24 流される者、抗う者ー5

『――見ぃつけた』


 明るい声が響いて、薄暗がりの中で俯けていた視界に、二つの影が差した。


琳太郎りんたろうと喧嘩したんだって? 一郎太いちろうた

『しかも、いきなり突き飛ばした挙げ句、琳太郎君の着物を破いちゃったそうだね』

『それで、兄上に大目玉を喰らったのか』


 御館みたちの納屋の隅、目の前に積み上げられている古い木箱や長持の間から、二十歳そこそこの青年と、十三、四歳の少年の顔が覗いた。


『けど、何でそんなことをしたんだ? 何か理由があったんだろう?』

『話してごらん。私も宗次郎そうじろう兄上も、君が理由もなくいきなり暴力を振るうような子じゃないって、ちゃんと知っているから』


 いきなり頭から叱責するのではなく、まず理由を問う優しい声が、暗く冷たい場所に沈んでいた心を揺らす。

 納屋の隅に座り込み、胸前に立てた両膝を両腕で抱え込んでいた幼児は、ぎゅっと身を縮めた。


『――琳太郎が、自慢してきたんだ』

『自慢?』

『あいつが着てた着物、三祝さんいわいの晴れ着なんだって。父上が手柄を挙げて褒賞でもらった絹で、母上が仕立ててくれたんだ、って』


 三祝いとは、子供が三歳の誕生日を迎えたことを祝う、八手一族の祭事である。

 真那世まなせの子供は、人間の子供に比べると丈夫ではあるが、それでも、幼くして夭折する子は一定数いる。

 であればこそ、その日が来ると、親子はそろって祖神そじんを祀る神社に詣で、子供の無事な成長を感謝し、更なる加護を祈って供物を捧げる。


 三祝いの晴れ着とはその際に子供が着用する特別な着物のことで、琳太郎が一郎太に見せびらかしに来たそれは、確かに、里内で織られている綿布とは比べ物にならない、上質な絹に金糸銀糸で吉祥模様が織り込まれた派手なものだった。

 ただ、一郎太は、個人的に派手なものはあまり好みではなかったので、『ふーん』という反応になっただけだった。

 それが、琳太郎には面白くなかったらしい。


『あいつが、お前のは? って聞くから、乳母ばあやが用意してくれてるって言ったんだ。そしたら、あいつ、笑って――』


 ――乳母が? ああ、そうか。一郎太には母上が居ないんだものね。可哀想にね――


『なに?』


 零れ落ちそうになる涙を懸命に我慢しながら絞り出すと、二人の叔父たちの気配が変わった。


『その話、兄上にはしたのか?』

『したよ……。でも、父上は、俺が悪い、って』


 その程度で一々腹を立てるな。お前は本家の長男なのだから。この先一族を背負って立つ者として、誰よりも忍耐強くあらねばならないのだから、と。


『――その程度じゃないだろうに、全く』


 溜息が聞こえた。


長十郎ちょうじゅうろう兄上は真面目で責任感が強くて、そこがいいところなんですけど、少々思い込みが強い面もありますから……』

『後で話をしなくちゃ、だな』


 そんな会話が聞こえた後、年長の叔父が、目の前に積み上がっている長持の隙間から、視線を合わせてきた。


『いいか、一郎太、お前が怒ったのは、当然だ。俺か伊織がその場に居たら、一くさり琳太郎に説教しているところだよ』


『――そうだよね』


 救われたような気持ちになって、顔を上げた。


『俺は悪くないよね⁉』

『いいや、お前にも悪かったところがある。一つだけな』


 縋るように叫んだ先で、年長の叔父が、小さく首を振った。


『怒るのは当然。けど、いきなり突き飛ばすとか着物を破くなんていう行動の方は、当然とは言えない。今回は幸い、琳太郎は鼻血を出しただけで済んだそうだが、打ち所が悪ければ大怪我をさせていた可能性もある』 


