23 流される者、抗う者ー4

「無茶をなさいます」


 一也いちやは、神剣の先を下げた。


「下手をすれば、ご同胞たちを『血殺し』にするところでしたよ。それでも、ご自身の血を流すことで同胞を止め、私をも止めましたか」


「私は、もう、これ以上、誰の血も流したくないのです……」


 荒い気を吐きながら、伊織が小さく首を振った。


「鬼堂の主公しゅこうは石橋を叩いて渡る気質ですが、叩きすぎた場合、どれほど頑丈な石橋であっても逆に壊してしまうことに思いが至らない」


 いっそ、自分が臆病者だと認めて野心も野望も棄ててしまえば楽になるだろうが、それは出来ないものだから、余計に必要以上の安全や安心を求めようとして、逆にこうやって事態を混乱させる。


「あなたがいつか仰ったように、つくづく度し難いお人です。そんな人の為に――まして、それに振り回されるばかりの我らの短慮で、二緒子殿たちから、あなたまで喪わせたくない」


「私も、別に死にたいと思っている訳ではありません。道が存在するなら、生きることを諦めるものではない。大切な約束もありますから」


 淡々と応じた一也の背を、三朗は思わず見つめた。


「ならば、どうか、今回の布陣と四輝しき君の帯同を、受け入れては頂けませんか」


 血を吐くような口調で言いながら、伊織がさらに頭を下げる。


「受け入れて頂けるなら、長十郎ちょうじゅうろう兄上が何と仰ろうと、四輝君のことは、私が命に代えて責任を持ちます。誰にも、決して、無体な真似はさせません」


「――俺も、誓約しよう」


 その語尾に、別方向からの声が重なった。


 対峙している羽賀作之進はがさくのしん五十嵐槙子いがらしまきこに掣肘の一瞥を投げてから、甲斐源七郎かいげんしちろうが、身体の向きを変える。伊織の横に並ぶと、どかりと腰を落とし、両手を拳の形に握り込んで、床についた。


 手を握りこぶしの形にすると、指先から『繰糸』を出すことができなくなる。よって、この仕草は、八手一族にとって、攻撃や敵対の意志がないことを示す姿勢となる。


「二番組の組長として、二緒子におこと三朗を八手一族の部下たち同様、麾下としてきちんと扱うと約束する。桧山ひやまのような莫迦な真似は、決してしない。八繰命やくりのみことの名に賭けて、誓おう」


「――それが、信じられない訳ではありません」


 身構えは解き、だが、神剣そのものは顕現させたまま、一也は息を吐いた。


「八手一族が我々を、一代の神力ゆえに化け物と呼び、恐れるように、私たちにとっても、最初、あなた方は化け物でした」


 冴えた眼差しが、その場の八手一族たちの面上を一巡した。


「突然現れ、家族を殺し、同胞を殺し、故郷を破壊した――妖種ようしゅのごときもの。個々の顔などはなく、生き物とも思えず、ただ破壊と恐怖だけをもたらす理不尽な闇の塊――そんなものでしかなかった」


「――無礼な!」

「――襲われた方からすれば、当然のことだ。我らに、怒る筋合いなどない」


 叫んだ旭子あきらこを、萩原征八はぎわらせいはちがぴしゃりと窘めた。


「あなたも多生たき殿も――いや、わしとて伊織にさんざん指摘されるまでは気付かなかったが、物事を一族の内側からばかり眺め過ぎるのだ」


「家族を殺した者を憎まない筈がない。怨まない筈がない。それそのものは、当たり前のことです」


 一也が視線を持ち上げ、固定する。

 上座で立ち尽くしたままの長十郎に。


「だから、あなた方が顔のない存在のままであれば、私も同じように、目の前で大切な者たちを切り裂いた者を怨んだことでしょう。しかし、そのあなた方の中に、伊織様が居てくれた。だから、私たちにとって、八手一族は顔を持つ存在になったのです」


