26 流される者、抗う者ー7

「親父殿――」


 一郎太いちろうたが息を呑む。


「長十郎兄上……」


 伊織が呆然となる。


「いつの間に、ここまで……」


 甲斐源七郎が呻いた。


「長十郎殿はお疲れなのじゃ」


 溜息と共に、旭子あきらこが長十郎の横に寄り添った。


「当たり前じゃろう。瑞穂みずほに続いて宗次郎殿まで喪われた。まして、本来なら、誰より気持ちを同じくし、行動を共にし、最大の味方であるべき最後の弟が、綺麗事を振り回して反抗ばかりするとあってはな」


「全くだ。お前の所為だぞ、伊織」


 旭子の反対側から、多生禮二郎たきれいじろうが近づいた。

 息子や弟から顔をそむけたままの長十郎の肩を叩きながら、険のこもった眼差しを伊織へと投げつける。


「さんざん長十郎殿を悩ませ、苦しませおって。桧山ひやまの件では口出しをしないだけの分別があったようだが、と言って、七尾を諭すでも縁を切る訳でもない。先代が死んだ後、親代わりに育ててもらいながら、『敵』の肩ばかり持つとは、恩知らずな話よな」


「私、が……?」


 伊織の瞳孔の奥で、焦点が窄まった。


「私の所為、だと……?」


「そういうことだ。弟としても医薬師としても失格よな!」


 それは、ただ、相手を傷つける為だけに吐かれた雑言でしかなかった。

 普段の伊織なら、気に留めることなく受け流したことだろう。

 だが、真っ黒な闇に、心どころかたましいまで塗りつぶされてしまっているような長十郎の無表情を見てしまった後では、出来なかった。


 ざくりと表情がひび割れる。

 失血とは別の理由で顔から血の気が引き、同時に、ぐらりと上体が傾いた。


「伊織!」


 ハッと手を伸ばした源七郎がその肩を受け止め、支えた。


「ったく。やせ我慢はここまでだ」


 苦い表情で首を振ると、左手で伊織を支えたまま、右手の人さし指の先に神力ちからを集めた。


「とりあえず、止血する。お前ほど上手くは縫えんから、あまり酷かったら、あとでやり直してくれ」


 言いながら、『繰糸くりいと』で、胸部に刻まれていた複数の傷を縫合し始める。


 伊織は答えない。意識は保っているが、眼差しは虚ろで、『繰糸』が肉をくぐっても、無反応だった。

 肉体の痛みなど感じていないからだ。おそらくは、それを上回る、もっと大きな心の痛みの所為で。


「伊織様……」


 そのあまりに惨い様子に、三朗と二緒子におこは、とうとうこらえ切れなくなった。

 目を見交わし、無言で相談を成立させると、同時に飛び出す。


「お手伝いします」


 一声かけて、三朗が源七郎の反対側から伊織を支える。

 二緒子が、傍らに両膝をついて、その身に両手をかざす。素早く術式を組み上げて、神経を麻痺させて痛みを軽減させる神和かんなぎ一族の霊能の技、『癒し』を発動させた。


「――おい、何をしている」


 副長の一人が、尖った声を上げた。


斗和田とわだの霊能の技だ。以前、組長を助けてもらった。数馬かずま様のお墨付きだ」


 三朗が何を言うより早く、目の前に、二番組副長の伊吹椎菜いぶきしいなが立った。端的かつ早口に説明を並べて、不審を向けて来た同僚を黙らせる。


 まさか彼女が庇ってくれるとは思わなかったので、三朗は勿論、二緒子も驚いた。源七郎も意外そうな顔をしていたが、特には何も言わなかった。


 そして、一郎太は、伊織が倒れかけた時にハッと振り返って、その光景を見ていた。

 その眸に、一つの波紋が広がる。

 小さく、だが、深く。


「あの光景を見ても、あんたたちは、水守のみんなが『敵』だと思うのか?」


 ぎり、と奥歯を鳴らして、視線を上座に戻す。


「さっき、叔父上は、親父殿の『味方』だと言った。ずっと、水守家のことは、敵だの味方だのじゃない、正義や倫理の話だと言い続けていた叔父上が、初めてその言葉を使ったんだ。その気持ちが、本当にわからないのか?」