『ねえ、一郎太、君はその時、琳太郎君に仕返しをしたかったのかい?』


 大怪我という言葉にびくりと肩を揺らした時、横から年少の叔父が言った。


『自分が嫌な想いをさせられたから、琳太郎君にも怪我をさせて、痛い想いをさせたかった?』


『――違うよ! 怪我をさせたかった訳じゃない』


 ごんっ、という嫌な音と共に、地面に広がった小さな血しぶき。

 それを見た瞬間、激昂に支配されていた頭に、冷水を浴びせかけられたような気がした。

 同胞を傷つけたという事実を認識すれば、真那世の頭と心臓は、人間以上に反射的に竦む。爆ぜるように上がった琳太郎の泣き声と、周囲に居た大人たちの叫び声や駆け寄ってくる足音が、それに拍車をかけた。


 大変なことをしてしまったと思った。

 けれど、どうすればいいのか、わからなかった。

 浴びせられた雑言に感じた凄まじい怒りと哀しみの残滓が、頭と心にこびりついていたからだ。

 だから、やって来た父親に、『琳太郎に謝れ』と叱責されても、素直に頭を下げることはできなかった。ただ、その場から逃げ出すことしかできなかった。


『じゃあ、どうしたかった?』

『――わかんない』


 呟いて、膝頭に顔を埋めた。


『頭の中が真っ白になって、咄嗟に袖を掴んでたんだ。びりって音がして、何するんだ、って琳太郎が怒鳴って、気が付いたら、突き飛ばしてた……』

『そうか……。なら、今からでいいから、その時のことを思い出して、考えてごらん』

『そんなの、わかんないよ!』

『一郎太、失敗したと思った時は、振り返って考えてみることが大事だぞ』


 年長の叔父が首を振った。


『それを放り出すと、同じようなことが起こった時、また同じことを繰り返してしまう。それじゃ、いつまで経っても、お前は前に進めない』


 隙間から差し込まれた掌が、励ますように頭の上に乗せられた。


『――自慢はまだいいけど、悪口は嫌だった』


 その温もりに促されて、一郎太は、ぎゅう、と自分で自分を抱きしめた。


『母上が居ないことなんて、俺が一番よく知ってる。それでも、俺は可哀想なんかじゃない‼ 母上は命がけで、俺をこの世に送り出してくれたんだ‼』

『うん――そうだな』

『だから、あいつを黙らせたかったんだ――と思う』

『じゃあ、もし時間を戻せるなら、どうする?』

『――止めろって、口で言う。それでも琳太郎が止めなかったら、突き飛ばすんじゃなくて、頬っぺたを叩く。あいつが謝ったら、おしまいにする。叩き返してきたら、二度と一緒に遊ばない』

『ふふ――それなら、お互い怪我をすることは無いな』


 考えたことを一息に並べると、隙間から覗く顔が笑みを含んだ。


『自分の気持ちを護ることは、とても大事なことだ。だから、一郎太が怒ったことは、それでいい。ただ、その気持ちは、本当に戦ってでも押し通さなくてはいけないものなのか、他に方法はないのか――次は、拳を振り上げる前に、一度考えてみるといいな』


『そうだね。一度振り上げてしまった拳を下ろすのは、とても難しいことだから』


 年少の叔父が頷いた。


『そして、そうなった時は、相手は勿論、自分だって傷つかずに済むことは無いからね』

『戦――いや、喧嘩なんて、誰ともせずに済むなら、それに越したことは無いんだからな』


 頭に乗せられていた掌が、童子髪をわしゃわしゃとかき回した。


『兄上がお前に我慢強くあれと教えるのは、それで避けられる喧嘩もあるからだ』


 この世界は、真那世には特に冷たく、厳しい。一歩でも里の外に出れば、そこには、敵意や悪意といった、闇そのものの感情が渦を巻いている。

 針生はりう本家の兄弟ほど、その現実を知っている者は居ない。


『だからお前に、戦う強さだけじゃなく、耐える強さも身に着けて欲しいと思っているんだ。この世で生きる辛さに敗けないように、大切なものを過たず護れるように、そして、幸せになれるように――ってな。勿論、俺たちも、心の底からそれを願ってる』


