第五章 央城へ
28 凶神の足音ー1
新月の夜だった。
ざく、ざく、ざく。
規則正しい鋤の音が、一寸先も見えない夜闇の中に響いている。
やがてそれが止まると、今度は、地面の上を、重いものを引きずりながら運ぶ足音が、その場を何十度と往復した。
それも終わると、再び鋤の音が響き始める。今度は、先ほど掘り返した土を、元に戻しているような音だった。
「――ふーい、やっと終わったわい」
やがて、乾いた風の中に、背伸びをする音と、ぽきぽきと骨を鳴らす音が重なった。
「遂に、五十か所目。我ながらようやったものだ」
幽かな星明りが、とんとんと肩を叩く皺だらけの手や、頭の上で小さな髷に結われている白髪、薄汚れた白麻の
推定で七十歳そこそこの老人である。逆三角形の細い顔には皺が刻まれ、手足も細いが、背はまだ丸まってはおらず、動きも矍鑠としている。
そして、その細い目の中では、老いによる無気力などとは無縁の強烈な意志の光が、爛々と輝いている。
「――やっと見つけたぞ」
その背後に、別の人影が立った。
砂色の
「おや、
振り返った老人が、意外そうな表情を顔中に広げた。
「いつ、こっちへ?」
「
「ご主君のお供で?」
「当然」
頷いてから、男は、じっとりとした目つきで老人を見やった。
「お前を探して、聞いていた隠れ家を順に訪ねたら、結局、五か所全部回る羽目になった」
「そりゃあ、面倒をかけたのう」
「おまけに、何だ、アレは」
「アレとは?」
「五か所目で留守番をしていた奴だ。話も聞かず、いきなり攻撃してきた。俺でなければ、死んでいたぞ」
「ああ、
「茶? 相変わらず、贅沢なものを飲んでいるな」
「ほっほっほ、わしの唯一の楽しみだでな」
年齢の割に歯が残っている口を開けて笑うと、老人は先ほどまで使っていた鋤を肩に担ぎ、先に立って歩き出した。
連れ立って丘を一つ越え、林を抜ける。
その先の荒れ地の一角に、小さな
屋根瓦は半分以上落ちているし、土台は斜めに傾いている。そして、その周囲一帯の土壌は大きく抉れ、倒木が折り重なり、大きな岩が転がっている。
「大水の跡か?」
「おお。数年前、大雨が続いて、この先の川が溢れてな。あのお堂以外、集落も畑も人も、みな押し流されてしまったのよ」
「道理で、どろどろとした嫌な空気が澱んでいる」
周囲を見回してから、男は、肩を竦めるようにして老人を見やった。
「お前の『
「ほっほっほ、使えるものは何でも使う。それがわしの持論だでな」
男の口調には若干の嫌味が混じっていたが、老人は気にする風もなく、からからと笑った。
荒れ地を横切り、堂宇の前に出る。
「
ざっと検分して、男が言った。
「
「そうだよ。村があった頃は、ちゃんと住職もおったらしい」
その堂宇は高床で、短い階段が地面から正面扉に向かって伸びている。小さいが、土台からきちんと建てられたとわかる、しっかりした造りだった。
「話には聞いていたが、こちらでの高台宗の勢力は凄いものだな。こんな山奥の村にまで、こんなちゃんとした寺があるとは」
「
話しながら、老人が階段を登り始める。
男も後に続いたが、すぐその足元で、ばきっ、という音が響いた。
「壊すでない」
「そう言うなら、踏板ぐらい補強しておけ。腐っているではないか」
ぶつぶつ言いながら、男は、割れた踏板に突っ込んでしまった足を引き抜いた。
「――ん?」
そこでふと顔を上げ、すん、と鼻を鳴らす。
「死臭がする。先に来た時は、感じなかった」
「んん? ということは、帰ってきおったか」
頷いて、老人は堂宇の表の、半分傾いている扉を押し開いた。
途端に、濃い血の匂いが、むわりと立ち上った。
「やれやれ、やっと戻ってきたと思ったら、まだ喰っておるのか?」
呆れ声を上げながら、老人が中に入っていく。
後に続いた男は、入り口で足を止めて、流石に少々顔をしかめた。
堂宇の奥には、小さくとも
「いやはや、高台宗の法師たちが見れば、卒倒するな」
男の述懐も然りである。
その須弥壇の前、内陣に当たる場所に、人間で言えば子供ぐらいの大きさの黒い影が、うずくまっている。
むせかえるような生臭い匂いと共に聞こえてくるのは、ガツガツガツ、と肉を
死霊や怨霊の類でも裸足で逃げだすようなおぞましい音の数々が、新月の夜闇をますます濃くしていく。
「あーあー、ここへ『餌』を持って来るなと、あれほど言ったのに」
灯り一つ持っていないにも関わらず、老人もまたその惨状を的確に見て取ったらしく、肩を竦めた。
「しかも、若い女ではないか。どこから攫ってきた?」
「山向こうの村です」
老人の問いに答えたのは、『食事』中の黒い影ではなく、その背後に立っている長身の人影だった。
二十歳そこそこの女である。
