21 流される者、抗う者ー2

 愛する者に理不尽を強いるものへの憎しみ。

 それをただ見ていることしかできない己れの無力さへの怒り。

 喪失への恐怖。


 びりびりと突き刺さってくる針生はりう長十郎ちょうじゅうろうの激情に、三朗の頭と心を占めていた怒りの中に、やりきれないものが混ざり始めた。


 大広間の壁際、会合が始まってから身じろぎ一つせず、伊織と一郎太いちろうたに左右を護られてただじっと座っている少女へ、視線を流す。

 薄い紗の被衣を目深にかぶった顔は、終始俯けられている。三朗の位置からは、その気持ちはおろか、表情すら伺い知ることはできない。


 無意識に、片手で胸央を掴んでいた。

『神縛り』の苦痛なら、一度、確かに我が身で経験した。あんなものに、一也いちやは五年近く、薫子かおるこはさらに長く、苦しめられ続けている。


 それだけでも理不尽極まりないのに。

 鬼堂興国は、事あるごとに『質』の命を盾にし、時には、家族の目の前で、捕えている神珠しんじゅに呪毒を流し込むなどという拷問を行ってまで、絶対服従を要求する。


 一也は、それを被ったのが自分自身であったが故に最後まで耐えきり、拒否を貫いたが、もし、斗和田の戦の折に『質』に降されたのが二緒子か三朗であったなら、きっと異なる選択を強いられたことだろう。


 長十郎や歴代の八手一族の族長たちと、同じように。


「――だから、長も本陣に随行なさるのでしょう? 拒否できない命令なら、せめて何かあった時に、すぐ助けられるように」


 一也が、小さく息を吐いた。


「同じ理屈で、四輝を本陣に同行させるなら、私が傍についていることは可能ですか?」


「莫迦を言え」


 それは一也が示した譲歩の可能性だったが、返ったのは、多生たき禮二郎れいじろうのせせら笑いだった。


「子連れで主人の護衛が務まると思うか? お前は、一番組と三番組と共に、主公や兵馬様ら黒衆の護衛に専従するのだ」

「では、四輝はどうなるのです。主公の近くで、ずっと独りで居ろと?」

「心配はいらん」


 眉をひそめた一也に、多生禮二郎は冷ややかな愉悦を浮かべた。


央城おうきまで行って戻って来るまでの間、薫子と水守の末子の護送と護衛は、八番組が担当する」


「――八番組⁉」

「――つまり、四輝を五十嵐いがらし様にお預けしろと?」


 瞬間、三朗と二緒子が飛び上がった。


「――めちゃくちゃ嫌そうにされてますよ、槙子まきこさん」

「そりゃあそうだろうよ」


 楢崎ならさき小平太こへいたがこそりと囁き、五十嵐槙子は小さく肩を竦めた。


「身に覚えがあるってことっすね、姐さん?」

「まあね」


 杜戸慎介もりとしんすけの皮肉めいた問いには、軽いあしらいを返す。

 ただ、口調とは裏腹に、その眼差しはどこか憂いを帯びて、上座の一角へと注がれていた。


「槙子殿では不服かえ?」


 その視線の先で、昏い感情に表情を歪めた西家せいけ旭子あきらこが、声を立てて嗤った。


「槙子殿は妾の一番の友であるぞ。麾下の男どもには厳しいが、子供には優しいお人柄ゆえ、おのれらの末弟も『大事に』預かってくれよう」


「――五十嵐様の『優しい』は、八手一族の子供限定でしょう?」


 三朗の心の中から、薫子や長十郎に対するそこはかとない共感や同情の念が、消え失せた。


「姉上の初陣は八番組との『役』でしたが、俺の時の桧山ひやま様と同様、いきなり一人で妖種をおびき出す囮に使われた。そんな姉上を庇って、兄上は大怪我をしたんです」


「それがどうした。『役』を率いる黒衆が一任したなら、戦術も戦力の配置も組長の采配に委ねられる。それで怪我をしたなら、化け物のくせに無能だったというだけの話ではないか」


