14 家族の団欒

「三朗兄上?」


 どれほどぼうっと立っていたのか、ふと笛の音が止んで、三朗は我に返った。


「どうしたんですか?」

「ああ――いや、雪だな、と思って」

「そうなんです。今年は早いですね」


 演奏を終えた笛を丁寧に拭って、二緒子におこが作った巾着袋に収めてから立ち上がった四輝しきが、跳ねるような足取りで三朗の傍にやってくる。頭の後ろで一つに束ねている髪が、元気な仔馬の尾のように空を躍った。


「これ、一也いちや兄上に?」


 明るい笑顔が三朗を見上げてから、手に持っている丸盆に視線を移す。


「お見舞いなら、僕も一緒に行っていいですか?」

「駄目な訳がないだろ?」


 苦笑して、三朗は歩みを再開した。ぴょこぴょこと頭の後ろの仔馬の尾を振りながら、四輝が横に並んでついてくる。


 八手の里の御館みたちの真ん前にある水守家は、東側に冠木門と玄関を配置し、その敷地は高い塀でぐるりと囲まれている。


 鬼堂家の居城である真垣まがきの城は、正殿とその真正面に広がる庭園を中心にして左右に渡殿わたどのでつないだ対屋たいのやを置く、いわゆる央城おうきの貴族様式と言われるものだが、八手一族の家の造りは全く違う。


 どちらかと言えば、貴族に仕える武家階級の様式に似ていて、一つの建物の中の北側に厨と湯殿と厠を置き、厨の勝手口を出た先には建屋付きの井戸があった。


 邸の中心は、囲炉裏を備えた十畳の居間で、その西側に一室、東側に三室が南北に並んでいる。

 部屋と部屋は概ね直接つながっており、その間仕切りは壁より襖の方が多い。


 よって、隣接していない部屋への移動は、建物の外周にめぐらされている板敷きの縁側を通っていく必要があった。

 その縁側は、玄関から北側を通って厨や湯殿、厠へ行くものと、玄関から邸の東側を通って真っすぐ最南端の部屋まで続くものと、その最南端の部屋から邸の西側を通って居間に繋がるものがあった。

 どの縁側も、剥き出しの濡れ縁ではなく内縁になっており、天井には屋根があり、外側には障子戸が並んでいる。夜や風の強い日などは、その外側にもう一枚、頑丈な板戸が填められるようにもなっていた。