 妖種ではない――顔を持ち、名前を持ち、体温を持ち、理性と感情を持つ、真那世という意味でも、この地上に生きる命という意味でも、同じ存在に。


「ならば、斗和田の折、あなたが族長として主公の命令に従う決断を下したことは――確かに、他に選択の余地などない、『仕方がなかった』ことなのだろうと、理解はしています」


 だから、八手一族の怨みに怨みで応じることはしないと決めたのだ。

 暴言にも暴力にも忍耐を選び、里に間借りする立場として上下関係を受け入れ、八手一族の体制にも従ってきた。


 それは、確かに、兄弟四人で生きていく為ではあったが、同時に、八手一族の中に小さな希望を――共存の可能性を見出してもいたからだった。


「真垣で、伊織様や七尾様との共闘が実現した時、そして、桧山様の一件を有耶無耶にはしないと仰って下さった時、やはり信じてきた可能性は間違いではなかったと思いました。しかし――」


 一方で、多生禮二郎たきれいじろう針生旭子はりうあきらこのように、決して水守家を認めようとせず、受け入れようとしない者たちも多い。

 いや、里内では、まだそちらの方が多数派だ。


 個々の信頼や親愛が広がっても、それを族長が否定し、多生禮二郎たちの意見や考えの方を一族の方針とするなら、伊織たちとて、最終的には従わざるを得ない。真垣で、桧山辰蔵が一也に刃を向けたのは個人的な怨恨だったが、長十郎の意志は、八手一族の公の意志となるからだ。


 つまり、事態がここまで拗れた今、長十郎が長として、公に歩み寄りの意志を示さない限り、一也としては『もはやここまで』という認識にならざるを得ないのだった。


 その長十郎は、未だ沈黙している。

 表情は硬く強張り、その視線も茫漠としていて、どこを見ているかわからない。


(駄目、か――)


 二緒子、三朗、四輝――彼らの命と生活が保証されることと、彼らの尊厳が尊重されること。

 一也が欲しいのは、その二つが両立する道だ。

 だが、鬼堂家はもとより、八手一族すらも、お前たちに許されるのはどちらか一方だけだ、と迫って来るなら――。


『どちらがまだましだと考える?』


 かつて問いかけられた声が、脳内に響いた時だった。


「一也兄上……」


 二緒子の腕の中で、いつしか泣くことを止めていた四輝が、顔を上げた。


「僕が、伊織様と一緒に行ったら、喧嘩をお終いにできるんですか?」


「――四輝‼」


 伊織が弾かれたように頭を上げ、八手一族の大人たちがざわりと揺れた。

 同時に、三朗と二緒子は大声を上げていた。


「待って。あなたがそんなことを心配する必要はないのよ!」

「そうだ。これは大人の問題だ。お前は、余計なことを考えなくていい!」

「でも……」


 幼い眼差しがぎこちなく姉を見つめ、次兄を見つめ、そして、血まみれになっている伊織を見つめてから、一也を見上げた。


 四輝はまだ、水守家を取り巻いている状況や、鬼堂家や八手一族との関係を、全てきちんと把握している訳ではない。

 だが、この大広間へ足を踏み入れてから今まで、怯えながらも、目の前で繰り広げられるやり取りを見て、聞いている内に、いくつかの点は理解したのだった。


 主公と呼ばれる怖い人が、四輝をどこかへ連れて行きたがっていること。

 兄姉はそれをさせまいとして、八手一族の大人たちと喧嘩をしてでも護ってくれようとしていること。

 けれど、その場合は、一也が、まず間違いなくその怖い人に酷い目に遭わされる――もしかしたら、自分たちの傍から居なくなってしまうかもしれないこと……。


 その時、四輝が思い出したのは、あの秋祭りの日のことだった。自分が八手一族の大人たちを怒らせて、一也が代わりに責め苦を負わされた時の。


「あんなことは、もう嫌です。だから――」

「それは、あなたが責任を感じることじゃない!」


 二緒子が悲鳴を上げた。


「何より、このまま主公や御館の言う通りにしたら、私と三朗は別行動になるし、兄様だって傍には居られないの。あなたは一人で、何日も何十日も、何をするかわからない八手の人たちや黒衆の人たちと一緒に居ることになるのよ!」