 両手を広げて、崩れかけた叔父の前に出、悪意に満ちた年長者たちの視線を自らの身体で遮る。


「同胞だからと言って、必ずしも全員が同じ気持ち、同じ考えである必要はない筈だ」


 全員が同じ方向を向いて突っ走っていくだけでは、それが間違った道だった場合、止める者が居ない。

 その先にあるのが断崖絶壁なら、揃って奈落の底に真っ逆さまだ。つい先ほど、正にそうなりかけていたように。


「それを止めてくれたのは、あんたたちが言うところの叔父上の『綺麗事』であり、それに応じてくれた水守殿のおかげだ。それがわからないあんたらに、叔父上のことをとやかく言う資格は無い!」


「目上の者に対して、何という口の利き方だ‼」


 最低限の敬語すらかなぐり捨てた怒号に、禮二郎の顔が赤黒く膨れ上がった。


「愚か者め! 人間が支配する今の世で真那世が生き延びていく為には、皆が気持ちや考えを合わせて結束することが、何より必要なのだ。違う気持ちや考えなど、一つたるべき一族を割る害悪にすぎん!」


「考えを擦り合わせるのは大事なことに決まってる! けど、あんたはいつだって、自分が考えることばかりが絶対に正しいと思っている!」


 だから、違う気持ちや考えに出会うと、議論で擦り合わせるのではなく、『敵』と決めつけて攻撃し、叩き潰そうとするのだ。


「しかも、あんたが一度『敵』と見なせば、旭子叔母上を始め、太鼓持ちの連中が寄ってたかって攻撃の追従をやるんだから、それで沈黙させられる者だって多いんだ‼」


「それがどうした。まだ現実を知らぬ半人前や、現実を見ずに綺麗事ばかり追いかける夢想家の若造などに、一族の命運を委ねられるか。我らがしっかり手綱を取り、道を示してこそ、一族の未来を安泰せしめることができるのだ!」


 多生禮二郎は、二十歳そこそこで多生家の家督と上役の席を継いでいる。


 それはつまり、実に三十年近くに渡って、上役の責を担い続けているということだ。

 就任当初こそは最も若かったが、十年もすると周囲の代替わりが進んだ為、早くに最年長の上役となった。先代の族長が早世した折は、十七歳で重責を継ぐことになった長十郎の後見となり、その声の大きさと意志の強さで一族を一つにまとめ上げてきた。


 だから、禮二郎には、ここまで一族を導き、護り通してきたのは自分だという強固な信念と自負がある。それは、歳月と実績に裏打ちされて、もはや金剛石よりも固く凝っている。

 会合が始まってから今まで、この場で多くの者たちが重ねた言葉――同世代の萩原征八や同じ上役である斉明寺要さいみょうじかなめの言葉ですら、その頑なな表面に全て跳ね返された。


 ならば、伊織はもとより、まだ予備役に過ぎない十四歳の一郎太が、激情だけで太刀打ちできるようなものではないのも、当然と言えば当然だった。


 一郎太は口をつぐみ、視線を巡らせた。

 上座に立ち尽くしたまま、弟からも息子からも顔を背け、穴の空いた双眸を虚空の一点に凝らせている父親を、けつくような眸で見つめる。


「――わかった」

「やっとか?」


 少年がこぼした吐息に、禮二郎が余裕を回復した表情になった。


「ならば、詫びて引っ込め。分を弁え、後は、薫子かおるこの為、一族の為、己れが為すべきことだけを考えておれば良い」


「いいや。『わかった』のは、あんたや今の親父殿に対して、言葉は無力だってことだ。だから、行動することにする」


 一郎太の表情と口調に、決然としたものが漂った。


「三朗と二緒子殿を先陣に出し、末っ子を伊織の叔父上に預けてくれるなら、水守殿は鬼堂家だけじゃなく俺たちに対しても、二重の意味で人質を出すことになる。俺は、家族を想っての忍耐を理解も思いやりもせず、ただその上に嗤いながら胡坐を掻く鬼堂の主公のような真似は、死んでも御免だ」


 だから。


「今回の上洛が無事に片付くまでの間、俺が水守家に人質に出向くことにする」


 伊織が弾かれたように顔を巡らせ、一也いちやがふと双眸を細めた。


 一郎太の発言の意味を即座に理解したのは、その二人だけのようだった。

 他の者たちは、誰も彼もが呆気に取られている。

 それは、三朗と二緒子も同じだった。


「俺たちのところに、人質?」

「俺は二番組だから、ちょうどいいだろ?」


 伊織の肩を支えたまま、思わず視線を巡らせた三朗に、一郎太は平然と応じた。


央城おうきに行って戻って来るまでの間、俺は金魚のフンみたいにお前と二緒子殿にくっついて歩くことにするから。万一、一族の誰かが弟を無体に傷つけようとしたり、一方的に利用しようとしたりすることがあったら、俺をふん縛るなり手足を叩き折るなりして、親父殿に対する交渉材料に使ってくれ」


