第十章 またたく希望
58 大人の責任ー1
「――何でよ、
白鹿の『使』が、大きく翼をはためかせる。鮮血を引いて落ちていく人影の下に回り込み、その背中に受け止めた。
「何で、お兄様の『お願い』を聞かなかった私たちを庇ったりなんか! あなたは――
九条
「創ってみたら想像以上の化け物だった『時任の遺産の器』が本気で造反しようとしたら、その前に私たちの首を斬らせる為に!」
「やっぱり、ご存じでしたか……」
荒い息の下に幽かな苦笑を刻んで、三室柾木は視線を上げた。
「では、その御手は何です?」
「は? 手?」
「私を救おうとなさってくれている、その御手ですよ」
言われて、紫は初めて気付いたように、自らが血にまみれるのも構わず、傷口を押さえてあふれる血を止めようとしていた両手に、視線を落とした。
「姫様方こそ、私が『死神』だと承知だったなら、どうして、そうやって救おうとなさってくれているのですか?」
「それは――だって……。と言うか、意識があるなら、自分でも抑えなさいよ! 三室家の技は、こういう時にも使える筈でしょ!」
「はは……、そうでした……」
可笑し気に笑って、柾木は何とか全身に霊力を通し、血止めを試みにかかる。
「化け物というのが、言葉も気持ちも通じない
その合間に、声を絞り出した。
「確かに、その在り様は、『普通』とは言えますまいが……。それでも、姫様方は人でございます。お母君想いで、ご姉妹想いで、努力家で――少々勝気に過ぎて高飛車なところが玉に瑕ですが、頭も良ければ思い切りも良い、私の自慢の主でございます」
紫の顔が、面白いことになった。
「からかってるなら、突き落とすわよ……」
「酷いですなあ。本気で言っているのに」
くつりと肩を揺らしてから、柾木は真っすぐ、少女の眸を見上げた。
「なればこそ、これ以上は、いけません」
「……」
「人であることを、ご自分から棄てては、いけません」
「――だから、諦めろって?」
傷口に添えたままの紫の両手が、ぶる、と震えた。
「奈子があんなことになったのは、私が判断を間違ったからなのに」
「――紫、『私たち』だよ」
「――
「――あたしも、失敗しちゃったからね」
『姉』たちが、ひっそりと囁き合う。
だが。
「違います」
柾木は、ゆるりと首を振った。
「奈子様のことは、姫様方を護ることも導くこともせず、ただ祀り上げるだけで放置し、結果的にここまで追い詰めた――我ら
そう。
少女たちは、ずっと独りだった。
父は既に亡く、祖父や兄が求めるのは力だけ。
近侍の者たちは、ただ腫れ物に触るように傅くだけ。
母は、歪な生の苦痛を安らわせてくれる存在ではあるけれど、現実的な問題について頼ったり相談したりすることはできない。
だから、少女たちは、祖父への根深い憎悪も、現状への鬱憤も、未来への不安も、周囲の誰にも相談できず、自分たちだけで抱え込むしかなかった。
だが、どれほど図抜けた力を持っていても、紫たちは五人が五人ともまだ子供だ。であれば、何をどう相談しようと、子供の結論にしかならない。
だから、自分たちの存在意義である力だけを恃みにして、退き時を誤ることとなった。
「願いに固執して、道理に目を瞑り、無理を押し通しても、むしろ願いは遠ざかるものです」
「でも、ここで私たちが諦めたら、奈子は丸っきりの無駄死にじゃない!」
「そんなことは、ありますまい」
鬼堂家は、これまで、表面上は九条青明に従い、行動には常に大義名分を用意して、九条家から明白に『敵』と認定されることを避けて来た。
だが、今回、紫の破天荒な行動によって、それが大方の予想通り、面従腹背であったことが確認できた。
であれば、九条家も今度こそ、腰を据える筈だ。
「鬼堂家が『時任の遺産の器』の存在を知ったことを、央城神狩が知れば、
九条天彦のような、下手に出る風を装いながらの指示や命令ではなかった。
紫の気持ちをこそ両手で掬い上げるような諫言だった。
「この世は地獄……。なればこそ、誰もが痛みを堪えて、一歩でも前に進もうとするのです。天音様、そして、真人様も、そうでした。なれば、あのお二人の御子である姫様方に、出来ない筈はありません」
「――私たちは、朱鳥を籠めておく為の、ただの道具よ」
