57 乾坤一擲ー3
漆黒の神剣が、ガタガタと鳴り始めた。
ぶわり、と湧き上がった神力が急速に勢いを増し始める。無風から微風へ、そして、強風へと。
「ぬおっ⁉」
危うくそれに足元を攫われそうになった清十郎が、慌てて『繰糸』を足先からも繰り出し、地面に自分自身を縫い止めた。
「これが、
「斗和田の時の一也と同じ。いや、それ以上だ」
清十郎と数馬の間で度肝を抜かれたような声が交わされるが、三朗の耳には入ってこなかった。
正直、それどころではない。
制御を外された神珠から溢れ出した神力が、一気に神剣に流れ込む。剣身に漆黒の燐光がまとわりつき、ばちばちと火花を上げ始める。それと共に、神剣自体が細かく振動し始めた。
「っの……」
両手で掴んだ神剣の柄を、力の限り握り込む。
だが、神剣の振動は次第に大きくなっていく。
今朝と全く同じだ。溢れる神力を抑えようとすればするほど、身の裡から湧き上がる巨大なうねりは、手に負えない暴れ馬のように右へ左へ跳ね回り、より強く反発するように膨れ上がる。
「言うことを聞けって!」
失敗する訳にはいかないのだ。
今度こそ、何としてでも制御して、使いこなさなければ、兄と姉を
込み上げる焦慮が、更なる悪態となって喉を突きかけた時だった。
「――三朗」
冷涼な気配が舞った。
背後から、身体の両脇を通された二本の手が、死に物狂いで神剣の柄を握りしめていた三朗の両手を、左右から包み込んだ。
「落ち着け。余計なことは考えず、自分の神力の流れにだけ意識を向けろ」
ハッと肩越しに振り返れば、背後に寄り添う痩身が視界に映る。
「兄様⁉」
「
途端に、横や前方から大声が上がった。
「動かないで、兄様! これ以上出血したら……!」
「死ぬぞ! 何やってんだ、伊織!」
清十郎の最後の怒声は、一也に肩を貸している僚友に対してのものだった。
「仕方がないでしょう」
対する伊織は、もはや諦めの境地といった表情だった。
「あんな敵を相手に全員で生き残る為には全員の力が必要だと、無茶を仰るのですから」
「無茶のつもりは、ありませんよ」
微かに笑って応じた一也の顔色は、青ざめるのを通り越して殆ど真っ白になっている。伊織に支えられて、辛うじて自分の足で立ってはいるが、三朗の背には若干の重みが加わっている。いつ倒れてもおかしくはない。
「三朗、無理に抑え込もうとすれば、溢れるだけだ。抑えるのではなく、回すんだ」
「回、す……」
「
唐突な問いかけに、思わず兄の横顔を振り仰いだ。
「それは――はい、勿論」
「天の舞と地の舞、そして、水守の舞――春と秋に神和一族が湖の畔で奉納していた三種の舞は、複数の円で構成されている。小さな円を、大きな円が内側に包むようになっている。あれと同じように、己れの神珠の中で神力を回すんだ」
「は、はい」
頷いた瞬間、目の前に、深山幽谷の懐に抱かれて静かに広がる蒼い湖が映った。
耳の奥に、叔父が奏でる笛の音が聞こえてきた。
祖父が振る幣帛の音が聞こえてきた。
そして、それに乗って、くるりくるりとたおやかに舞う、母の姿が浮かんできた。
想えば、懐かしさと切なさとで、涙が滲みかける。
それを堪えながら、その姿を追って、その音を追って、身の裡の神珠に意識を向けた。
神力の流れを捉える。
その上に、舞の心象を乗せる。
途端に、神珠の光が、大きく膨れ上がったような気がした。
「そうだ。それでいい。そのまま、回し続けろ」
「で、でも、これ、こんな、強い……っ」
語尾が揺れた。
無意味に錯綜していたものが、方向性を与えられたことで一つになり、更に勢いが増す。
こんなものが自分の中に在ったのかと思うほどの、巨大なうねり。
今朝は、それがめちゃくちゃに暴走して、死ぬほど痛い想いをした。
その恐怖が蘇った時、視界の奥で、春の野原を染めた真紅の幻影が明滅した。
瞬間、一也の両手が、しっかりと三朗の両手を掴んで来た。
「怖いと思うことは、悪いことではない。恐れる気持ちがあれば、弄ぼうとは思わないからだ。少しでも正しく用いようと考えることができるからだ」