硬そうな赤茶けた髪を首の後ろで一つに束ね、獣皮で作ったと思しき袖のない膝丈の衣を纏って、腰を紐で縛っている。その紐に括りつけてあるのは剣でも太刀でもなく、刃が大きく反り返った形をしている短刀だった。
「夫と二人暮らしで、子供は居ない様子だったので、まあいいかと思って。
「やれやれ――夫の方はどうした?」
「那岐良がその場で完食しました。女の方もその場で食べてしまえたら良かったのですが、多宝丸の『声』が聞こえたので」
「ああ――なるほど」
老人が、背後の男を振り返った。
「見知らぬ男が隠れ家に来た、と呼んだのだな。それで急いで戻って来たが、女もついでに持って帰って来て、ここで喰っておったという訳か」
得心したように頷いてから、視線を戻す。
「その場で喰ったという男だが、ちゃんと後始末はしてきただろうな、那岐良? 熊と間違えられるぐらいならまだしも、人食いの
「してきたんだろうな、
老人は影に向かって問いかけたのだが、当の本人は顔も上げず、老人の最後の言葉だけを、傍らの女に向かって居丈高に投げつけた。
「ちゃんとやりましたよ」
それに、女は、子供をあやすような口調で応じた。
「
「お前がそれでいいなら、わしは構わんがな」
肩を竦めた老人が、視線をその背後に向ける。
「で、多宝丸、先に来たというのは、後ろにいる男だろう? あれはわしの知己だで、顔と気配をようく覚えておけ。二度と襲うでないぞ。お前と高槻殿がまともにやり合ったら、この堂宇どころか、辺り一帯が吹っ飛んでしまうでな」
声を掛けた先、樹梨と呼ばれた女の背後には、巨大な影が黒々と浮き上がっていた。幅も高さも人間を遥かに凌駕する大きさで、先端は、殆ど堂の天井に届いている。
「ええト、多宝丸、襲っちゃいけない人、襲っタ? なら、ごめんなさイ」
だが、返った声は、小さい方の影のそれとは違い、素直で従順な響きを持っていた。
「高槻殿――お久しぶりです」
女の方も、視線を老人から背後の男に向けると、無表情ながらも丁重な礼を取った。
「こちらへいらしていたのですね。弟が失礼をしたなら、申し訳ありません」
女の語尾に、背後の巨大な影が小さく揺れる動きが重なる。どうやら、頭を下げたらしい。
それと悟って、男は苦笑するしかないという表情を浮かべた。
「お久しぶりだ、樹梨殿。多宝丸の方は、初めまして、だな。
「高槻――ああ、アナタが、あの」
多宝丸が納得したように、再度、影を揺らした。
「道理で、強イ。多宝丸の脚も、全部躱しタ。納得」
無邪気な声と共に、巨大な影が左右に揺れる。その中で、タコかイカのような巨大な脚が数本、ぐねぐねと動いて床を踏み鳴らした。
「やめんか、多宝丸。床が抜ける」
慌てて宥めてから、老人は客の男を手招き、横の壁際に向かった。
「では、紹介が済んだところで、茶にしようかの」
そこにはどっしりとした火鉢が置いてあり、脇には鉄瓶が控えている。その横には、縁の欠けた茶碗が幾つかと、どう見ても貴族ものの、樺細工の茶筒が置かれている。
「ちょっと待て。この腐った血と臓物の匂いの中で、茶を飲めというのか?」
「気にするな、高槻」
辟易したように言った男に、食事中の那岐良が言った。
「俺は、茶の匂いなど、気にしない」
「そりゃあそうだろうな……」
「だから、遠慮なく、飲め」
「お前は少し、配慮という言葉を学ぶべきだな」
うんざりと首を振って、男はふと表情を改め、肩越しに背後を振り返った。
同時に、樹梨も顔を上げ、開け放したままだった堂宇の表扉の向こうを見やった。
「道全、誰か来るぞ」
「道全様、この霊気は、甥御様です」
「ほほう? 今宵は千客万来だな」
同時に上がった声に、老人は面白そうな顔になった。
「高槻殿、樹梨の方へ。すまんが、ちいと静かにしていてくれよ」
頷いた男が軽く跳躍して、女の横に立つ。
同時に、老人は胸前で右手の指を小指から順番に折っていき、拳になったところで、ひらりと手首を返した。
ゆらり、と空間が揺れて、目に見えない壁が出現する。それが、瞬時に老人以外の全員を囲い込み、覆い隠した。
「――伯父上、道全伯父上、居られますかな」
直後、表扉の向こうから、そんな声が掛けられた。
「居るぞ」
老人がのんびりとした声音で応じると、堂の傾いた床に影が差す。
最初に顔をのぞかせたのは、松明を掲げた
その後ろから、四十代後半の男が現れる。頭には烏帽子、でっぷりと肥えた身体に纏っているのは
「――あれが、道全の甥?」
「亡くなった弟様のご長男だそうです」
結界の中から外を眺めながら問いかけた男に、女が答えた。
「央城
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