「であれば、何ゆえ、真人様は、命がけで神祇頭様を止めようとなされましたのか」
その誕生に際して注がれたのは、命と珠を利用する冷たい『意図』だけではない。
妻や我が子に対する父の温かい『想い』も、そこには間違いなくあったのだ――と。
紫が顔を上げる。
その眸の奥で、轟々と燃え盛っていた狂気じみた炎が、不意に窄まった。
代わりに、小さな子供が一生懸命泣き出すのを我慢しているような表情が滲んできた。
「ほら――その顔。やっぱり、姫様方は、化け物などではありませんよ」
それを見つめて、柾木は微かに笑った。
「姫様方が、本心から、人間などやめると願われるなら、ともかく、皆が化け物だと言うからそうなのだと決めてしまわれて、遠ざかってしまわれるのは、哀しゅうございます」
失血による意識の混濁が進んできたのか、その眸の中で、白濁した靄が渦を巻く。それでも、柔らかな表情と空気は消えなかった。
「今なら、まだ、間に合います、から。もう少し、続けてみませんか……」
人間であることを。
人間として生きることを。
「その方が、きっと、奈子様も、真人様も、喜ばれると、思いますよ……」
蝋燭の火が消えるように、語尾が消えた。
「柾木⁉」
紫が、ハッと手を伸ばす。
「え⁉ ちょっ、やだ、どうしよう⁉」
「――落ち着けって、紫。柾木の霊気は消えてないだろ。気絶しただけだよ」
「――柾木さん、太い血管の血止めだけは出来たみたいですけど」
「――けど、このままじゃ、そのうちにお歌を歌っちゃうね」
『姉』たちの会話を聞きながら、紫は血に染まっている随身の首に触れ、脈動を確かめて、息を吐いた。
それは、間違いなく、安堵の溜息だった。
だが、傷の深さも失血の状況も、危険な状態であることは間違いなかった。彼の命を救いたければ、一刻も早く、医者による手当てが必要だ。
「
「――うん」
「
「――ええ」
「
「――本当は嫌だけど、楽しみは次に取っておくよ」
「じゃあ、決まりね」
三人に確認を取ってから、紫は顔を上げた。
白鹿の『使』に並んで滞空している朱鳥の大神を見上げ、右手を伸ばす。
光が弾けて、優美な緋色の大鳳が大気に溶けるように消えた。
戻した神珠を掌の中に握り込んでから、紫は、一度、地上を見下ろした。
破壊された真垣の城の中、生きて全てを凌ぎきった術者と
特に、寄り添い合って離れない、水守家の兄弟を。
「私も、みんなと、ちゃんとした姉妹として、生まれたかったな……」
幽かな声が、ふと零れ落ちた。
「一緒に肩を並べて、遊んだり戦ったり、したかった」
「――そりゃあ、うちだって」
「――手がないと、辛い時や苦しい時、握り合うこともできませんものね」
「――詩子は自分の脚で走りたかったよ。人形じゃ、どうしても数刻が限度だもの」
三つの霊珠が頷いた。
「でも、それこそ、今更言っても仕方ないことよね」
短い沈黙の後、少女は顔を上げた。
「『
ばさりと翼をはためかせた白鹿の『使』が、旋回する。
そのまま一気に雲の高みまで上昇すると、傾いていく月を追って、滑るように空を駆け始めた。
「奈子、今頃、お父様にお逢いしているかしら」
「――
「――いつも通り、私たちは可哀想可哀想って愚痴ばかり仰って、お父様を困らせているかもしれませんわね」
「――あははは。奈子の愚痴は止めどが無いからねえ」
「それでも、きっと二人で、私たちとお母様を見守っていてくれるわね」
錯綜する幾つもの想いを振り切るように視線を上げ、西の彼方を見つめる。
「あー、でも、このまま帰ったらお説教よねえ、きっと」
「――神祇頭や莫迦兄貴に怒られたって、別にどうってことないけどな」
「――お母様に泣かれるのは、嫌ですわね」
「――あいつら、ひきょーもんだから、詩子たちにお説教する時は、絶対にお母様を引っ張り出してくる。ほんと、鬱陶しい」
「同感よ」
意識を失った随身の傍に膝を揃えて座り、袂から取り出した手巾でとりあえず傷を縛りながら、九条紫は溜息を吐いた。
「柾木には手当てが必要だし、奈子のお弔いもしたいし。ほとぼりが冷めるまで、毘山にでも匿ってもらおうかしらね」
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