「そ、そうしたいと、思っています。でも、でも――もし、また」
「その心配は、今は要らない。溢れるものがあれば、私が抑える」
一也の両手が、朱色の燐光を帯びる。
それが、ともすれば三朗の制御を離れて、四方八方に飛び出しそうになる神力のうねりの左右に、『壁』を作っていく。
まるで、湖から溢れ出す水を正しく田畑へ導く、用水路を構築するように。
だが、圧迫されたことへの抗議か、既に溢れかけているものが、行き場を失って空間を軋ませる。
それが真空の刃となって、三朗の手に添えられている兄の手に、幾筋もの切り傷を刻んだ。
「兄上、離して!」
視界に赤い滴が散って、首の後ろがぞわりと粟立った。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないっ!」
反射的な悲鳴が跳ねる。
だって、耳に聞こえる呼吸の音は、かつて聞いた覚えがないほど浅く、速く、切迫してきているのだ。
足元にも血だまりが広がっている気配がするのだ。
桧山辰蔵だけではない。その前に、既に自分の神力でも、傷を負わせてしまっている。この上更に三朗の桁外れの神力を抑えるというのは、無理も無茶も通り越した無謀というものの筈だった。
「俺は、兄上と姉上を四輝のところへ帰す為に戻ってきたんだから! それに、約束してくれたでしょう⁉ 全部終わってもいい日が来たら、兄上が俺を送ってくれるって! だったら、兄上も死んじゃ駄目だ! 簡単に自分を投げ出さないで! お願いだから!」
隣に立つ二緒子が、ハッと表情を凍らせる。
「――ああ。だから、大丈夫」
だが、一也は優しい微笑を浮かべただけだった。
「私は死なない。お前たちと共に、必ず生きて、四輝のところへ帰る。その為なら、擦り傷など些細なことだ」
「私も、お手伝い致します」
そこへ伊織が、片手で一也を支えたまま、もう片手の指を躍らせた。
『繰糸』の『網』が広がって、一也の『壁』を更に外側から補強する。
「このくらいの神力なら、まだ残っていますから。だから、三朗殿は安心して、ご自分の神力の制御に集中してください」
伊織の神力が加わったことで、用水路の強度が増し、安定するのを感じた。
(回す。回転させる)
その中で、ただそれだけを呪文のように繰り返していると、神珠の光の回転が更に速くなる。
神剣を中心に、導かれた神力が正確な渦を巻き始める。
つむじ風から竜巻へ、更には台風のごときものへ。
みるみるうちに膨れ上がったそれが、数馬、清十郎、二緒子の力の下に重なって、防御の陣に加わる。
互いに一歩も譲らない二つの力――二つの意志。
その間で、捻じり合い、せめぎ合う空間が、軋み音を響かせる。
「――今だ。打ち返せ!」
数馬の合図が放たれる。
同時に、全員が限界まで振り絞った力が一点に集約され、爆ぜた。
爆音が轟いた。
突き上げる力に競り負けた火の球が、虚空へと跳ね返される。
すかさず、数馬が右手に太刀を持ち替え、肩を引いた。刀身に残る霊力のありったけを纏わせて、投擲する。
それを、三つ目の狼の衝撃波が跳ね上げる。『網』を解き、一瞬で一つに縒り合わせた清十郎の『繰糸』がその後に続き、更にそれを、二緒子の水竜が追いかけた。
「的を狙うことは考えなくていい」
三朗の神力の道を護りながら、一也が言った。
「お前は、自分の神力を制御することだけを考えて、二緒子の神気について行くんだ。それで、十分だ」
「はいっ!」
二緒子の神気なら、どんな暗闇の中でも、嵐の最中でも、見誤るものではない。三朗にとって、最強の道標だ。
数馬の投擲は正確だった。
火の球の中枢に、刃先から真っすぐに飛び込んだ。続いて、『使』の衝撃波が、清十郎の『繰糸』が、順にぶつかっていく。
ぴし、と音を立てて、炎の球の表面に小さな亀裂が走った。
そこへ、白金色の泡を纏った水の竜が突っ込む。亀裂に鼻先を押し込み、全身をねじ込むようにして、更に亀裂を広げる。
「撃ち抜け‼」
轟、と渦を巻いた風が、漆黒の竜となって空を駆け上がる。先行する水の竜を追って火の球に衝突し、その中枢を貫いて、駆け抜けた。
閃光が弾ける。
