25 流される者、抗う者ー6

『――ねえ、長十郎ちょうじゅうろう兄上』


 記憶の彼方から、幼子の声が聞こえて来た。


 それは、三十年は昔のこと。

 瑞穂も伊織も生まれてはおらず、自分とて四つか五つで、まだ何も知らず、両親の傍らで、ただぬくぬくとまどろんで居ることが許されていた頃。


 春の日だった。

 御館の縁側に腰かけ、母が焼いてくれた煎餅の山を傍らに、淡い霞の空を見上げていた時、隣に座って同じように空を見上げながら両足をぶらぶらさせていた二歳違いの弟が、不意に言い出した。


『あの山の向こうには、世界があるんでしょう?』


 小さな指が差したのは、東。

 八手の里と外界を繋ぐ唯一の出入り口、奥葉おくは山の山門がある方角だった。


『ああ』


 その指先を追って、長十郎は、まだ細かった首をこくんと傾けた。


『父上はそう仰ってた。あの山の向こうは、この里なんかよりずっとずっと広い。けど、そこは人間の世界だから、俺たちは入っていけないんだ、って』

『人間は、真那世まなせが嫌いだから、なんでしょう?』


 弟の眸に、寂し気な光が滲んだ。


『僕たちだって半分は人間なのに、どうして仲良くできないのかな』

『もう半分の神の力が怖いんだよ。半分違えば、それはもう、同じじゃないから』

『じゃあ、真那世同士だったら? もし、外の世界に、別の真那世の一族が居たら、仲良くできるかな』

『さあ、どうだろう』


 ふと両眼を瞬かせた弟に、長十郎は首を傾げた。


祖神そじんが違えば、真那世という意味では同じでも、種族としては別だ。どんな神力を持っているかわからないし、考えることだってきっと違う』

『だから、わくわくするんじゃない。だって、違うって、面白いことでしょう?』

『そうかな』


 長十郎は曖昧に首を振った。


『お祖父様たちと真垣まがきの人間たちの出会いは、結局、喧嘩になっただけだったし。人間であれ他の真那世であれ、違う生き物になんて逢わない方がいいよ、きっと』


 鬼堂家に征服された後の針生はりう本家の長男に生まれ、物心ついた頃から外の世界の厳しさを、人間という生き物の恐ろしさを、それらに対する心構えと共に教えられ続けてきた長十郎にとって、既にこの頃から、里の外も、そこに住む一族以外の存在も、警戒と忌避の対象でしかなかった。


 だが、二歳違いの弟は違った。


『でも、そんなの、逢ってみなければわからないよ。真垣の人間たちとは喧嘩にしかならなかったけど、世界は広いんでしょ? だったら、どこかに、僕らと仲良くできる誰かが居るかもしれないじゃない』


 明るく言って、幼い眸にいっぱいの好奇心と憧憬とを輝かせ、高い空の彼方を見上げた。


『逢ってみたいな。僕らとは違う、それでも同じ、真那世の誰かに』


 ***


 長十郎は、ふいと顔をそむけた。


「ここで、これ以上争うことが無意味であることは、認める」


 そうして、早口に言った。


「水守家が、自分たちの都合で譲歩を選択するなら、それで良い。だから、末子を伊織に預けろという提案は呑む。それで問題はないだろう」


「待った」


 一也いちやが答えるより早く、一郎太いちろうたが強張った声で言った。


「そうやって有耶無耶にするのは、もう駄目だって話だろ。それじゃ、水守家の不信はそのままだ。何の解決にもなっていない」

「信じずとも従えばいいのだ。三人で自由を手に入れるより、四人でこの里で暮らす方がいいと言うなら、そうすればいい」

「この期に及んで、まだ足元を見るつもりなのか⁉」


 一郎太の声がひっくり返った。


「今、ここで、お互いの間のわだかまりを一つでも解決しないと、俺たちはまた同じ過ちを繰り返す! 次こそ殺し合いになる! まさか、水守家に頭を下げるくらいなら血を流す方がいい、なんて言う訳じゃないだろうな!」


「――水守に、必要とあらば主公しゅこうを討つ意志があり、その主公が薫子かおるこを『質』に取っている以上、我らの利害は究極的には一致しない。先に裏切った方が利益を得る。それが、現実だ」


 息子から顔をそむけたまま、長十郎はぼそぼそと続けた。


「まして、我らは仇同士。いつ復讐されてもおかしくない、なら、いっそ最後の一人まで殺し尽くしてしまえば、後顧の憂いは無かったのだ。なのに、主公は――あの瞬間は心底から恐怖していたくせに、いざとなれば一代の神力を惜しんだ。挙げ句、必要な時以外は遠ざけておきたいとばかりに、我らに化け物の管理と監視を押し付けてきた」


 瞳孔の奥で焦点が明滅し、片手が顔を覆った。

 その手が、小刻みに震え始めた。


「ならば、毒を喰らわば皿まで――卑怯であろうと卑劣であろうと、抑えつけるだけ抑えつけて、填められるだけの枷を填めておくしかない。鬼堂家と同じ? 勿論、その通りだ。だが、根源的に異なる存在、まして、単純な力では絶対に敵わない相手との間に、他にどんな方法があるというのだ」