 父によく似た笑顔が、視界に大写しになる。


『ほら、出て来い。俺と伊織が一緒に行ってやるから、琳太郎に謝りに行こう。突き飛ばしたことと晴れ着を破いたことはきちんと謝って、逆に、琳太郎が言ったことについてはきちんと抗議しよう。――ん? 何だ、その顔。あ、もしかして、多生たきのご当主が怖いのか?』

『大丈夫だよ。禮二郎れいじろう様は確かに少々難物だけど、琳太郎君のお父さんの弥市郎やいちろう殿は、ちゃんと話せばちゃんとわかってくれる方だから』

『済んだら、その後は、三人で裏山にでも登りに行くか。今日は天気がいいから、気持ちがいいぞ、きっと』

『いいですね。厨房にお願いして、おにぎりを作ってもらいましょうか』


 二つの笑顔と共に、左右から差し延べられた、二つの手。

 釣り込まれて、膝を抱え込んでいた両手を離し、伸ばせば、しっかりと握られ、引っ張り起こされた。


『あーあー、埃だらけになって』

『お風呂も焚いておいてもらわないといけないですね』


 二人の叔父に両手を取られたまま、納屋の戸口へと歩き出す。


『嫌なことがあって暗いところに引っ込んでも、余計に暗くなるだけだろ。そういう時は、無理やりにでも明るいところへ行くんだ。お陽様の下でも、高い木の上でも、信頼できる誰かの横でもいいから』

『そうそう。どんなに世界が真っ暗だと思っても、探せば一つぐらいは光というものが見つかります。必ずね』


 導きの言葉と共に、連れ出される。暗く冷たい場所から、明るい陽の光にあふれた場所へと。


 ――その時、幼子の心には、確かに一つの指標が刻まれたのだった。


 ***


「長」


 四輝しきを片腕に抱え上げた一也いちやが、真っすぐな眼差しで、上座の長十郎を見据えた。


「当の四輝が、意志を示した。ならば、私から求めたいことはたった一つだ。四輝を、伊織様に預けさせて頂きたい。あなたがそれさえお認め下さるなら、二緒子におこと三朗を甲斐様に預け、私は主公しゅこうの、引いては、薫子かおるこ様の盾でありましょう」


 沈黙が落ちた。

 壁際でじっと蹲っていた薫子が、初めて、僅かに視線を持ち上げる。

 副長たちは勿論、長十郎や上役たちの意に従った組長たちも、それに異を唱えた組長たちも、揃って上座を見やった。


「――奴に折れさせたなら重畳だ、長十郎殿」

「――小童こわっぱの身柄さえ手に入れば、後はどうとでもなるのですから」


 多生禮二郎と旭子あきらこが、突っ立ったままの長十郎に身を寄せて、こそこそと囁いている。


「いやいや……、そういうことは、もう、本当に止めましょうよ」


 斉明寺要さいみょうじかなめが嘆いた。泣いてすらいるように聞こえる声だった。


「――そうだ。もう、止めようぜ」


 長十郎が答えるより先に、思いがけない声が、思いがけない方向から上がった。


「一郎太?」


 全員の視線が、同じ方向に向く。

 その先で、長十郎の息子が、ずっと抱えていた姉の背を軽くぽんぽんと叩いてから、立ち上がった。


「お前と伊織は、薫子の付き添いでこの場に居ることを許されているだけだ」


 多生禮二郎が、吐き捨てるように言った。


「成人年齢に達したとはいえ、初陣を踏むまでは半人前だ。子供に発言権はない。引っ込んでいろ」


「ご老体こそ、もうお休みになっては如何ですか?」


 だが、一郎太は平然と言い返した。


「過去の痛みばかり数えている内に、心だけじゃなく頭まで硬化症になられてしまったみたいだし。未来の話は、もう荷が重いのでしょう」

「何だと?」

「水守殿は、斗和田とわだでのことを『理解する』と言ってくれた。だから、譲歩を選択するとも、申し出てくれた」


 一郎太の視線がその場を一巡し、そして、上座に固定された。


「それを、斗和田に引き続き、今回も喧嘩を売った方が、これ幸いとふんぞり返って有耶無耶にしてしまうのは、どう考えてもおかしい。まして、それを最初に言い出してくれたのは、一方的に掻っ攫われそうになった当の幼子なんだぞ。まずは親父殿や叔母上たちが、さっきの選択と行動をきちんと詫びるのが、筋ってものじゃないですか」


