32 墓参ー3

 薄い雲が、山間の狭い天蓋にたなびいている。

 むき出しの黒土の上で、枯れた下草が数本、力なく揺れている。


 お救い場の一角から谷を囲む山の一つに入り、坂道を登ることしばし。視界が急に開けて、左右に東岳とうがく西岳せいがくを仰ぐ斜面の一角に出た。


 そこには、見渡す限り、碑銘も戒名もなく、ただ丸い石を置いただけという墓が、延々と連なっていた。


 法師たちや尼僧たちの為の墓地ではない。およそ二百年前の開山以来、『帰一堂きいつどう』で死を迎えた無宿無縁の者たちが葬られてきた墓地だった。先ほどの若い娘も、『浄炎じょうえん』に焼き尽くされて骨だけになったら、ここへ運ばれて、埋められる。


 黄昏時の風の中、子雲しうんはその無数の墓石の間を抜けて、斜面の端、一本のえんじゅの木の下に立った。


 そこには、周囲と同じように、握りこぶし二つ分より一回り大きいぐらいの、白くて丸い石が置かれている。


「ご無沙汰いたしました――父上、姉上」


 その前に片膝を着くと、子雲は法衣の袂から竹筒を取り出し、中に詰めてあった液体を墓石に回しかけた。


「――あら」


 空気中に漂った香りに、清蓮尼せいれんにがふと首を傾げた。


「お酒ですか? お珍しい。いつもは、お清めのお水なのに」

「西国へ発つ前に、英照えいしょうに押し付けられたのですよ。飲み残してしまったが、戻ってくる頃には風味も抜けているだろうし、捨てるのも勿体ないから、良かったら墓参の時に差し上げてくれ、と」

「あらあら――」


 苦笑交じりに告げると、清蓮尼が泣き笑いの表情になった。


「それは、玄彬はるあきら様も想子そうこ様も、喜んでおいででしょうねえ」

「父はともかく、姉に酒はどうかと思ったのですが」

「あら、想子様はお酒もお好きでしたし、お強かったですよ?」

「そう――だったのですか?」

「ええ。むしろ玄彬様の方が弱かったぐらいで。普段、お友達と嗜まれるのはお茶の方でしたから。でも、呑まれない訳ではありませんでしたから、お喜びだと思いますわ。子雲様の弟分からのお供物となれば、尚更」

「だと良いのですが……」


 小さく笑って、子雲は、丸石が置かれているだけの墓を見つめた。


「――あれからもう、二十七年ですか」

「過ぎてみれば、夢のようでございます」


 ふと呟いた子雲に、清蓮尼がひっそりと応じた。


「再来月には、とうとう今上きんじょう――敦永あつながの帝様の継嗣が定まるのでございますね。祭事には、子雲様もお出向きになられるのでしょう?」

「ええ」


 頷いて、子雲は一つ、肩を竦めた。


「他にも、少々頼まれ事をしましたので、弥生の半ばからは洛中に居ります。戻るのは、立太子の礼が終わってからになりますね」


 親王を皇太子に格上げする為の立太子の祭礼は、央城おうきの朝廷における重要祭事の一つだ。建国の経緯と式の内容から、帝の即位式同様、式そのものは神祇頭じんぎのかみ常盤台ときわだいが取り仕切ることになっているが、毘山びざんからも律師りっし以上の高位僧は全員、参列することになっている。


