16 針生一郎太ー2

 それは、四輝しき八手やつで一族の秋祭りに迷い込む事件の、少し前のことだ。


「――斗和田の化け物が、生意気な!」

「やっちまえ!」


 脱兎のごとく駆け出した三朗の背後で、十を下らない金切り声が上がった。


「逃がすな!」


 その中心で叫んだのは、多生琳太郎たきりんたろうだった。


「心配はいらないよ。どうせあいつは手向かいできないんだから。殺しさえしなければいいって、長十郎様もおじい様も仰っていたしね!」


 憎悪に裏打ちされた嘲笑と共に、ばらばらと石が飛んでくる。木切れや棒のようなものが投げつけられてくる。

 その内の一つが足に絡まってつんのめったところへ、風を切って迫る神力ちからの気配を感じた。


 ハッと振り返れば、琳太郎が、こちらに向かって右手を突き出している。

 三朗は咄嗟に身をよじって横に転がり、背後から放たれた『繰糸くりいと』に捕らえられることを避けた。


 そのまま、路傍の林の中に飛び込む。

 鬱蒼とした茂みの小枝に刺されたり蔓が絡みついたりするのも構わず、乱立する木々の間を突っ走って、目の前に現れた丘の斜面を這い上った。


 逃げたら諦めるかと思ったが、追って来る気配は消えない。それどころか、前方からも迫って来る気配がする。


 移住して一年足らずの三朗と違い、八手一族の子供たちにとって、里の中は自分たちの庭だ。地理も地形も熟知しているから、二手に分かれて追い詰めることなど容易い様子だ。


 丘の頂に立つ一際大きな欅の木の下まできたところで、包囲されたことに気付いた。狩りを楽しんでいるような囃し声や笑い声があちこちで響いて、唇を噛みしめた時だった。


 欅の樹上で、ちか、と神力の光が閃いた。

 ハッと頭上を仰いだ瞬間、目にも止まらぬ速さで空を走った一本の『繰糸』が三朗の身体に巻き付いた。


 しまった、と思う暇はなかった。

 次の瞬間、伸びきったばねが縮むように糸が収縮し、三朗の身体は高々と空中に跳ね上げられていた。

 かと思えば放物線を描くようにして放り出され、木の上の方の、一際こんもりと新緑の若葉が茂っている枝の中に墜落する。


「じっとしてろ」


 何だ一体、と思った時、身体に巻き付いていた『繰糸』が消え、下の方から気怠そうな響きの声が掛けられた。


 敵意も害意も感じられないその声に、三朗がふと動きを止めた時、欅の木の下に、追手の子供たちが集まってきた気配がした。


「畜生! どこへ行った?」

「確かに、この辺に追い込んだと思ったのに!」


「――うるっせえな」


 わあわあと言い合う声の中に、先ほどの声が響いた。


「鬼ごっこなら他所でやれよ、琳太郎。邪魔だ」

「――誰、って、一郎太いちろうた?」


 欅の根元で、琳太郎が顔を上げた。


「何やってるのさ、そんなところで」

「見りゃわかるだろ。読書中だよ」


 答えたのは、下の方の一際太い枝の上に身体を伸ばしていた少年――針生はりう一郎太だった。

 毛先が跳ねている収まりの悪い髪を首の横で無造作に括り、琳太郎のそれと同じくらい高級品らしい深緑色の水干を、着ているというよりは引っかけているといった風情でだらりと纏っている。

 その手には確かに一冊の綴じ本があり、視線はそこに向けられたままだった。


「やっと貸本の順番が回ってきたってのに、御館みたちだと親父殿が煩いからな」

「針生本家の嫡子にして僕と同じ『先祖返り』のくせに、ふらふら遊んでばっかりで、学堂の座学も武術もいつもびりの出来損ないが、って?」


 琳太郎が、口元を歪めるようにして言った。


「ああ。だから、邪魔すんな」


 嘲弄の響きは露わだったが、深緑色の水干の少年は気に留める様子もなく、視線を手元に落としたまま、片手だけをひらひらと振った。


「今日中に小平太こへいた殿へ回す約束なんだ。反故にすると、怒られちまうからな」

「それ、小童こども用の絵草紙じゃないの? 組長のくせに、楢崎ならさき殿も相変わらずだね」

「絵草紙だからって莫迦にしたものじゃないぞ。お前もたまには読んでみろよ。狭い世界が広がるから」

「余計なお世話だよ。ところで、一郎太」


 ふんと鼻を鳴らして、琳太郎は周囲を見回した。


「一つ教えて欲しいんだけど。こっちへ化け物が来なかった?」

「化け物?」


 枝葉の中で三朗が身を固くした時、一郎太は全く気配も口調も変えずに言った。


妖種ようしゅなんざ、見てねえよ」

「妖種みたいなもんだよ。斗和田とわだの一代って名前の化け物だ」

「はあ。お前に水守のご当主ご本人を襲うような度胸はないだろうし、あの綺麗な姉君とちびの弟なら、ここへ来る途中、邸の前で見かけたから、探しているのは三朗か? なら、知らないな。俺はお前と違って、あいつには何の興味も無い」