 それは、確かに怖い。


 黒衆――その言葉を聞いただけで、四輝の身体の中には冷たいものが満ちる。

 ここに居る八手一族の大人たちにしても、伊織以外は、四輝にとって恐怖の対象でしかない。本当は、今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。


 でも――それでも。


「だ、大丈夫……」


 四輝は、必死で勇気を奮い起こしながら、細い首を左右に振って見せた。


「伊織様は、怖くないもの。それに、すぐ傍じゃなくても、近いところには居るんでしょう? 里で待っているより、ずっと近くに。だったら、僕、その方がいい。ちょっとでも、姉上や兄上たちの近くに居る方がいい」


 断言した四輝の脳裏に浮かんでいたのは、一年半前のことだった。


 三朗が十二歳になり、一也と二緒子と共に初めての『役』に発った日。

 それは、四輝が物心ついて初めて、独りで邸に残された日でもあった。


 必死で『みんな無事で帰ってきて』とだけ願い、手を振って見送ったけれど、心の中は不安と恐怖でいっぱいだった。


 四輝には、記憶はなくても、『喪失』の感覚はあったからだ。

 頭ではなく心が、それまでは確かに自分を包んでくれていたたくさんの優しい温もりが、ある日突然、兄姉だけを残して一気に消えてしまったことを、覚えていた。


 だから、初めて独りで過ごすことになった夜は、常にも増して闇が濃くて、一睡もできなかった。

 このまま、誰も帰って来なかったらどうしよう――。

 一度でもそんなことを考えたら涙が止まらなくて、心がどこかへ転げ落ちて行ってしまいそうだった。


 だから、その夜、四輝は一晩中、布団の中で、長兄が贈ってくれた笛を鳴らし続けた。

 まだろくな調べにはならなかった頃だったが、兄姉たちを慕う想い、無事を祈る想い、孤独の寂寥、そして、もし兄姉たちが帰って来なかったら、この孤独が永劫に続くことになるのだという不安と恐怖――夜闇の中ではただ錯綜し、膨れ上がるばかりのそれらの感情を、笛の音を借りて、僅かにでも解き放ち続けた。


 幸い、それから数日を経て、兄姉たちは帰ってきたが、それはそれで到底『無事』とは言えなかった。全員が血まみれの傷だらけで、長兄に至っては殆ど意識がなく、その後一月以上も寝込むことになってしまったからだ。


 その時の衝撃は、今も四輝の心の底に、ひんやりと根を張っている。


「喧嘩になって、姉上や兄上たちが怪我をするのは嫌です。居なくなってしまうのは、もっと嫌です」


 その恐怖は、四輝にとって、黒衆や八手一族に対する恐怖を上回るものだった。


「それに、僕、この里から出て行きたいとは、思ってないです」


 確かに、怖いことや嫌なことは、いっぱいあるけれど。


「楽しいことも、あるから」


 二緒子と一緒に家事をすることも、三朗に剣を教えてもらうことも、一也に笛や読み書きを教えてもらうことも、大好きだ。


 それに、あの真垣の大騒動の後から、兄姉たちが全員『役』で出払う時は、黒衆から差し向けられる綿貫夫妻だけではなく、七尾家の双子とその母親が、里に居る限りは、邸に泊まりに来てくれるようになっていた。おかげで、独りきりで夜を過ごす回数はかなり減り、怖いと思うことも寂しいと思うことも少なくなっていた。