「はあっ⁉」


 唖然となった三朗と二緒子の周囲で、八手一族の全員が、先刻の比ではなく大きく揺れた。


「自発的にくっついて回る人質っすか?」

「それって、人質っていうの?」


 杜戸慎介が面白そうな顔をし、直江郁太郎なおえいくたろうが呆れたように首を傾げた。


「気でも違ったのか⁉」


 長十郎の双眸が、眼窩から飛び出しかねないほど見開かれた。


「薫子の命運もある意味では水守に握られているというのに。お前まで? ふざけるのも大概にせよ!」


「ふざけてなんかいない」


 ようやく自分に戻って来た視線を、一郎太は過たず捉えた。


「さっき、多生様が言ったことだ。姉上の為、一族の為、為すべきことを考えろ、と。だから、俺はそうするまでだ」


「それは、一戎士じゅうしとして、命じられた責務のみを果たせということだ! 余計なことを考える必要はない‼」


「親父殿はそう言って、伊織の叔父上のことも遠ざけるようになっていたよな。余計な口出しをするな。医薬師としての責務だけを果たしていればいい、って」


 怒りではなく痛みを滲ませた眼差しで、肩越しに背後を振り返る。


「けど、そうやって、考えが違うからって伊織の叔父上を遠ざけて、多生様や旭子叔母上や――要は同じ考えの者たちとばかり話をしていたから、親父殿はどんどんどんどん暗い方へ、冷たい方へ、押し流されていってしまったんじゃないのか?」


 周囲に怒りと憎しみを語る者しか居なければ、そればかりが増幅されていく。

 不信と恐怖しか語る者が居なければ、それに煽られた思考が行きつく先は、確かに、支配か排斥かになってしまうだろう。


「俺は、親父殿が、祖父じい様を亡くしてから今まで、ずっと鬼堂きどうの主公の矢面に立って、俺たち家族と一族を護り続けてくれていたことを、知ってる」


 一郎太の顔に、一瞬、今にも泣きだしそうな表情が滲んだ。


「だから、俺たちが、今ここにこうして生きているのは、親父殿がずっとずっと辛い想いをしながら頑張ってくれていたおかげだって、ちゃんとわかっている」


 生真面目で責任感の強い人だと、宗次郎も伊織も口をそろえて言っていた。

 だからこそ、長十郎はその責任感のままに、この世界の冷たさや残酷さに生真面目に相対し続け、そして、追い詰められていったのだ。


「その所為で、今の親父殿が、どうしても水守殿とまともに話ができないというなら、俺が代わりに話す。かつて殺し合った相手からの敵意や悪意は信じられても、好意や善意は信じられないというなら、俺が代わりに信じる」


 嫌なことがあって暗いところに引っ込んでいても、余計に暗くなるだけなのだ。

 だから、そういう時は、無理やりにでも明るい場所へ行くべきなのだ。


 どんなに世界が真っ暗だと思っても、探せば一つぐらい、光というものは見つかる筈だから。


「俺が、親父殿を連れ出す。その暗くて冷たい場所から。必ず」


 長十郎が黙り込む。


 伊織や一郎太の言葉を否定はしても、聞こえていない訳ではないし、届いていない訳でもない。


 それを確認して、一郎太は踵を返した。

 顔をしかめている禮二郎や旭子、唖然としている組長たちや副長たちの間を通り抜け、源七郎と三朗に支えられて膝をついている伊織の傍らに立つ。


 壁際から、薫子が、そんな弟をじっと見つめている。


「今更ですが、初めまして、水守の御当主」


 八手一族だけではなく、三朗と二緒子も息を詰めて見守る中、片腕に四輝しきを抱え、もう片方の手に未だ神剣を顕現させたままの一也に真正面から向き合い、丁寧かつ毅然と、頭を下げた。