「かつての五番組と同じくらい、八番組でも、俺たちの分だけ兵糧が足りないとか、配給されても中身が腐っているとか、そういうことがよくありました! 竹筒に、水ではなく泥が詰まっていることもあったし、寝床に蛇だの百足だのが放り込まれていたこともあります。『役』の最中に蟲集めとか、どれだけ暇だったのかとむしろ感心しましたけどね、あの時は」


 自分に対する嫌がらせなら、まだ我慢できる。

 だが、手の届かない場所で、まだ幼い弟が、自分たちが被ってきたような暴虐にさらされるかもしれないと思っただけで、感情も言葉も止まらなくなった。


「そもそも、五十嵐様は、旭子様と琳太郎りんたろうが秋祭りに迷い込んだ四輝を縛り上げて連れてきた時、止めもせずに一緒に来て、兄上への暴行にも加担されていた! そんな人に、四輝を預けろって言うんですか⁉」


「下らぬ。兵糧丸は里の女たちが手分けして作っているものであるから、時には不出来なものも混じろう。野宿の寝床に蟲が這い込むのも、自然の摂理として当たり前のこと。槙子殿の仕業のように決めつけるのは、言いがかりというものじゃ」


 だが、旭子は平然と嘯くだけだった。


「お前たちを殺傷してはならぬというのはお館様からの命令であれば、その小童こわっぱにしても、まさか故意に傷つけるような真似をする筈はなかろう? まあ、央城までの長い道中、戎士組はいつも通り、食糧も寝床も自分たちで用意せねばならぬから、そういったことが起こることはあるかもしれぬがのう?」


 奥の壁際で、伊織が片手で額を覆った。

 その横では、一郎太が露骨に顔をしかめて、旭子を注視している。


「――ちょっとでいいから空気を読んでくれないものっすかね、多生様も、西家の御方様も」

「――駄目だな。桧山同様、あの二人のたましいの一部は壊れたままだ。四年半前から」


 杜戸慎介のぼやきに、萩原はぎわら征八せいはちが苦い溜息を吐いた。


「こ、の」

「わ、私が、真垣へ行って、数馬かずま様にお願いしてきます!」


 三朗が唸った時、二緒子が必死の形相で言い出した。


「数馬様は、四輝も薫子様も連れて行く必要はないと仰って下さったのですよね⁉ だったら……‼」


「残念だが」


 斉明寺さいみょうじかなめが、小さく首を振った。


「この件について、数馬様は、兵馬ひょうま様――引いては主公に譲られた。だから、今更誰が何を訴えたところで、命令は覆らない」


「兵馬様は、主公の正室である氷見ひみかた様の御子で、大伯父に当たる嶽川朧月たけかわろうげつ様が後見についている。一方の数馬様の後見は、主公の乳兄弟である、葉武はたけ平九郎へいくろう様だ」


 多生禮二郎が、吐き捨てるように言った。


「つまり、数馬様と兵馬様が対立すれば、それは、そのまま葉武様と嶽川様の対立となる。だから、今回、数馬様は、主公が兵馬様の意見に賛同なさったところで、引き下がられた」


