59 大人の責任ー2

「三朗‼」


 三朗が落ちるのを見た二緒子が、水を放って受け止めようとする。

 だが、もう手は震えるばかりで神剣を顕現させることはできず、神力ちからかたちにならなかった。


「『伯王はくおう』!」


 そこへ、数馬の声が飛んだ。

 本人はもう動けない様子で地面に両手両膝をついていたが、三つ目の狼は主の命令に応じて、半分薄らと消えかけた姿ながらも、上空へ身を躍らせ、落下する三朗の下へ、上手く位置を調整した。


 だが、地上の者たちがホッとしたのも束の間、三朗は三つ目の狼の背で勢い余って大きく跳ねてしまい、再び明後日の方角へ飛び出してしまった。


「あ」

「三朗!」


 数馬が息を詰め、二緒子の悲鳴が轟く。

 その横で、清十郎が地を蹴った。最後の力を振り絞るようにして自分自身の身体を地表に滑らせ、地上に激突する寸前で三朗の身体を受け止める。


 あの高さから落ちたものをただ受け止めたら、如何に真那世まなせでも、双方ともに大怪我を負ったに違いなかった。

 だが、三つ目の狼に一度受け止められたおかげで勢いが削がれ、互いに致命傷は免れたようだった。


「あ、りがとうございます」


 墜落の衝撃でぐらぐらしている頭を片手で抑えながら、三朗は礼を言って、顔を上げた。


「三朗!」


 そこへ、こけつまろびつしながら、二緒子が駆け寄ってくる。三朗の肩を掴み、重篤な怪我がないことを確かめると、ホッと息を吐いて、傍らで立ち上がった清十郎と、少し離れたところにいる数馬とに、順に深々と頭を下げた。


「――礼は要らぬと言った」


 小さく呟いて、数馬が息を整えながら立ち上がる。傍らに戻ってきた三つ目の狼のたてがみを、ねぎらうように軽く梳いてから妖珠ようじゅに戻し、顔を上げた。


 揃って見上げれば、ちょうど朱鳥あけとり大神たいしんが、大気に溶けるように消えて行くところだった。

 同時に、上空に滞空していた白鹿の『使』が、ばさりと翼をはためかせて、首を返した。


「引き上げることにしたみたい」

「――うん」


 二緒子がほっと息を吐く。

 それを聞きながら、三朗は、自らの手に視線を落とした。


 そこには、人体を斬り裂いた時の感触が、まだ残っていた。

 重く。冷たく。


 その手を握り込んで、顔を上げる。

 翼を持つ白鹿が、西の空の彼方に消えていく。その姿は、うっすらと明け始めた空の中、急速に雲に紛れて、極小の影になっていく。


「逃がしてしまいました――」

「いや、あれで十分だったと思うぞ」


 小さく呟くと、清十郎が言った。


「あのお姫様に攻撃の続行を諦めさせ、撤退させることができたんだからな」

「そうでしょうか」

「いい判断だったし、良い動きだった。だが、その年で、人殺しの罪科など背負うことはない。命を奪わずに勝てるなら、その方がいいに決まっている」


 三朗は視線を上げ、まともに言葉を交わすのは初めての相手を見上げた。

 斗和田で、あの一也と対等に戦ったという八手一族最強の戎士。

 だが、そんな肩書に驕る様子も、嵩にかかる様子もない。数馬が『傀儡』の術を解術した時に介助してくれた腕も、その後、三朗を道連れにしようとした青いうちぎの少女を止めてくれた手も、助けようとする真摯な意志以外、何も感じなかった。


「――ありがとうございます」


 人殺しの罪科ならもう背負っている――とは言わず、三朗は素直に礼を言った。

 それから、ハッと気付いて、慌てて視線を巡らせる。


「俺のことより、兄上は?」


 振り返ると、一也いちやは、瓦礫の山の一つに背を預けて、両足を投げ出すような恰好で腰を落としていた。

 傍には伊織が膝をついていて、最後の一戦で結局開いてしまっていた傷の手当てをやり直してくれている。


「大丈夫ですよ」


 二緒子と二人、急いで駆け寄ると、その伊織が、いつも通りの穏やかな声を返した。


「咄嗟に身体を捻って急所を避けていたようですから、命に別状はありません。安心して下さい」

「心配をかけたな」


 一也も顔を上げ、三朗を見返してくる。

 確かに顔色は青白いままだが、伊織の手当てのおかげか、二緒子の『癒し』が功を奏しているのか、表情も呼吸も落ち着いているようだった。

 それを確かめて、ホッと息を吐いた時だった。


「若あっ!」

「組長‼」


 背後で、複数の声が弾けた。

 振り返ると、積み重なっている瓦礫を乗り越えて、十を下らない人影が、全てが終わった戦場に駆け込んでくるところだった。


「若、ご無事でしたかっ!」


 その先頭で一際大きな声を張り上げたのは、黒と灰色の市松模様の直垂ひたたれを纏った、鬼堂興国おきくにと同世代の男だった。

 しっかりと張った肩に、均整の取れた長身。術者というより、古武士という言葉の方が似合う風貌である。


「――誰?」

葉武はたけ平九郎へいくろう様よ」


 問いかけた三朗に、二緒子が小声で応じた。


「数馬様の傅役もりやくで、主公とは乳兄弟の幼馴染なんだって。朧月ろうげつ様に並ぶ側近中の側近ね」

「あの人が? でも、その割に、あんまり見たことない気がするけど」

「そうね。私も、去年、の国まで行った『役』でお会いしただけだわ」


「あの方は、年の半分は、その誌の国においでなんですよ」


 伊織が言った。


日興にっこう山地から流れ出る絹川きぬがわ沿いに、鬼堂家の領地の中でも一、二を争う、豊かで広い土地があります。月出つきいでというのですが、そこの管理と運営を任されておいでなのです」