義遠ぎえん様は、さぞふんぞり返っていらっしゃいましょうね」

高仁たかひと親王のお母上は、義遠殿の姉君ですからね」

「――あのようなことさえなければ」


 ふと、清蓮尼の声が低くなった。


「今頃、皇太子の『叔父』という立場に立たれていたのは、義遠様ではなく」


「清蓮尼殿」


 有無を言わさぬ口調で、子雲は、その先を遮った。


「それは、二度と口にしない約束の筈です」

「っ――申し訳ありません」


 ハッとしたように墓石を見やり、項垂れた清蓮尼に、子雲は一瞬だけ硬化した表情を、柔らかく緩めた。


「怒った訳ではありません。ただ、私は、今の自分に何の不満もありませんから。惜しむものがあるとすれば、父と姉の思い出だけで十分なのです」

「はい――」


 小さく頷けば、子雲は穏やかな微笑を返し、改めて墓石に向き合った。中身を献じ終えた竹筒を墓石の前に供えてから、両手を合わせ、祈りを捧げ始める。


 その後ろ姿を、清蓮尼は、慈愛と哀惜と懸念とが深く入り混じった眸で、見つめた。


『今の自分に何の不満もない』


 それが負け惜しみでも何でもない、心底からの本気の言葉であることを、清蓮尼は知っている。


 強者の理不尽によって一方的に奪い去られたものを嘆くことなく、恵まれる筈だった高貴な人生にも得る筈だった名利にも執着することなく、ただ、目の前にある今の幸せだけを大事にできる。それこそが、彼の真価であることも、だ。


 ただ、だからこそ、心配でならなかった。


(義遠律師――)


 英照とは全く別の意味で賀雀院がじゃくいん一問題のあるあの男が、一回り以上年少の同僚である子雲を目の敵にしていることを知らない者は、毘山には居ない。


 子雲が、二十代で律師への昇試しょうしに合格するという、毘山史上初の快挙を成し遂げたから――。

 その実力と、堅物で融通が利かなく規則には小うるさいが、いつだって自分の為ではなく誰かの為に行動する人間性を、誰もが認め、称賛するから――。


 ちなみに、義遠自身の律師昇格は三十代の半ばだったが、それは、彼を溺愛する母親が、当時の毘山座主ざす僧都そうずたちに多額の賄賂を贈ってくれてようやく実現したという体たらくで、おまけに、その直後に、座主が、賄賂など鼻も引っ掛けないという慈恵じけいに代わった為、四十代の半ばになっても僧都への昇格を果たせずにいる。


 だが、本人は、『自分が何一つ努力していない以上当然だ』とは思わず、『慈恵が直弟子である貞海ていかいや子雲ばかり贔屓にして、自分を蔑ろにしているからだ』と思っているようだ。


 そんな人間が、皇太子の実の叔父、などという『権威』を手にしたら、どうなるか。


 立太子されたからといって、高仁親王が恙なく今上帝の後を継いで即位できるかどうかは、まだわからない。


 何せ、高仁親王は、鳳紀ほうき二六〇年、第十七代桂城かつらぎの帝の御世に初めて内大臣に登った不二原ふじわらの亜足あたり以来、時に帝の側近として、時に外戚として、央城の朝廷を牛耳って来た大貴族、不二原一門出身の母を皇太子だからだ。


 今泉いまいずみ大納言こと今泉家の現当主、広庭ひろにわ卿なら、その辺りのことは重々弁えているだろう。


 だが、その兄ほど賢明でも思慮深くもない義遠は、高仁親王の立太子が決まった時点で、その未来も確定されたものと信じて疑ってはいない。


 しかも、これまで今上帝の信を背景に、不二原家とも今泉家とも、神狩かがり一族とすら比較的良好な関係を保って、毘山全体を正しく指揮、監督していた慈恵僧正が、昨春に一度風邪をこじらせて以来、病みがちになり、床につくことが増えている。


 結果、このところの賀雀院がじゃくいんにおける義遠の態度は、急速に尊大化していた。

 もともと、周囲の人間、特に、目下の法師たちや見習いたちを、僧門そうもんをくぐる前の身分や家柄で露骨に差別する男だったが、それがますます酷くなり、自身が手に入れた新たな『権威』の効力を試すように、理不尽な横暴に及ぶことも増えている。


 慈恵の直弟子の一人で、その薫陶を十二分に受けている賀雀院筆頭僧都の貞海は、そんな義遠を何とか抑えようとしているが、義遠はまるで意に介さない。

 他の僧都や律師たちに至っては、高仁親王の立太子が本決まりになって以来、見て見ぬふりをするか、明確に義遠の側につくかの、どちらかだった。


 その中で、子雲だけは、貞海の側に立って、はっきりと義遠に反対する立場を取っている。

 同僚としての礼節は保っても決して阿ることはなく、それどころか、英照や透哉とうやのような低い身分の生まれの弟子たちが、それ故に理不尽な扱いを受けようものなら、断固として牙を剥く。『権威』に服従することで得られるかもしれない己れの利益ではなく、より弱い立場の者たちの利益――身の安全や学びの場といった、本来正しく維持されるべき権利をこそ、力を尽くして護ろうとする。


