27 萩原征八と桧山辰蔵
八手一族の祖神、
山々の雪解けが進み、梅の花がほころび始めたある日。
その神社の裏手にある小さな
先には、四方を竹垣で囲まれた小さな草庵があり、その前は小さな畑になっている。
畑では、一つの人影が、黙々と鍬をふるっていた。
「
畑の縁をよちよちと歩きながら、現在の八手一族の最長寿である八十歳の老婆は、その人影に向かって声をかけた。
「昼餉を持ってきたぞえ」
だが、その人物は顔を上げることはなく、手を止めることもなかった。
四十代後半の角ばった体躯に、四角い顔と金壺眼。かつてその顎を覆っていた黒ひげは、綺麗に剃られている。切られた髪もかなり伸びてきていて、首の後ろで無造作に括られていた。
返答が無いのはいつものことなので、老婆は気にせず、片腕にぶら下げてきた藤の籠を、草庵の縁側に置いた。
中には、大ぶりの握り飯が四つと串に刺して焼いた
「
「これはこれは。ありがとうございます、
応じたのは、草庵の縁側に腰を下ろしていた、八手一族最年長の
「これは、酒ですかな?」
「いんや、薬湯じゃ」
徳利を指差して尋ねた男に、老婆はゆるりと首を振った。
「七日ばかり前、辰蔵が熱を出して倒れての。御館へ知らせをやったら、伊織の
「――それはそれは」
「幸い、ただの風邪じゃったようで、二日後には熱も引いたんじゃがな。坊は念の為と言うて、毎日薬湯を届けに来おるのよ。ま、今日までぶり返さなかったなら、そろそろいいだろうと言うておった」
そこで、老婆はちょっとだけ声を潜めた。
「実は、この虹鱒は、清十郎が届けに来たもんでな」
「おや、そうでしたか」
征八が、ふと目を細めた。
「けど、清十郎からと言うと辰蔵の奴は食わんから、内緒にしておいてくれ」
「わかりました」
征八は微かに苦笑した。
「ところで――」
老婆がふと畑の方を見やり、辰蔵の背で揺れている髪の束を眺めた。
「辰蔵は、そろそろ戻るのかの?」
「
「戎士組の半分以上が遠い
一瞬、老婆の眉目に、秋風のようなものが吹いた。
「何より、刑が終わらねば、この狭い草庵から出ていくこともできんし、おぬしのように御館に許可を取ってまで逢いに来てくれる者が居らねば、わし以外に話し相手もおらん。若い者には寂しかろうからの」
辰蔵は今年で四七なので、一族全体で見れば、決して『若い者』ではない。むしろ、征八同様、老境である。
しかし、一族内でただ一人八十の坂を越えた老婆からすると、自分たちですら『若造』扱いだ。ある意味、新鮮ではある。
「辰蔵の世話は、大変ではありませんでしたか?」
とうの昔に喪った亡母を思い出しながら、征八は苦笑交じりに問いかけた。
「愛想は無いし、気難しいし、昔はさほどでもなかったのに、奥方が亡くなった頃から僻みっぽくなり、
「ここではそうでもなかったぞえ。飯を作ってやって、時々一緒に畑をして、それだけじゃもの。むしろ、楽しかったよ」
ちんまりとした老婆の顔に、無邪気な笑みが広がった。
「そうそう、この草鞋も、辰蔵が作ってくれたんじゃ」
「ほう……、あいつが」
老婆が嬉しそうな表情で足元を指さし、征八は意外そうな顔でそれを眺めた。
ちょっとやそっとでは破れなさそうなほどがっちりと丁寧に編まれており、鼻緒の部分には、指の間に当たっても痛くないようにという配慮か、縄の上に布が巻かれている。
「そうですか……」
呟くように頷いて、征八は、まだ畑にいる男と、縁側に昼食の皿を並べている老婆を交互に見た。
***
「じゃあ、あとで白湯を持って来るでな」
そう言って老婆が立ち去っていくと、
鍬を縁側の一角に立てかけてから、客と並んで座ると、間に並べられている昼餉の品々を見る。
「やっぱり聞こえていたか? 大ばば様の声は、ひそめたつもりでもよく通るからな」
その目つきに苦笑して、征八は先に手を伸ばし、虹鱒の串焼きを取った。
腹側をがぶりと一口齧り、咀嚼して、ふむふむと頷く。
「いい虹鱒だ。獲れたてだな。大ばば様の塩加減と焼き加減も、相変わらず素晴らしい」
「……」
「不貞腐れていないで、おぬしも食え。せっかくの七尾の心づくしではないか。病み上がりなら尚更、栄養をつけんとな」
「――裏切り者の機嫌取りなど、食えるか」