「へえ……」

「数馬様の育ての親だけあって、黒衆の中では我々にも配慮して下さる方の術者ですよ。といっても、我らをあくまで道具、格下の生物と見なした上での配慮ですが。名刀も手入れを怠れば鈍らと同じ。撲るだけの飼い主には、猟犬とて従わない――と、よく言っておられましたからね」


 どこかで聞いた言葉だと思いながら視線を向けると、その葉武平九郎が一足飛びに数馬のもとへ駆けつけ、がばり、とその場に平伏するところだった。


「よくぞご無事で! 真垣まがきの町に入ったところで城が吹き飛ぶ様を見た時は、冗談事ではなく寿命が縮まりましたぞ!」

「葉武、大吾だいごは?」

「ご安心を。ちゃんと指示された通り結界を張って、お館様を護り抜いておりました。今は、あちらに張った仮陣に居ります」


 恭しく一礼して、瓦礫の向こう、ぎりぎり崩壊せずに済んでいる対屋の一つを指差す。


「奥方様と兵馬ひょうま様もご無事です。お館様は後頭部と額の両方にこぶを作られているだけですし、朧月のじじいも、残念ながら命に別状はございません。ま、これで少しは大人しくなることでございましょう」

「後頭部と額に、こぶ……」

「些か記憶が混乱しておられるようで、どうしてそうなったのか、わからない様子でいらっしゃいましたが」

「どうして、そうなったか……」


 繰り返した数馬の視線がちらっとこちらに流れたような気がして、三朗と二緒子は、反射的に肩をぶつけ合わせるようにして横に並び、自分たちの身体で兄を隠した。

 その必死の様子に、数馬の眉目に微かな風が吹いた。


 ***


「何か?」

「――いや、何でもない」


 ごく自然に水守家の兄弟から視線を外すと、数馬は、幼い頃から傍に居る傅役を見やった。


「それより、葉武」

「わかっております! 不届き者を捕らえるのですな! ただちに追手を繰り出します!」

「いや、それはいい」


 勢い込んで今にも走り出しそうな男に、ゆるりと首を振る。


「下手に追えば、返り討ちに遭うだけだ。私に退き時だけは絶対に見誤るなと教えたのは、其の方だろう?」

「左様でございました」


 つんのめるようにして立ち止まってから、葉武平九郎は悔し気に西の空を見上げた。


「どうにもこうにも、九条青明の名を聞いては、やはり虚心では居られませんで」

「央城で、鬼堂家と九条家が争うことになった際、父上が母君を亡くされたように、其の方も父君を亡くされていたのだったな。何十年経とうと、家族を理不尽に奪われた記憶は、色褪せないものか」

「当然のことにございます」

「そうか。――そうだろうな」


 数馬の視線が、一塊になっている水守家の三人と八手一族の二人に向けられる。


「自分のことであれば、皆、そうなのだ。父上も、朧月も」


 ならば何故――という言葉は飲み込んで、小さく頭を振る。


「とにかく、あちらもこちらの内情を色々と把握して行ったが、こちらも期せずして九条家の情報が色々と手に入った」

「ざっとはお聞きしましたが――自分から真神の『使』のことまでべらべら喋り立てるとは、何とも愚かな娘にございます」

「――子供なんだ」


 呆れたように肩を竦めた葉武平九郎に、数馬は微かな声で言った。


「私には、其の方や大吾が居てくれた。だが、あの姫には誰も居なかったのだろう。強大すぎる力と独りぼっちの未熟な心が結びつけば、ああいうことにもなる」


 だが、この先はどうだろう、と思案する。


 三朗がとどめの刃を振りかざした時、褐衣かちえ随身ずいしんが割って入る様を、数馬も地上から見ていた。その後、天を覆うほどだった少女の狂気じみた執念が急速に窄まり、撤退を選択した。


(もし、今からでも、あの少女が正しい導き手を得るなら)


 数年もすれば、鬼堂家にとって真に恐ろしい強敵となって、舞い戻ってくるかもしれない。


「――だとしても、父上は、九条家への報復と央城での復権を、諦めはしないのだろうな」

「それは勿論、ご先代様から受け継がれた悲願にございますから」

「であれば、こちらも体制を立て直す必要がある」


 退く者を深追いしている場合ではない。


「今回はここまでだ。城一つと大勢の武士や術者、それに、五番組の半数の命と引き換えにするには少々足りないが――どこかでは、区切りをつけなければならない。それを為すのが、私の責任だ」


 冷静に言い切って、ぐるりと周囲を見渡す。


「今やるべきは、ここの後始末と怪我人の救護だ。術者や武士だけではなく、戎士たちにも医薬や布、水を回せ」

「はっ!」


 これが嶽川朧月なら、戎士など後回しでいい、とでも言ったかもしれない。

 だが、葉武平九郎は反論することなく、むしろ頼もし気に頷くと、立ち上がった。

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