「直接ご挨拶するのは初めてだと思います。針生はりう長十郎が嫡子、一郎太です」


「初めまして」


 一也が、興味深い眼差しで少年を見つめ、答礼する。


「確かに、お言葉を交わすのは初めてですね。しかし、お噂は聞いています」

「きっといい噂じゃないでしょうね。毎日絵草紙ばかり眺めてだらだらしているとか、学堂じゃ座学も武術の鍛錬もさぼってばかりだったとか、そんなところでしょ?」

「三朗から聞いていたのは、あなたは理性的な方だと思う、という印象だけです」


 一也がちらりと笑った。好意的な笑みだった。


「そして、私も、そう思います」

「――光栄です」


 小さく表情を揺らしてから、一郎太は下げていた頭を起こし、頭一つ分ほど上から注がれる一也の視線を、臆さず捉えた。


「俺たちは、水守殿が今回の布陣を受け入れて四輝も預けてくれるなら、とりあえず主公の命令は果たせたことになるから、安心できる。水守家の方は、俺が人質になっていれば、まさか裏切るような八手一族は居ない筈だと、やっぱりとりあえずは安心できる。そういうことでいいでしょうか」


 そうして、互いに保証を取り合っておけば。


「央城で万一の事態が発生した場合も、余計な感情に足を取られて余計な時間を掛けることなく、協力体制を構築できると考えます。これなら、ごく一部を除いて信頼関係なんて皆無に等しい状況でも、同じ陣営の者同士で殺し合いになりかけるなんて莫迦なことは二度と起こらない、と」


 一息に言って、ぎゅっと両の拳を握り込んだ。


「人質を取り合うなんてやり方を押し付けるのは、あなたのような方にはきっと侮辱でしょうね。けど、今の親父殿や多生様たちじゃ、伊織の叔父上や甲斐組長がいくら現場で頑張ったって、いつまたいきなりちゃぶ台をひっくり返すか、わからないから」


「かもしれませんね」


 特に怒ることもなく頷いて、一也がふと、目を細めた。


「しかし、あなた自身は、それで本当に良いのですか?」


 じっと一郎太を見据える。


「長十郎様が仰ったことは、あながち誤りではありません。確かに、私たちとあなた方の利害は、究極的には一致しない」

「なら、その究極が訪れないよう努力すればいい、と思います。そして、それは可能だと信じます。だって、あなたはもう先に、俺たちがあなたの大切なものを尊重する限り、俺たちの大切なものを尊重すると、言葉にしてくれましたから」

「なればこそ、万一の際は、遠慮は致しませんよ。それでも?」

「――はい」


 大きく息を吸い、吐いてから、一郎太はしっかりと頷いた。


「駄目だ‼」


 再び、長十郎の眸の奥で、抑えきれない黒い感情が泡立った。


「そんなことは許さん‼」

「任務先の現場での話だから、親父殿が許さなくても組長が認可すれば、問題ない」


「つまり、俺か?」


 平然と言った一郎太に、源七郎が肩を竦めた。


「そうだな……。予備役から昇格の新人で最年少とあれば、経験豊富な年長者を後見につけるのが定石だ。三朗も年齢的には同じだから、二人、いや、二緒子も含め、三人そろって俺が面倒を見よう。それでどうだ?」


「甲斐‼」

「勝手に何を決めている!」

「そんなことが、認められると思うてか!」


 長十郎が叫び、禮二郎と旭子が同時に怒鳴った。


「現場における戎士組の指揮権は、各組長に全面的に委ねられている」


 そんな二人の上役に、源七郎は冷ややかな眼差しを向けた。


「だから、これまで、あちこちの組で、水守家にばかり妖種ようしゅの相手を押し付ける、なんて采配もまかり通っていた訳だろう? あんたたちはそれには何も言わなかったのに、自分たちの都合が悪いとなれば、口出しをするのか?」


 ぐ、と長十郎が詰まった。


「長十郎殿」


 その長十郎に向かって、源七郎が、ふと口調を改めた。


「俺は、今の一郎太を、瑞穂や宗次郎に見せてやりたかった。そう思ったよ」


 源七郎の口からさらりと出された名前に、八手一族たちの空気が揺れた。

 先ほど長十郎がその名を口にした時もそうだったが、『宗次郎』の方はともかく『瑞穂』という名前には、やけに腫れ物に触るような雰囲気が漂う。


「あんたと宗次郎の背中を見て育った伊織の後を、今度は一郎太が追いかけ始めた。それは寿ぐべきことであり、誇るべきことだ。瑞穂ならきっとそう言う。違うか?」


 ただ、源七郎には、そのような雰囲気はなかった。ごく当たり前の、それも親しい間柄の存在を呼ぶ口調で、その名を繰り返す。


「大切な者を、自分こそが護らなければならないと思いつめて遠ざけるばかりでは、逆に苦しめることだってある」


 『共に戦ってくれるか』。

 護るつもりで遠ざけ続けた者が、本当はその言葉をこそ欲していたのかもしれないと。


「気付いた時には、手遅れになっていることだってある」


 視線が、一也と四輝に向けられる。ぱち、と揃って瞬いた兄弟に微苦笑を滲ませて、ふと声を呑んだ長十郎に視線を戻した。


「あの子のように、伊織も一郎太も、あんたと共に在りたいと願っている。その為に、あんたのになろうとしているんだ。重荷ではなく、な」


 怒りにも憎しみにも、不信や恐怖にも、もはや一人では耐えられなくなっている長十郎が、これ以上、そういった黒い感情に押し流されて行かないように、引き止めようとしている。