「――詫びろじゃと?」


 旭子あきらこが喚いた。


宗次郎そうじろう殿を殺し、弥市郎やいちろう殿を殺し、日差子ひさこを絶望の自害に追い込んで、誉志郎よしろうから父を、琳太郎りんたろうから両親を奪った、不倶戴天の仇にか‼」


「旭子叔母上、あなたの気持ちや考えが、常に一族の正義という訳じゃない」


 一郎太が、腹に力を込めたとわかる声で言った。


「俺は、さっきからずっと思っていました。宗次郎叔父上が今の旭子叔母上をご覧になったら、何とおっしゃるだろうって」

「何じゃと?」

「いきなり家族の傍から引き攫われた幼い子供の悲鳴を聞いて、あなたは嬉しそうに嗤っていた。その顔ときたら、角や牙が生えていないのが不思議なほどでしたよ。あれは、姉上が『質』された時に見た鬼堂きどう主公しゅこうと、まるっきり同じ顔だった。例え親同士の取り決めだったとしても、そんな女を妻にしていたのかと思ったら――」


 途端に、旭子が大きく足を踏み出した。周囲の誰もが止める暇もないほど素早い動きで片腕を振り上げ、目の前に立つ少年の頬を打った。


義姉あね上!」

「一郎太!」


 甥と叔母、双方に対して、同時に複数の非難が上がった。


「――気に入らないことを言う奴を、言葉ではなく暴力で黙らせる。それもまた、鬼堂家が、ずっと俺たちにやってきたことだ」


 三朗や二緒子でさえ息を詰めていたが、一郎太の方は、周囲の何倍も落ち着いていた。


「叔父上に気に入られる為に、そういう本性をずっと隠していたんですか、西家せいけ御方おかた様」


 旭子の全身が、わなわなと震え出した。


「一郎太――生きる為に、憎しみが必要な時もあるんだよ」


 五十嵐槙子いがらしまきこが小さく呟いた。


「確かに親同士が決めたことだったけど、旭子様は本当に宗次郎様のことを――」


「だから、何をやってもいいって? 槙子さんが叔母上の言うことなら何でも聞く理由なら知っているけど、流石に甘やかし過ぎだ」


 一郎太は、一顧だにしなかった。


「それとも、まさか、知らないんですか? 弥市郎様や日差子様はどうだったか知らないけど、少なくとも宗次郎叔父上は、自分の感情は自分でどうにかする人だった。どんなに辛くて苦しい想いをしていたって、他者にそれを押し付けて――まして、子供を泣かせたり苦しめたりして悦ぶような下種じゃなかったんだ」


 槙子が黙り込む。


「――その通りだな」


 甲斐源七郎かいげんしちろうがぽつりと呟いた。


「――弥市郎様もそうっすよ」


 杜戸慎介もりとしんすけが溜息と共に言った。


「だから、宗次郎叔父上なら、きっとこう言う。家族を失って哀しむのも怒るのも当然。だけど、それを理由に他人を傷つける行為の方は、当然じゃないって」


『宗次郎』という名を口にした瞬間、一郎太は、一瞬だけ顔を歪ませていた。辛い喪失の痛みを、想い起こしたように。

 だが、すぐそれを消し、真っすぐな視線を、上座の父親に向けた。


「こうも言う筈だ。自分の気持ちを護ることは大事だ。けど、それは本当に戦ってでも護らなくてはいけないものなのか、他に道はないのか、拳を振り上げる前に考えろって」


 斗和田の時は、確かに、一方的に敵対するしかなかった。


「けど、今回は違う。宗次郎叔父上が遺した想いを、伊織の叔父上がここまで繋ぎ続け、水守家がそれに応じてくれた今、彼らはもう敵じゃない。俺たちがそう思い込むことを止めさえすれば、未来は開ける。今がその最後の機会だ、親父殿」

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