「初の上洛、九条青明せいめいとの会見を前に、内輪で揉めている場合ではない、ということっすかね」


 杜戸慎介が呟いた。


「家中を割るぐらいなら、我々に我慢させれば良い、ということだろうな。やはり数馬様も、所詮は黒衆ということだ」


 堀内義兵ほりうちぎへいがぼそりと呟いた。


「そんな……」


 一縷の望みを失って、二緒子の声が力を失った。


「わかったか? そもそも、これは相談ではない。命令だ。お前たちに選択の余地などない」


 長十郎が吐き捨てるように言った。


「嫌……、嫌です。渡さないから」


 うずくまるようにして、全身でぎゅうと四輝を抱きすくめながら、二緒子が呻いた。


「何をされるかわからないところに、四輝を一人で行かせたりしませんから……!」


「なら、どうするというのだ?」


 多生禮二郎が冷ややかに言った。


「いつぞやの宣告通り、兄に主公と相討ってもらって、お前たちだけでここから逃げるか? 兄を犠牲にし、薫子を巻き添えにして、自分たちだけの安寧を得るか?」


 二緒子がびくりと全身を波打たせた。四輝のことでいっぱいだった白い顔に別種の恐怖が閃き、そのまま凍り付く。


「ただし、そうやって逃げたところで、お前たちに安住の地など無いぞ。鬼堂家を離れるということは、見つかれば殺されるただの真那世まなせに戻るということだからな」


 どこか勝ち誇ったような多生禮二郎の指摘に、三朗はぎりぎりと歯を鳴らした。


「多生殿、そのような言い方は止めてください」


 どこまで足元を見れば気が済むのかと思った時、たまりかねたような声が上がった。伊織の声だった。


「水守殿――薫子には、医薬師として私も同道します。であれば、四輝君のことは、私がお引き受けします。誰にも、何も、理不尽な真似はさせませんから」


「伊織様……」


 二緒子が、僅かに救われたような顔を上げる。


 だが。


「誰がお前に発言を許した、伊織」


 長十郎の声が鞭のようにしなって、空間を打った。


「お前は薫子の為の付き添いだ。水守の末子に構っている暇など認めん。その間に薫子に何かあったら、どうするつもりだ?」


「長十郎兄上――しかし、このままでは、話はどこまで行っても平行線です」


 伊織の声音に、強い焦慮と懸念が滲んだ。


「我々は、祖神や世代は違っても、同じ軛に繋がれた、真那世という意味では同じ存在です」


 鬼堂家の都合で駆り出され、央城という未知の場所で、九条家を始めとする未知の敵に相対しながら、大切なものを護らなければならないという状況もまた、同じだ。


「であれば、今は、過去を理由に対立するのではなく、未来の為に協力し合うべきです。水守殿たちとなら可能です。それは、真垣の一件で証明されているのですから」


 長十郎たちは、あくまで水守家を化け物と見なして上から押さえつけようとするが、伊織は変わらず、同じ地平に立つ意志を示してくれる。

 八手一族と水守家の間に横たわる血の大河に、懸命に橋を架けようとしている。


 だが。


「協力? 宗次郎を殺した化け物とか?」


 長十郎は、その弟の意志を一刀両断に断ち割った。


「如何にも、我らは真那世という意味では同じだ。だから、わかる。我らが奴らを憎むように、奴らは、今もその取り澄ました顔の裏で、我らに対する復讐心をたぎらせているに違いない、とな。真那世が、家族を殺した者を憎まない筈がないからだ。怨まない筈がないからだ」


 長十郎の声が泡立った。


「奴は我らの家族、同胞の敵。そして我らは、奴らの家族、同胞の敵だ。その事実は、未来永劫変わらない。現に、奴は一度ならず二度までも、主公もろとも薫子を殺そうとした!」


「⁉ ちょっと待って下さい!」

「私たちを護ろうとしてくれた兄様の行動が、長十郎様には復讐に見えたのですか⁉」


 伊織が目を見張り、三朗と二緒子は同時に叫んだ。


「兄上は、あんたたちとは違う! あんたたちにどれほど怒っていたって、あの戦場に居なかった薫子様を憂さ晴らしに使うようなことはしない‼」


「煩いっ!」


 長十郎が喚いた。


「ならば何故、大人しく主公の命令を聞かぬ?」

「聞ける命令なら聞いています!」

「気に入らぬ命令は聞かぬと⁉ それを傲慢というのだ‼ それでお前たちが死ぬのは勝手だが、薫子を巻き込むな‼」


 その眸が、一也の面上に据えられた。


「お前たちは、この世に四人きりの希少種。だから、少々逆らったところで、九条家との対決を控える主公が、そう容易く自分たちを処分する筈はないと高を括っているのだろう。だが、我らは違う!」