「――兄上」

「三朗か。お入り」


 一番南にある部屋の前で一旦床に片膝をつき、持っていた丸盆を置いてから、声をかける。応答を待って、閉ざされている襖に両手を掛け、丁寧に引き開けた。


 邸の一番南側にあるこの部屋は、東と南に縁側があり、一番日当たりがいい。

 おまけに、もともとは八手一族の族長家の隠居所だったからか、南側半分が畳敷きになっている。


 その畳敷きの上には、夜具が延べられたままになっていた。

 だが、本来、その中で休んでいるべき人影は見えなかった。


「あ、また」


 心の中に浮かんだ声と同じ声が、すぐ隣から上がった。


「一也兄上、やっと熱が下がったのに、起きたらダメじゃないですか」

「四輝も一緒だったか」


 奥の文机に向かっていた背中が、苦笑しながら振り返る。寝衣のままだが、一応、その上に二緒子特製の綿入れを羽織っている。


「寝ている間に思いついたことがあったものだから、整理しておきたくてね」

「またですか?」


 四輝と共に臥所をぐるりと回って文机の横まで行き、膝を揃えて座る。

 丸盆の水差しから湯呑みに水を汲んで差し出すと、一也は礼を言って受け取り、程よく冷まされている白湯を美味しそうに飲んだ。


 その間に、三朗は、文机の周囲に何枚か落ちていた半紙を拾い上げながら、その表に視線を走らせた。


 この里に移住した頃から、一也は、空き時間ができると、自室での書き物に充てることが増えていた。

 おかげで、今や部屋の棚が一つ、裏も表もびっしりと書き込まれた紙で埋まっている。


 そこに記されている文字は、央城やの国の役所で使われている文字とは異なる、斗和田とわだ神和かんなぎ一族が使っていた特有の文字だった。

 所々、塗りつぶされたり、一度書いた文字の上に別の文字を重ねたり、行間に注釈らしいものが書き加えられたりしていて、苦心の跡が如実に見て取れる。


「わかりますか、三朗兄上」

「いや、さっぱり」


 横から覗き込んだ四輝に問われて、三朗は首を振った。

 文字自体を読むことはできるのだが、三朗は霊能の技の方は全く手ほどきを受けていないので、意味が取れない。辛うじて、どれも何かの術式らしい、ということが理解できる程度だった。


「一也兄上、これは何をしているんですか?」

「無駄に終わるかもしれないが、それでも、試してみたいと思うことがあってな」


 湯呑みを手にしたまま、一也は恬淡と末弟の問いに答えた。


「まだ見通しも何も立っていないから詳細は話せないが、未来を拓く為、とだけは答えておこうか」

「兄上がなさりたいことならお止めもお邪魔もしませんから、無理だけはなさらないで下さい」


 息をついて、三朗は拾った紙を全て丁寧に重ねて、文机の上に置いた。


「つい昨日まで、四日も高熱が続いていたんですから」

「わかっている。これを飲んだら、もう休むことにするよ」

「そうして下さい。姉上が、今日は寒いから、夕餉はきりたんぽの鍋にしようと仰っていました。また具合を悪くなさったりしたら、召し上がれませんよ」

「それは大変だ」


 夕食をだしに脅すと、一也はくすりと笑う。

 神珠しんじゅを奪われている限り、一也の不調が根本的に治癒することはないが、それでも、今日は本当に調子がいいようだと見極めて、三朗はホッと息を吐いた。


「そういえば、四輝」


 その横で、一也が四輝に視線を向ける。


「さっきの『麻葉あさのは』、聞かせてもらっていたよ。また一段と上手くなったな。音の間違いも拍の間違いも、一つもなかった」

「本当ですか?」

「ああ。何より音が伸びて、柔らかくなった。聞いていて、とても心地が良かったよ」


 優しい表情で褒めた長兄に、末弟がぱっと顔を輝かせた。


「じゃあ、そろそろ、二の段の曲も教えてくれますか?」

「そうだな。だが、私が教えられるのは、残念ながら二の段までだ。最後の一曲、三の段の『青海波せいがいは』は、神和一族の長のみが引き継いでいくものだったからな」

「そう、ですか」


 四輝の表情が、少し沈んだ。


「叔父上様の笛、僕も聞いてみたかったです」

「そうだな……」


 一也の眼の色が深くなり、三朗も黙り込む。

 改めて、四輝が奪われたものの大きさを、どれほど努力しても決して取り戻せないものの数を、想った。


「一也兄上、何か聞かせてくれませんか?」


 そんな兄たちをふと見やって、四輝が努めて明るく言う。


「あ、でも、お休みになった方がいいのかな……」

「少しぐらい、大丈夫だ。では、二の段の『雪輪ゆきわ』を」


 ゆるりと首を振った一也が、四輝が差し出した笛を受け取り、口元に当てる。


『雪輪』とは、雪の結晶のことである。

 雪は五穀の精といわれ、雪が多い年は豊作になると言われている。それにちなんで、その年の五穀豊穣への祈りを形にしたものが、この曲だった。


 最初の高音が滑り出し、緩やかに空を舞った。

 五曲の中で一番透明感のある響きが、今まさに外を舞っている雪のように、小さく白く清冽な光の粒子となって降り注ぎ始める。


 それに誘われたのか、軽い足音が廊下をぱたぱたとやってきて、そうっと襖が開けられた。するりと中に入ってきた二緒子が、四輝の横に行儀よく膝を揃える。

 何となく揃った兄姉を見回して、四輝が幸せそうな笑みを弾けさせた。

 その笑顔に釣られて、三朗もまた淡い表情を灯らせた。


 外では雪が舞っている。冷たい風が吹いている。

 だが、この家の中にだけは、その冷たさは届かなかった。


 まだ。

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