 絶望のそのまた先の虚無の深淵に、取り返しようもなく落ち込んでいかないように。


「一郎太のことは、俺が責任を持って預かる。だから、ここは、こいつらの気持ちや考えを、ほんの少しでも認めてやってはくれないか」


「いいんじゃないか? それで」


 上座の端で、ずっと同じ姿勢で座り込んでいた四人目の上役、東家とうけの針生軍兵衛ぐんべえが、のんびりした声を上げた。


「ふあーあ。ようやくまとまったようだな」


「――あの、軍兵衛殿?」

「――まさかと思いますけど」


 大きく伸びをし、欠伸をしながらの発言に、斉明寺要が信じられないという目を向け、杜戸慎介が胡乱な眼差しを向けた。


「この大騒ぎの中で、寝てたんすか⁉」


「いやあ、昨夜は甥たちと徹夜で賽子さいころをやっておったもので、つい、な」


 悪びれずに笑うと、針生軍兵衛は、八手一族ばかりか水守家の兄弟たちまでもが一斉に浮かべた、呆れとも憤りともつかない表情を見回した。


「いや、でも、話の肝はちゃんと理解しておるぞ。当たり前ではないか。その上で、俺は一郎太の提案に賛成だ」

「本家の嫡子が化け物どもの人質になる、などという世迷い事にか」

「それで、今度こそこの場が丸く収まり、御館みたちや里が戦場にならずにすむなら、易いものではないか」


 禮二郎の唸り声に、軍兵衛はあっけらかんと言った。


「いやあ、一時はどうなることかと思ったぞ。長十郎殿も多生殿らも、斗和田であれだけ死人を出したのに、まだ増やす気なのかと思ってな。まして、ここを戦場にするなど、正気の沙汰ではない。里の算盤を預かるわしとしては、人が減っても家や畑が潰れても、里の生産力がガタ落ちになるだけで何の益もないとしか言えんからなあ」


 誰もが、何とも言えない表情を浮かべた。


「軍兵衛殿、あなたが上役としてもう少し早くその意見を言ってくれていたら、ここまで揉めずに済んだのではないか?」


 萩原征八がおどろおどろしい声で言った。


「つーか、本当に寝てたんすか? 関わるのが面倒で、寝たふりをしていたんじゃ?」


 杜戸慎介が珍しく冷ややかな口調で言った。


「その追及は後にしよう」


 頭痛を堪える表情を浮かべながらも、最初に立ち直ったのは、斉明寺要だった。


「私も、賛成する。我らはかつて、我らの家族、同胞だけを護ろうとして、水守家の家族、同胞を踏みにじり、結局、斗和田で多くの仲間を喪うことになった。同じことを繰り返すべきではない」


 四人の上役の内、二人が同一意見を表明した。

 となれば、多生禮二郎と旭子が反対に回っても、二対二。

 決定は、族長に委ねられる。


 長十郎の双眸が揺れた。居並ぶ同胞たちを、弟と息子を、壁際の娘を見、そして、一度だけだが、確かに水守家の兄弟を見た。


『世界は広いんでしょ?』


 遠い記憶の中から、明るい声が聞こえた。


『だったら、どこかに、僕らと仲良くできる誰かが居るかもしれないじゃない』


 外の世界に、そこに居るであろう他者という存在に、不信や恐怖ではなく、興味と憧憬とを抱いていた、無邪気な笑顔。


 それを知っていたから。


『君たちとは、こんな形じゃなく、逢いたかったよ』


 長十郎には、その最期の言葉は、絶望にしか聞こえなかった。

 だからこそ、哀れで、辛くて、苦しくて、目をそむけることしか出来なかった。


 だが、もう一人の弟は、そして息子は、それをこそ指標に抱くというのか。

 絶望ではなく、託された願いとして、そこにこそ希望を見出すつもりなのか。


 沈黙は深かったが、そう長くはなかった。


「――好きにするがいい」


 ややあって絞り出されたのは、今の彼に告げられるぎりぎりだとわかる、肯定だった。

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