56 乾坤一擲ー2

「――全く、困ったお人だ」


 血だまりの中に横たわって荒い息を吐いていた一也いちやが、ぼそりと呟いた。


 その左手が、地面の小石を掴んだ。

 それを、人差し指と親指で挟んで、鋭く弾く。

 次の瞬間、目にも止まらぬ速さで空を走ったそれが、鬼堂興国の後頭部を直撃した。大吾という若者以外の全員が、偶々その喚き声に視線を引きずられていた為に、それを見た。


「――え?」


 誰かが発した些か間抜けな声と共に、唖然とした沈黙が落ちる。


 その中、唐突に喚くことを止めた鬼堂興国が前のめりになって、ばたん、と倒れた。


主公しゅこう⁉ ど、どうなさいました⁉」


 驚愕の声を上げて飛び上がったのは、大吾という若者だけだった。


「興奮しすぎて、気絶なさったのでは、ありませんか?」


 固まってしまった周囲の中、冷静なのは一也だけだった。血だまりの中、首だけを巡らせて、荒い呼吸の下から、何事もなかったかのように言った。


「大吾様は、結界を張ることは、できますか?」

「え? あ、ああ、一応は」

「なら、主公を、どこか物陰に。周りに結界を張って、護って差し上げて下さい。そちらで気絶しておいでの朧月ろうげつ様も、お忘れなく」

「わ、わかった!」


 淡々とした一也の指示に、衝撃に次ぐ衝撃に、もはやいっぱいいっぱいになった若者は、反射的のように従った。白目を剥いて倒れてしまった鬼堂興国を担ぐようにして、正殿の物陰へと引っ張っていく。


「――お前って奴は、つくづくとんでもないな」


 ぼそりと呟かれた清十郎の言葉が、その場の全員の心情を代弁していた。


 全くだ、と三朗ですら思う。

 確かに、言ってもわからない相手であれば、他に方法はなかったかもしれない。しかし、自分の命の半分を握っている相手に、よくもあんな真似ができるものだ。


「父のことはいい」


 数馬が、ふと呻いた。


「だが、わかっているのか? お前たち全員に、待っている家族が居る筈だ。にもかかわらず、私ごときと命運を賭けるというのか」

「その家族の為です」


 軽く頭を振って視線を頭上に戻しながら、清十郎が即答した。


「水守家は四人、八手一族とてせいぜい六百人程度。たったそれだけの真那世まなせが、もはやこの世に大多数を占める人の中で生きていくには、人との関わりが不可欠だ。その関わり方が、今はこの形しか無いなら、俺は、あなたのような術者が上役に居てくれる方がいい。いずれ俺の息子たちも戎士として生きていくしかないなら、尚更だ」


 清十郎の言葉に、三朗と二緒子も頷いた。


「数馬様は、主公の命に背いてでも、三朗を助けて下さいました」


「――勘違いするな」


 二緒子の言葉に、数馬はふと顔をそむけた。


「私とて黒衆だ。三朗を助けたのは、我らの都合。お前たちの神力ちからを利用する為だ。感謝する必要も、恩に着る必要もない」


 自分で自分を斬りつけるような声音だった。

 本心からそう思っている、というより、そうでなければならないと思っている、という印象だった。


「そもそも、九条家の口車に乗って事態を終わらせることを拒否したのは、私の判断だ。あの姫の力や意図を見誤った、私の失敗だ。であれば」


「でも、俺は嬉しかったですよ」


 清十郎が微かに笑った。


了平りょうへい木梨きなしたちのことを有耶無耶にせず、きちんと抗議してくれたことが」


 だから、尚更に。


「この状況で、戎士に盾になれと命じるのではなく、盾になるから逃げろと言って下さるようなあなたを、死なせる訳にはいきません」

「しかし、この状況で勝機など……」

「数馬様、兄様が私たちに神力の使い方を教えてくれていた時、何度も繰り返されていたことがあります」


 二緒子が息せき切って話し出した。


「神力は世界を形作る秩序の力で、その基は循環だと。だから、太陽や月が空を巡るように、台風が渦を巻くように、その力は大きくなればなるほど必ず円を描く、って」

「円運動……」


 数馬が何かに気付いたような表情になる。


「つまり、核――中心がある、ということか」

「そうです! だから、あの巨大さに惑わされず、核となっている中心点を破壊しさえすれば、もしかしたら」


 必死の様子で叫んだ少女を、八手一族の二人だけではなく、数馬もまじまじと見つめた。


 あの二緒子が――と、三朗も思った。

 鬼堂興国の威圧に怯え、八手一族の敵意に怯え、『役』や戦の暴性に怯えて俯いてばかりだった少女は、もう居なかった。

 その全てを懸命に跳ね返し、顔を上げて、万に一つでも勝機があるなら食らいつこうと、必死だった。


「しかし、中心と言っても、あれだけ巨大で強力だと、俺には眩しすぎて、どこがどこやらだ」


 頭上を仰いで、清十郎が唸った。


「二緒子殿には視えるのか?」

「視えます」


 目を細めながら、二緒子が言った。


「た、ただ、私に狙えるかと言うと……」

「それなら、私にも視える」


 数馬が、同じように顔を上げた。


「的は、私が狙う。ただ、その為には、まず今のこの状態を何とかしなければ」


 確かに、全員の力を防御に回してやっと拮抗を保っている状態では、攻撃に回ることはできない。中心を射抜く前に、押しつぶされて終わりだ。


「何とか、押し上げるぞ」


 揺れ始めた膝を、片手で傍らの『使』のたてがみを掴むことで支えながら、数馬が言った。


「さっきのように、一度あれを打ち上げる。その瞬間に、中心を狙う」

「確かに、それしかありませんね」


 同意した清十郎の両眼が、赤く染まる。全身の細胞一つ一つから、血の一滴一滴から、神力を絞り出そうとするように。


「っ……」


 隣で、二緒子が呻いた。背中の傷が痛むのだろう。それでも、両手で握り込んだ神剣にしがみつくようにして、ありったけの神力を通し続けている。


 その必死の奮闘を全身で感じ取りながら、三朗は、自分の首にかかったままの勾玉の首環くびかざりを掴んだ。


 途端に、心臓の鼓動が大きく、早くなる。

 膨れ上がる緊張は、恐怖といっても良かった。


 これを外せば、という考えは、最初からあった。巨大な力があれば、如何なる理不尽も不条理も打ち破ることができるなら、もう何も喪わずに済むなら、それは確かにここにある。


 だが、三朗はもう、力が全てを解決する訳ではないことを知っている。

 もしまた制御し損なえば、三年前の、そして今朝の糸百合の二の舞だ。

 九条の姫を退けるどころではない。この場に居る全員を切り刻んでしまう。瑠璃と玻璃のように。


「! 三朗」


 二緒子が、ハッとしたような視線を向けてくる。

 その顔は、確かに一瞬、懸念を浮かべた。

 だが、次の瞬間、二緒子はそれをかき消した。


「思う通りにやって、三朗」

「姉上……」

「あの姫を引き連れて四輝しきのところへ帰る訳にはいかないんだもの。だったら、できると思うことは、全部やらないと」


 透明な笑顔が、ふわりと綻ぶ。


「私はあなたを信じているから」


 それを視界に映した瞬間、赤い雨の幻影が少し遠ざかった。


 自分など、自分が一番信じられない。

 それでも。


 今朝は、迫る死の恐怖に突き動かされての、無意識の行動だった。


 だが、今度こそ、三朗は自らの意志で、それを外した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る