顔を背けるようにして、辰蔵はぼそりと言った。
「俺を追い落としておいて――偽善者め」
「まだそんなことを言っているのか」
もぐもぐと口を動かしながら、征八は言った。
「清十郎はおぬしの過ちを正したかったのであって、排斥したかった訳ではない。あれも息子を持つ父親であれば、おぬしの絶望がわからぬ筈がなかろう」
少しだけ、口調に厳しいものが漂った。
「だからこそ、おぬしに立ち直って欲しいのだ。怒りや哀しみといった感情に敗けたまま、その眼を過去に向けたままで居て欲しくないのだよ」
「――大きなお世話だ」
辰蔵が横を向いた。
「わざわざ、そんな話をしに来たのか? よっぽど暇らしいな」
「そんな訳があるか。既に二番組は数馬様と共に央城へ向かって発ったし、わしと七尾、五十嵐も明後日には発つ。昨日までは準備やら何やらで、身体がいくつあっても足りなかったわ」
言いながら、征八は、虹鱒一尾を、頭から尾まで骨ごときれいに食べてしまう。
「その準備も概ね終わったから、一、三、八の戎士たちは、今日と明日は非番だ。皆、家族や大切な者たちと過ごしておろう。央城まで往復するだけで二か月弱――向こうで何があるかわからないとなれば、全員が生きて戻って来られるとは限らないからな」
「その貴重な時間に俺なぞの機嫌取りに来るとは、莫迦なのか?」
辰蔵が横を向いたまま言った。
「お前には、俺と違って、まだ家族が残って居るだろう」
「
淡々と応じて、征八は、魚が消えた後の串を皿の脇に置き、持参の竹筒を手に取った。
「息子と娘が斗和田で死んだ時、美津の心も死んだ。残っているのは、命だけだ」
「――生きているだけましだろう」
「泣くことも笑うこともなく、口に管を突っ込まれて水と最低限の栄養だけ胃に流し込まれて、ただ呼吸だけしていることが、生きていると言えるかな。わしは最近ようやく、
「おい――」
「だが、ならば、美津の人生は無意味だったか? わしの人生に価値はなかったか?」
竹筒の中身の水を一口飲み、高い空を見上げた。
「それは違うと、わしは思う。息子も娘も、一族の弱き者たちを護る為に精一杯戦って、死んだ。今でも、斗和田で危ないところを息子たちに救われたという若い者たちが、墓に手を合わせに来てくれる。息子たちに命を繋いでもらったから、この子が生まれて来ることができたと、新たな命の誕生を、泣きながら報告しに来てくれる者らも居る。そんな息子たちを育てたのは、わしと美津だからな」
「……」
「おぬしも同じだ。おぬしの五番組の生き残りたちのところにも、新たな子が何人も生まれておるのだろう?」
「……」
「わしもおぬしも、直系の子を護り、遺すことはできなかった。だが、同胞の子ら、孫らを護り、遺す手助けならできたのだ。わしらが三十四、五年に渡って戦い続けてきたことは、決して無駄でも無意味でもない」
だから。
「わしはそれを続けるよ。いつか『河』を渡る時、彼方の地で待つ息子たちに胸を張って逢いに行けるようにな」
「――お前は、強いな」
横を向いたまま、辰蔵は伸びて来た髪の毛先を摘まんだ。
「だから、俺にもそうしろと言うのだろう? そろそろ角髪に戻せる頃合いと見て、戎士として復帰しろと言いに来たのだろう? 央城――あの九条の化け物と相対するかもしれんというなら、俺程度の駒でも無いよりはいいだろうからな」
『九条』と呟いた瞬間、辰蔵の目の奥に、底深い恐怖が、そして、絶望が滲んだ。
「――確かに、戎士の数が増えて困ることはない」
それをじっと見つめて、征八はゆっくりと息を吐いた。
「水守の連中と違って、我らの力は個ではなく数にある。一つの現場に投入できる戎士の数が増えるほど、皆が生き延びられる確率も高くなる。だから、我らは、戎士の期限を、五十歳に達するか、もしくは心身に回復不能な障害を負った時のみ、と定めている訳だ」
「わかっている!」
辰蔵が、吐き捨てるように怒鳴った。
「俺はまだ四七だから、断髪の刑期が終わったなら、あと三年は責を果たさねばならんと言うのだろう? お前が――無事に五十を超えて、引退を選んだとて誰も文句は言わないのにそうはせず、未だ前線に留まり続けているような物好きが、死ぬまで戦えと言って来るなら、そうするさ」