 ――あの時も、そうしていれば、もっと早く片がついていた。


 宗次郎も、死なずに済んだかもしれなかったのだ。


 ***


 ――未知の他者という存在に夢を描いていた、明るい笑顔。


 それが、塗りつぶされた。

 真紅の闇に。


『――子供?』


 斗和田とわだの湖のほとり。

 豪雨の中、目の前に居た神和かんなぎ一族の術者たちを、何とか全て地に沈めた時だった。


 怯え切った赤ん坊の泣き声が、真那世の鋭い聴覚に届いた。

 視界に飛び込んで来たのは、斃れた大人たちの背後に庇われていた、十歳前後の少年少女と、まだ一歳にもならない赤ん坊。


『寄るな‼』


 少年が弾かれたように両手を広げて、赤ん坊を抱えた少女の前に立った。


『人殺し! 化け物! 姉上と弟に近づくな‼』


 幼さを残す顔を恐怖に歪めながら、それでも必死に家族を護ろうとする眼差しが、怒りと憎悪に満ちた罵声が、咄嗟に立ち止まった八手一族の戎士たちを貫いた。


『――斗和田の一代?』

『――こんな子供だったのか?』


 周囲の戎士じゅうしたちがざわめき、左右に居た宗次郎と伊織も絶句する。


 驚いたことでは、長十郎も同じだった。


 斗和田の真神まがみを狩ること。

 そこに居ると思われる一代の真那世を捕えること。


 出立前に鬼堂興国きどうおきくにから告げられたのは、それだけだった。

 その斗和田の地に、彼の真神を奉じる術者の一族が居ることも、そこに生まれていた一代の大半がまだほんの子供だったことも、この目で見るまで知らなかった。


 それでも。


『――捕えろ』


 主人の命令には逆らえない。

 だから、瞬間的に弾けた罪悪感をねじ伏せて、背後に従っていた戎士たちにそう命じるしかなかった。


『待て! 子供相手に、乱暴な真似は!』


 しかし、その時、宗次郎が声を上げた。上位者の命令には反射的に従う、その習い性のままに『繰糸くりいと』を放ち、子供たちを縛り上げようとした戎士たちを止めた。


 その次の一瞬だった。


『⁉ 兄上、伊織‼』


 ハッと視線を跳ね上げた宗次郎が、長十郎と伊織に飛びついた。

 叩きつける雨の中、三人揃って泥土の中に転がった時、天の一角から投げ落とされたような蒼銀の雷光が、その場の空間を引き裂いた。


『――兄上‼』


 目の前で両手を広げていた少年が、救われたような顔になった。


『兄? もう一人、居たのか』


 伊織を助け起こしながら、宗次郎が低く呻いた。


『何だ、この神気しんきは……』


 その横で、長十郎は声を震わせていた。

 地を抉り、周囲に居た戎士数人を一瞬で地に這わせた雷光の威力もさることながら、まだ十七、八にしか見えない青年の全身から噴き上がる威圧感――もともと強大な神気が激烈な怒りによって倍増されたようなそれに触れた瞬間、背筋が泡立った。


 子供たちに対して瞬間的に覚えていた罪悪感が霧散し、地の底から湧き上がるような恐怖にとって代わられる。


 駄目だ、と本能が警鐘を鳴らした。

 生き物としての根源が違う。こんなモノには遠慮も情けも無用だ、と。

 その恐怖感は、時を置かずして現実の光景となった。


『――宗次郎‼』


 やめろと叫ぶことしかできなかった、その目の前で。

 動くことができなかった自分の代わりに動いた弟の命が、散らされた。


 その瞬間、長十郎のたましいには、重い後悔と絶望とが穿たれたのだった。

 先の好機を逃さずにいれば、と。

 余計な罪悪感や情けなどに囚われず、下の子供たちを捕えていれば、と。


 既に、薫子や里の家族さえ無事ならそれでいいと、鬼堂家の侵略に加担し、彼らの家族を手に掛けていた。

 一族の手は血に染まり、もはや引き返す道などどこにもない。


 ならば、そこに、今更子供の一人二人の血が混じったところで、何だというのか。

 この世界は冷酷で、自分たちが生きるだけで精一杯。

 他者を慮っている余裕などどこにも無い。

 だから、自分たちの大切なものを護る為なら、子供を奪って盾とするような醜く薄汚い所業であっても、二度と躊躇ってはならないのだ、と。


 ***


「一郎太、お前は斗和田を実際に見た訳ではなく、まだ『役』に出たこともない。だから、この世界の現実を知らないのだ」


 長十郎の横顔から、拭い去られたように表情が消えた。


「そして――伊織、お前の方は、それを知りながら、目を背けている。まだ綺麗なものばかりを並べて生きていけると、思いたがっている。だが、そんな願いは戯言だ」


 一瞬の情けが命取りになる。

 憐れみなどかければ、足元を掬われる。


神珠しんじゅの繋がりも血の繋がりもない余所者と、まして、一たび殺し合った相手と、協力だの信頼だの、そんなものは、理想を通り越した妄想に過ぎん」


 空虚な響きだった。

 悲哀、悔恨、憎悪、怨嗟、そして、恐怖――そんな真っ黒な感情に侵食されたたましいが、その全てを通り越して絶望の虚無へと転がり落ちていくように。


「この世界に、光などない」


 そう呟いた長十郎の眸には、穴が空いているようだった。



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