
「こちらは、心ばかりのお礼の品でございます」
次いで、村長が差し出したのは、三方に乗せた紫色の巾着袋だった。様子からして、中身が
「
「お、そうか? そういうことであれば、せっかくの志、有り難く頂戴しよう」
男はすまし顔で頷き、特に悪びれた様子もなく巾着袋を手に取ると、懐へねじ込んだ。
そうして、見るからに上機嫌になって、呵々と笑った。
「我らが
「ありがとうございます。勿体ないことでございます」
村長が頭を下げたところで、一旦姿を消していた赤い前掛けの娘たちが、今度は白い瓶子を手に現れる。杯に酒が注がれ、酒宴が始まった。
「いい気なもんだよな」
「何が務めだよ。ここでふんぞり返っていただけで、何もしていないくせに」
「これが
障子が開け放されているので、座敷の様子は広い庭から丸見えだった。
(何もしてないのはあんたたちもだろ)
とは口に出さず、
目の前では、
「あの人たちが、
「戎士に『様』は要らないよ。そもそも、あの連中は人じゃない。マナセなんだ」
その耳に、遠くで小さく囁き交わされる声が聞こえて来た。
村の周辺で暴れまわっていたヒグマもどきの
ある者は薄気味悪そうに、ある者は興味津々という顔で、ちらちらと三朗たちの様子を伺っている。
「
「山犬みたいに速く走ったり、猿みたいに樹に登ったり、手を使わなくても物を吹っ飛ばしたりできるんだろう? おっかないねえ」
「だから、妖種なんてものも退治できるんだよ。化け物をやっつけられるのは化け物だけさ」
「ねえ、大丈夫なの? そのマナセが、妖種みたいにあたしたちを襲って来ないって保証はあるの?」
「その為に、黒衆の術者様がついていなさるんだ。あの方々は、妖種すら捕えて家畜みたいに使役するっていう、凄い方々だからな」
***
人は、自分たちの知識の範疇にない存在を、異形――化け物と呼ぶ。
それは、世界の
故に、異形に対抗できるのは、非物理の力と技を持っている特殊な人々だけとなる。
その力は霊力と呼ばれ、それを持つ者たちは霊能の術者と呼称されて、一般の人々から敬われ、頼りにもされている。
この時代、その霊能の術者の流派は、既に複数、存在していた。
その中で最大、最強の力を誇る派閥を、
昔、
人はこれを自らの歴史の始まりとして、この年を
央城に朝廷を開いた御間城の帝は、その後、四人の将軍を
神狩の一族はそれに従って各地へ下り、数多の
その功績を以て、彼らは貴族の列に名を連ね、朝廷に『
ともあれ、
これは、鬼堂家の先代当主で、四十年前に央城の都から、ここ
その結果、息子
だが今、その鬼堂興国を含め、その麾下である黒衆に、実際に妖種を狩る現場まで出てくる術者は少なかった。
殆どの者は後方の安全地帯に待機して、戎士たちだけに妖種と対峙する危険を冒させる。
しかし、その戎士たちに村から食事が振る舞われることはないので、自分たちで持ち込んだ兵糧食を食べるしかない。その眼前で、何もしない、してくれない上役ばかりが饗応を受けているとなれば、確かに腹が立つ。
おまけに、今回は屋敷の井戸を使う許可すら出なかった。おかげで、水が欲しい場合は村はずれの川まで汲みに行くしかないという有様で、余計に戎士たちは不満と鬱憤を募らせている。
それに更なる拍車を掛けているのが、あちらでもこちらでもこそこそと続いている、興味半分、警戒半分の噂話だった。
「けど、真神ってのは、昔から山とか川とかに居る護り神のことをいうんだろう? 妖種と一緒にするのは、どうなのかねえ?」
「ばーか。神様ってのは、神社にお祀りされている
「そういや、あの八手一族ってのは、五百年も前に
「ええ? 大蜘蛛? いやだ。気持ち悪い」
「どこのどういう女が、大蜘蛛の子供なぞ産もうって気になったんだろうなあ」
「しっ、聞こえるぞ」
(聞こえてるよ)
三朗は内心で呟く。
真那世は総じて人より遠くを見、遠くを聴くから、周囲の八手一族の戎士たちも皆、村人たちが囁き交わす声は聞こえている筈だ。