 そんな子雲を、人の好さは折り紙付きだが荒っぽいことは苦手な貞海は前々から頼りにしているし、英照を始め、毘山の『政治』に関わることがない現場の法師たちの多くは、心底信奉している。


 だからこそ、実家の名前が益々の権威を纏うようになった今、毘山での更なる栄達――十年近く果たせなかった僧都への昇格、そして、おそらくは僧正――慈恵の次の座主の地位すら狙っている義遠にとって、子雲は障壁の一つになっている筈だった。


 だとすれば、その義遠が支配し始めている賀雀院が英照を『働かせすぎ』なのも、もしかしたら、人手不足にかこつけて、英照を子雲の傍らから排除しようとしているからかもしれなかった。妖種に困っている無辜の者たちを救う為と言われれば、その裏にどれほど汚い意図があろうと英照は赴くだろうし、子雲も止めることはできない。


 (我欲の為なら幾らでも他者を踏みつけにできる者は、何をするかわからない)


 子雲の父と姉が被った運命を目の当たりにしている清蓮尼は、そのことを知っている。


 だから、つい口を突いて出た。振り返っても仕方がないとわかっている、過去への繰り言が。


「――そうご案じなく」


 ふと、穏やかな声が響いた。

 短くも深い祈りを終えた子雲が、いつも通りの表情で立ち上がる。


「座主の地位は、舜寛しゅんかん様も狙っておいでですから。主上が早々にご退位あそばされたとしても、そう簡単に義遠律師のものにはなりません」


 舜寛は、永泰院えいたいいんの筆頭僧都である。

 子雲より五歳ほど年上で、実力も遜色ない。何より、彼は今上帝の異母弟に当たるので、身分という意味では毘山随一である。


「どちらにしても、私は、私自身が護りたいと思うものを護るだけ。父上なら、それで良いと言って下さる――そうでしょう?」

「――はい」

「来年の命日にも、またちゃんと、ここへ顔を見せに来ますから」

「――はい」


 願うことしか、祈ることしかできない自分の無力さを思いながら、清蓮尼は、法衣の袂でそっと目尻を抑えた。


「約束でございますよ、子雲様」

「はい」


 風が吹き抜けていく。

 西の山際にかかっている太陽が、視界に茜の色彩を広げていく。


「では、父上、姉上、また参りますので」


 その中に、弟子たちには滅多に見せない透明な笑顔を溶け込ませて、子雲は最後に墓石に一礼し、踵を返そうとした。


 その時だった。


「ん?」


 視界の端で、きらりと何かが光った。

 よく見ると、墓石の脇、下草の中に埋もれるようにして、何かが置かれている。

 拾い上げてみると、それは、縁が欠けた茶碗だった。

 中には、半分ほどの液体が入っている。


「――茶?」


 持ち上げた弾みに微かに立ち昇った香りに、子雲は首を傾げた。清蓮尼を見やるが、彼女も不思議そうに眼を瞠り、首を振るだけだった。


 香りがするということは、煎れられてからさほど間がない、ということだ。


 しかし、毘山の中でも最も貧しい者たちが集まるお救い場の近くで、それも、無縁仏ばかりが葬られる墓地で、高級品である茶を飲むような物好きなど、子雲にも清蓮尼にも、全く心当たりはなかった。


 ***


 太陽が、西の山際に沈んでいく。

 その最後の明かりを頼りに細い山道を下り、麓の辻までたどり着いた時だった。


「――道全どうぜん


 頭上から、声が掛けられた。


「最後の墓参り、終わったか?」

「おお、終わったぞ」


 薄汚れた白麻の帷子かたびらの袖をちょっと翻して、白髪の老人は幽かに笑った。


「別れと詫びを言ってきた。期待はしていなかったが、懐かしい顔を見ることもできたからな。十分だ」

「そうか」


 ざざーっ、と梢が鳴って、傍らに小柄な影が飛び降りてくる。


「じゃあ、行くか?」

「ああ、行こう」


 老人が薄い笑みを浮かべた時、残照の最後の光が、山の向こうに消えた。

 空から急速に明度が薄れ、大気に濃紺の闇が広がっていく。


 その中へ、闇よりも濃い二つの人影は、音もなく溶け込んでいった。

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