「確かに、断髪の刑は、切られた髪が角髪に結い直せるまで伸びれば、刑期が明けたと見なして良いことになっている。基本的には、な」
かたり、と音を立てて、竹筒を縁側に置く。
「基本も何も、他に何が――」
辰蔵が言いかけた時、音もなく立ち上がった征八が、縁側に立てかけられていた鍬を手に取った。
次の瞬間、それが、目にも止まらぬ速さで振り上げられた。
「⁉」
ぎょっと目を剥いた辰蔵が、反射的に両腕を胸前で交差させる。
そこに鍬が――刃ではなく峰の部分が、叩きつけられた。
異音が響き、悲鳴が上がった。
「――な、何じゃ、どうしたんじゃ?」
枝折戸のところで、狼狽の声が上がった。
囚人と客人の為に白湯を持ってきた老婆が、急須や湯呑を乗せていた盆を放り出し、よちよちとしか動かない足を懸命に働かせて、駆け寄ってくる。
素早く鍬を放り出して、征八は、縁側から転げ落ちた辰蔵を見やった。
「どうも立てかけておいた鍬が当たったようで、骨が折れたかもしれません」
「何と? それは大変じゃ」
立てかけておいたものが当たったぐらいで骨が折れるか――とは言わず、老婆は慌てて、片腕を抑えて呻いている辰蔵の肩を抱き起こした。
「辰蔵についていてやってくれますか、大ばば様。わしは御館へ行って、伊織に足労を願ってきますので」
入れ替わりに、征八が草庵の軒先を離れる。
「――っ、どういうつもりだ、征八‼」
その背に、辰蔵が罵声を浴びせた。
「不慮の事故により、今回の上洛におぬしの従軍は不可能。御館には、そう報告しておく」
振り返ることなく、征八は答えた。
「髪の長さだけが戻ったところで、おぬしの眼がまだ過去を向いたままなら、刑は明けていない。今しばらく、ここに居ろ」
「何だと……?」
「先月、あわや殺し合いとなりかけてまで、我らは未来に視線を向けることに合意したばかりなのでな。そこに、過去に囚われたままのおぬしを混ぜ込んで、伊織が流した血や一郎太の頑張りを無駄にする訳にはいかん」
「つまり、駒としてすら役に立たない――不要物、ということか? 七尾だけではなく、お前までもが、そこまで俺を莫迦にするのか!」
辰蔵の声が裏返る。
「確かに、
淡々とした征八の口調が、最後でふと変わった。
「我らが戦うのは、未来と希望の為だ。過去と絶望に追い立てられているだけの者は、確かに要らぬ。おぬしはここで、大ばば様と一緒に土を耕して、静かに暮らせ」
「なに……?」
「刑罰の結果とはいえ、誰かと共に暮らす感覚――悪くはなかったのだろう? おぬしも」
辰蔵の金壺眼が、小さく見開かれた。
衵の老婆の方は、目の前の会話など全く耳に入っていない様子で、辰蔵の折れた腕に添え木を当て、袂から取り出した手ぬぐいをぐるぐる巻きつけて、懸命に固定しようとしている。その姿は、怪我をした子供の苦痛を少しでも和らげようと必死になっている、母親の姿そのもののだった。
しかし、病や事故、『役』での戦死などが続き、五、六年ほど前までに、老婆の子供たちに孫たち、果ては最後に残っていた曾々孫までが、全て喪われてしまった。
以来、老婆は一人で神社に隣接する居宅に住み、神社の燈明を守り続けている。一族の同胞たちは、そんな彼女を敬い、気遣いもして、日中は里の女や子供たちが交代でやって来ては、境内の掃除や洗濯などを手伝っている。
だが、それはあくまで、手伝いの域を出ない。
神社と草庵とに分かれていても、すぐ近くに存在を感じながら、二年近く誰かと生活の一部を共にするというのは、老婆にとって随分と久しぶりのことだった筈だ。
そして、それは、斗和田で一人息子を喪って以来、里内にある自宅でずっと独りで暮らしていた辰蔵も、同じだったのだろう。
「身体の傷も心の傷も、癒える速度は人によって違うもの。おぬしには、まだ考える時間と、その為の明るい場所が、必要なのだろう」
辰蔵の目から、怒りと混乱が抜け落ちた。
「征八、お前……」
「
それだけを肩越しに告げると、征八は、呆然となった僚友の眼差しを見返ることなく、歩き出した。
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