それでも、戎士たちの中で反応する者は居なかった。
鬼堂家の支配下においては、どのような理由があろうと、戎士が人間に危害を加えることは重罪となるからだ。
仮に今、村人が鍬を振りかざして襲い掛かってきたとしても、腕を上げてそれを防ぐまではともかく、反撃して僅かでも傷を負わせたりすれば、その戎士は問答無用で処分される。
だから、下手に関わって人間から難癖を付けられたりしないように、悪口雑言や誹謗中傷も、時には実際的な攻撃さえも、理性を総動員して耐えるしかない。
だが、真那世も人と同じく、理性と共に感情も持つ生き物であるから、当然、誹られて愉快な筈はない。しかも、ただの村人たちなどよりよほど課せられる制約は多く、日々、多大な抑圧にさらされながら生きているのだから、苛々やむしゃくしゃも溜まりやすい。
では、どうやってその苛々やむしゃくしゃを発散するかというと――。
「ちょっと」
渡された包みを一瞥して、三朗は顔を上げ、兵站の担当者を睨んだ。
「足りないよ。俺たちは三人だ」
「あ? そうだったか?」
三十代半ばのその男は、明後日の方向を見ながら、籐の箱の蓋を閉めた。
「悪いが、今夜の夕餉の分はそれで終わりだ。まあ、半人前のガキが二人に半死人が一人なら、それで十分足りるだろ?」
「何でだよ!」
またか――と思いながら、三朗は声を荒げた。
「糧食はきちんと日数分、人数分が用意されてる筈だろ!」
「
「けど!」
「――文句があるなら、食うな」
食い下がりかけた三朗の前に、黒い影が差した。
「
八手一族たちが一斉に左右に退き、現れた四十代半ばの黒ひげの男に、場を譲った。
「『
男の金壺眼が、冷たく三朗を見下ろした。
「まして、あの『化け物』は、帰りは荷車に積んで運んでやらねばならんのだ。真垣まで歩かなくていいのだから、今夜の飯が少なくてもどうってことはない筈だ」
「神剣を使った後の兄上は、歩かないのではなく、歩けないんだ。その理由なら知っている筈でしょう」
三朗は、ぎり、と奥歯を鳴らした。
「その兄上に無理を強いて、援護もせず、便利に使っておきながら!」
「だから何だ?」
三朗を睥睨した眼が、薄く嗤った。
「『
「そうだそうだ」
「組長の言う通り」
同意を求めた黒ひげの男に、周囲の男たちが一斉に迎合した。
「それが嫌なら、あの時、大人しく『質』を妹に鞍替えして、下のちびのことも黒衆に差し出しておけば良かったんだ」
「そうそう。自分から苦労を買って出たなら、死んでも全うするのが筋ってもんだ」
「勿論、どうしてもと言うなら、助けてやらないこともないぞ。しかしながら、『質』の身で『役』に出て来るような化け物に、俺たち八手一族程度の神力でどれほどお役に立ちますことやら」
「そうだ。兵糧の数が足りないなら、蛙か蚯蚓でも捕ってきてやろう。篝火で焙ったらきっと美味いぞ。いや、竜神の御子なら、丸のみの方がお好みかな?」
悪意と反感に満ちた揶揄と嘲笑が、さざ波のように周囲を伝う。
遠くで、まだこそこそひそひそやっている村人たちをちらりと見やると、三朗は、噴出しかけた激昂を何とか呑み下した。
『存在の成り立ちは違っても、この天地の狭間に生きる命という意味では、人も真那世も同じなんじゃよ』
記憶の彼方から、優しい声が聞こえてくる。
(そうだね、じい様。同じだ)
ここへ連れて来られるまでは知らなかった。
人も真那世も、根源的に異なるものを本能的に嫌悪し、差別する。
だからこそ、誰かに抑圧されて生きるしかない者たちは、別の誰かを抑圧することで鬱憤を晴らし、均整を取ろうとするのだ。
それが当たり前なら、立場的に一番下の者は、黙って耐えるしかない。
苦い想いを堪えて、三朗は踵を返した。
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