「主公が長十郎殿に『水守家を二手に分けた上で、末子を本陣に帯同せよ』と命じられたからには、それを果たせなければ、長十郎殿が主公の命令に背いたことになる」


 多生禮二郎が、低い声音で言った。


「そんなことになれば、どうなる。あの主公のことであれば、長十郎殿を役立たずと見なして、薫子の神珠を見せしめに握り潰すやもしれぬ。瑞穂みずほの時のようにな」


 最後に飛び出した名前に、伊織がハッと表情を強張らせた。


「多生様!」


 一郎太が咎めるような大声を上げ、八手一族の戎士たちがざわっと揺れた。


「――瑞穂?」

「瑞穂は、私の妹で、伊織の姉――そして、薫子の前の『質』だ」


 思わず問いをこぼした三朗に、長十郎が強張った声で応じた。


「――伊織様、お姉さんが居たの?」


 二緒子が、震え声で呟いた。

 三朗も、身の内を冷たいものが這い上ってくるような気がした。


 八手の里へ来て四年半。

 だが、水守家は、その名前はもとより、存在すら知らなかった。何より、薫子の前の『質』ということは、彼女はもう……。


「水守一也――お前は、自分がいつ死んでも構わないような顔をしているが、『神縛り』で奪われた神珠を握り潰された『質』がどうなるか、知っているか?」


 三朗の予感を裏付けるように、長十郎が地を這うような口調で言った。


「お前は言ったそうだな。『神珠の崩壊が、即座に身体の死に繋がる訳ではない』と。その通りだ。神珠を潰された瞬間から、精神の崩壊が神経を破壊し、遂には心臓を止めるまで、現実を失い、正気を失い、悪夢の中でもだえ苦しみながら、じわじわと衰弱していく。瑞穂は、そうなった。一日中泣き叫んでいたかと思えば、笑いながら自分で自分の髪を引き抜いたり、爪で自分自身を切り裂いたり――そんな娘を見かねた我らの母は、瑞穂を殺して、自分も死んだ!」


 長十郎の瞳孔の奥で、焦点が散った。


「『質』に降されて尚、神力ちからを操り、神剣の加護すら有する化け物なら、神珠を潰されても主公や黒衆を鏖殺し、弟妹を護ってやることができるのやもしれん。だが、我らにそんな芸当は不可能だ」


 どのみち、仮に『質』を見棄てて、鬼堂家の支配から逃れることを選択したとしても、人間の支配があまねく満ち渡るこの秋津洲あきつしまに、真那世の居場所など無いのだから。


「ならば、我らは犠牲を払ってでも、ここで生きられるだけ生きるしかなく、そして、その犠牲を最小に抑える為には、主人あるじにやれと言われたことをやり、殺せと言われた者を殺すしかないのだ‼」


 肺から生血を吹きこぼすような絶叫が響いた。


 伊織が、どこか呆然とした表情で、そんな長兄を見つめている。

 その横では、前の『質』の最期を語る言葉など聞かせまいとするように薫子を両腕の中に庇い込んだ一郎太が、顔をしかめながら父親を注視している。


 蒼白になった二緒子が、四輝を抱きしめたまま、かたかたと震えている。

 三朗も、懸命に気力を奮い立たせながら、膝に力を込めていた。少しでも気を抜けば、長十郎の激情に引きずられて、心がどこかへ転げ落ちて行きそうだった。


 組長たちの様子は様々だった。

 驚いている者、困惑している者、じっと押し黙っている者、そして――。


「だから――頼む」


 絶叫の語尾に、長十郎が微かな懇願を重ねた瞬間、二つの影が動いた。

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