「そうそう、今度、はじめ君たちが真垣から帰ってきたら、一緒に独楽を作る約束をしてるの。創君たちのお父さんが、教えてくれるんだって」


 最後は心底嬉しそうに、きらきらと目を輝かせて言った四輝に、二緒子も三朗も声を失った。


「だから――だからね、僕、平気です。兄上たちと姉上と、これからもずっとここで一緒に居られるなら、何だって我慢するし、頑張ります」


 まだ小さな手が、二緒子の目尻に滲んだままになっていた涙を、そっと拭った。


 それから、するりとその腕の中から抜け出す。引き止める言葉を無くした三朗と二緒子の顔を見上げてから、一也の傍へ行く。

 そして、神剣を携えていない方の長兄の手を、両手でしっかりと掴んだ。


「一也兄上、助けてくれて、ありがとうございました」

「四輝……」

「けど、兄上たちが、これ以上怪我したり酷い目に遭ったりしなくて済むなら、僕、行ってきます」


 一生懸命という様子で言い切ると、四輝は、長兄の手を掴んだまま、目の前にいる伊織に視線を向けた。


「どこへ行ったらいいですか?」


 つい先ほど、それこそ家畜か獲物のように縄を掛けられ、家族の傍から引き攫われかけたというのに。

 そのような蛮行を試みた者たちに、自ら身を委ねると申し出る。

 幼い声が、家族の為にと。


「四輝君……」


 目の前でそれを聞いてしまった伊織の表情が、ひび割れた。

 見開かれた瞳孔が震えて、激昂とも悲哀とも慙愧ともつかない激情が、生血のように吹きこぼれてくる。


「――ふん。小童こわっぱの方が、はるかに物分かりが良いではないか」

「――まだそんなことしか言えぬなら、頼むから黙っていてくれ、多生殿」


 低く嘯いた多生禮二郎に、萩原征八はぎわらせいはちが唸るように言った。


「四輝……」


 二緒子の双眸から、大粒の涙があふれ出した。

 三朗も、叫び出したい思いを懸命に堪えていた。


 二人はもう、人を相手にした『戦』がどれほど残酷で凄惨なものか、知っている。このままここで生きていくなら、いつかは四輝も、あれに立ち向かわなければならなくなるであろうことも。


 だからこそ、見せたくなかったのに。自分たちを取り巻く現実の冷たさや醜さを。許される限り。


 二緒子は十歳まで、三朗は九歳まで、それを知らずに過ごすことができたから。

 母、祖父、叔父、斗和田とわだの優しい人たちに包まれて、幸せという言葉しか知らずに呼吸をしていられた時間があったから。


 生まれて半年でその時間の全てを奪われた小さな弟――お前にも、できるだけ長く、そんなものは知らずに過ごして欲しかった。あの邸の中で、斗和田の、せめて半分なりと詰め込んだ温もりの中で、笑っていて欲しかった。


 なのに。


 四輝から長兄を喪わせない為には。

 そして、初めての友達――血で繋がった身内ではなく祖神そじん神珠しんじゅを分け合う同胞でもなく、ただ、個々の心と心で繋がった『他者』との絆を断ち切らない為には。

 もう、二緒子と三朗が頑張るだけでは駄目なのか。

 四輝自身までもがあの家を出て、冷たい雪と風が吹きすさぶ現実と戦い、望む未来を勝ち取らなければならないのか。


「四輝――伊織様と一緒に行けば、万一の場合、お前は恐ろしいものや醜いものをたくさん見ることになる。無事に帰って来られる保証すら、何もない」


 一也が、真っすぐ末弟を見つめながら、言った。


「それでも、行くか?」

「っ――はい」


 ごくりと息を呑んで、幼子が背筋を伸ばす。

 恐怖を滲ませながら、それでも目を逸らすことなく、長兄の眸を見つめ返す。


「僕は、みんな一緒がいいです」


 一也の眉目に、風が吹いた。

 悲哀と、それを上回る優しさに満ちた、包み込むような風だった。


「なら、お前が大切にしたい『今』を護る為に、共に戦ってくれるか?」


 ただ護られるだけではなく――共に。

 家族の一人として。


「! はいっ」


 瞬間、幼子の顔に、恐怖を押しのける誇りが満ちた。


 二緒子が、更なる涙を溢れさせる。

 三朗は黙って、そんな姉の背に掌を添えた。


「ならば、共に行こう」


 末弟の覚悟を見届けて、一也は身をかがめ、まだ小さな身体を片腕に抱きしめた。


「大丈夫。私たちは、ずっと一緒だ」

「うん」


 四輝は、むしろ安心したように頷いて、長兄の首に両腕を回して抱きついた。

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