「ふーん」


 琳太郎の声に、冷ややかなものが漂った。


「君にとっても、斗和田の化け物は、大恩ある宗次郎そうじろう叔父君の仇の筈だけど、興味ないんだ? 敵にも情け深くていらっしゃる伊織様に、丸め込まれでもしたかな」

「伊織の叔父上は、ご自分が正しいと思うことを、ただ正しく仰るだけだ。他人を丸め込むとか、煽動するなんて真似はやらねえよ」


 一郎太の視線が初めて綴じ本から逸れ、下方へと投げられた。


「お前の伯母上と違ってな」

旭子あきらこ様は、君にとっても、義理とは言え叔母だろうに、酷い言い草だね」


 お互いに心底気が合わないという眼差しが交差し、琳太郎が乾いた声で笑った。

 その視線は、下の方の枝に居る深緑色の水干の少年を突き刺し、更にその頭上にいる三朗を貫き通すようだった。


「敵を庇うなら、君は僕らにとって裏切り者だよ、一郎太」

「手前の言うことを聞かない奴は敵だと言われてもな、俺はお前の太鼓持ちじゃないとしか言いようがない」

「やれやれ。君みたいなのが次の族長なんて、八手一族の未来は真っ暗だね。いっそ誉志郎よしろうに継いでもらった方が、長十郎様も安心できるんじゃない?」

「族長なんて面倒くさいもの、従弟が継ぐってんなら喜んで代わってやるさ。けど、あいつはまだ二つだろうが。その台詞は、あいつがせめて今の俺たちと同じぐらいの年になってから言えよ」

「そうだね。そうするよ」


 冷ややかに笑うと、琳太郎は踵を返した。


「興が醒めた。みんな、行こう。じゃあね、一郎太。長十郎様に会ったら、君がここでさぼってたってお伝えしておくよ」


 琳太郎が、周囲の子供たちを促して、丘の道を下り始める。その際、最後に捨て台詞を吐くことも忘れなかった。


 彼らの気配が完全に消えたところで、三朗はようやく身を起こした。

 がさがさと枝葉をかき分けて、太い幹を滑り、深緑色の水干の少年が腰を下ろしている枝の近くに降り立つ。


「――ありがとう」

「別にお前の為じゃない。本気で読書の邪魔だっただけだ」


 返答は素っ気なかった。


「直接の仇じゃなく弟のお前で憂さ晴らしをする琳太郎のやり方は趣味じゃないが、だからってお前を助けてやらなきゃならない義理もない。次は自分で何とかしろよ」

「じゃあ、君なら、正々堂々、一対一で兄上を狙うの?」

「ああ。お前の兄貴を殺せば宗次郎叔父上が帰ってくるってんなら、喜んでそうしてやるけどな」


 間髪入れぬ返答と共に、冷めた眼差しが、ちらりと三朗を見やった。


「けど、そんなことはあり得ない。だったら、誰がそんな無駄なことをやるかよ。莫迦々しい」

「琳太郎たちと違って、一応、理性があるんだな」

「褒めてるつもりなのか、それ?」


 不機嫌そうに唸って、小さく肩を竦める。


「それでも、お前の兄貴が宗次郎叔父上たちの仇で、俺の親父たちがお前らの家族同胞の仇だって事実も、動かしようはない」

「――そうだね」


 息をついて、三朗は一郎太に背を向けた。


「でも、助けてもらったことも事実だから、それについてはちゃんとお礼を言っておくよ」

「勝手にしろ。俺は受け取らない」

「別にいいよ。俺が言いたいから言うだけのことだから」


 これで礼は尽くしたと見極めると、三朗は枝を蹴って、地表へと飛び降りた。そのまま、振り返ることもなく歩き出した。


 ***


 ――あの時も思った。


 伊織のように真っ向から示される厚意には素直に感謝できるし、琳太郎のように真っ向からぶつけられる反感には、心おきなく同じものを返せる。

 しかし、厚意と反感とがかくも絶妙に入り混じっている場合は、どう対応すればいいのか、よくわからない。


 ただ、一郎太は、琳太郎や他の八手一族と違って、三朗たちを傷つける為の言葉を吐いたり、暴力を振るってきたりすることはない。

 だから、三朗も余計な心理的抑圧を覚えることなく、礼儀を守ることができる。そういう意味では、比較的話がしやすい相手であることは確かだった。


(いや、今は一郎太のことより、この呼び出しだ)


 ぶんぶんと頭を振って気持ちを切り替えると、三朗は渡された封書を握り込んで、邸の中へと駆け込んだ。

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