天が裂けるような轟音と共に、束ねる核を失った真神の神力が粉々に解け、四散した。
その衝撃波は、当然のごとく地上にも降り注いだ。
半ば以上崩壊していた正殿がばらばらになぎ倒される。
庭木が吹き飛ばされ、池の水が、中に居た緋鯉たちごと舞い上げられる。
「数馬様!」
同じように吹き飛ばされた数馬の足首を、清十郎が慌てて掴み、地表に引き戻す。
そこに三つ目の狼が飛びついて、二人纏めて腹の下に庇い込んだ。
三朗も、一也と伊織と二緒子の手を掴み、地面に引き倒して、その上に覆いかぶさった。
瓦礫と土砂が舞い上がり、視界が、咄嗟には数寸先も目視できないほどの粉塵に覆われる。
その中に。
「破られた⁉ 嘘‼」
九条
それを聴覚に拾うや否や、三朗は跳ねるように顔を上げていた。
「伊織様、姉上と兄上をお願いします!」
「――三朗⁉」
どこへ、と叫ぶ声を背に飛び出し、走り出す。
(あいつは、諦めない)
自らの精神の中でその霊珠の一つに直接触れただけに、三朗には確信があった。
九条紫は、息が続く限り、戦う手段が残っている限り、きっとこの場を退きはしない。
死んだ『姉』の為。護りたい母の為。
だとすれば。
「七尾様! 俺を投げ上げて!」
「あ⁉ お――おう!」
振り返った清十郎が、一瞬で三朗の意図を悟った顔になって、腰を落とし、両手を組んだ。
三朗は、短い助走で走り寄り、その手の上に片足をかけた。
同時に、目いっぱい膝を撓ませた清十郎が、気合声と共に少年の身体を空へ跳ね上げる。
濛々と舞い上がり、立ち込める粉塵を一気に突き抜けて、三朗は天高くへと身を躍らせた。
滞空する朱鳥の『使』――その更に上空へと。
同時に神剣を抜き放ち、柄を両手で掴んで大上段に振りかぶる。
「⁉」
朱鳥の『使』の背の上で、九条紫がハッとしたように頭上を仰いだ。信じられないものを見る眼差しが、自分の中で消えていった青い袿の少女の最期の顔に重なった。
心臓が冷たい掌に掴まれる。
背中を氷塊が滑り落ちる。
――知りたくもなかった事情を、知ってしまったから。
もう、わかっている。
今のこの状況の本当の『敵』は、彼女自身ではない、と。
彼女も――彼女たちもまた、犠牲者だ。
力のみを求める者たちの、その飽くなき強欲の。
それでも、ここで斃さなければ、この『少女たち』は何度でも自分たちを、そして、鬼堂興国を――その内に捕らえられている一也の神珠ごと狙う。
それだけは赦せない。
彼女に彼女の願いがあるように、自分にも自分の願いがある。
未来に、そのどちらか一つを通すだけの道しかないのであれば、相手の願いを踏み潰してでも、自分の願いを押し通す。
覚悟を定めた瞬間に噴き上がった恐怖を、珠が軋むような罪悪感を、腹の底から迸る声に換えて、神剣を振り下ろした。
だが。
「――見事だったぞ、
漆黒の剣が、直前で目の前に飛び込んできた、淡い金色の刀身に受け止められた。
愕然と見開いた視界に、
「お前の兄姉といい、あの八手一族たちといい、鬼堂の御曹司といい、つくづく感服する戦いぶりだった。この戦、間違いなく、お前たちの勝ちだ。だが――すまん」
語尾に、金色の『霊刀』にひびが生じ、それがみるみるうちに広がっていく音が重なった。
「俺も俺で、大切な姫様たちを死なせる訳にはいかないのでなあ……」
淡い笑顔と共に、掌中の『霊刀』が砕け散る。
次の瞬間、勢いのままに振り切られた神剣が、ざくり、と男の胸部を斬り下げた。
同時に、男の足が、どん、と三朗の腹部を蹴った。
初めて自分の意志で人体を斬った。
しかも、やっとの思いで殺意を固めた当の相手ではなく、それを庇った別人を。
その衝撃に一瞬意識が固まっていた三朗には、反応できなかった。蹴り飛ばされた身体が吹っ飛んで、そのまま重力に捕らえられる。
襲撃者を排除したところで均整を崩し、鮮血の糸を引きながら、同じように落下していく。
「三朗‼」
「柾木‼」
上がった悲鳴は二つ。空の一角と地表。どちらも少女の声だった。
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