第三章 笛の音

11 秋祭りの出来事ー1

 その日は朝から薄曇りだったが、ひるになってとうとう雪が降り始めた。


 ぴーら。ぴーらら。るーりるらー。


 その中に、柔らかく澄んだ笛の音が重なった。

 高く、低く、ゆったりと流れる旋律が曇天の下へ解き放たれ、広がっていく。


 三朗さぶろうが昼餉の洗い物を済ませた時、二緒子におこはまだ七輪にかけた小鍋で豆を煮ていた。

 そこで、三朗は水差しと湯呑みを乗せた丸盆を手に、先に厨を出たのだが、邸の東側にある広縁に差し掛かったところで、舞い落ちる雪に気付いて足を止めた。そこへ、笛の音が聞こえてきたのだった。


 このの国で初雪ということは、北の果てにある斗和田とわだ八剱岳やつるぎだけはもう真っ白だろうと、ふと思った。


 かの地の冬は長く、厳しかった。

 晩秋は冬ごもりの用意の為にあると言っても過言ではなく、屋根や家の修繕や保存食作りで、村中がおおわらわだった。


 それでも、幼い子供たちにとって最初の雪はやはり嬉しくて、姉や従兄妹たちと共に雪だるまを作ったり、雪玉を作って投げ合ったりして遊んだものだった。

 瑠璃るり玻璃はりが投げる雪玉は、勢いもなければ的外れでもあったけど、わざと当たってやれば、二人とも『やったやった』と喜んだ。

 その笑顔が嬉しくて、透哉と二人で何度も当たってやっていたら、揃ってすっかり冷え切ってしまって、二緒子が呆れながら生姜湯を渡してくれたこともあった。


 その光景が浮かぶともなく脳裏に浮かんで、三朗は、淡い笑みをこぼした。


 九条の姫の襲来から、一年半が過ぎていた。


 あの騒動の中で、血の色の雨の記憶を思い出して以来、三朗にとって、過去を想うことは辛く苦しいことだった。

 幸せだった時間の光景も、すぐにそれを打ち壊した罪の光景に移り変わり、足元に奈落の口が開いて、三朗を吞み込もうと迫ってきたからだ。


 だが今、ふと呼び覚まされた記憶は、三朗を罪の意識で苛みはしなかった。ただ、幸せだった頃の記憶を、幸せな気持ちのまま、思い返させてくれていた。

 多分、鼓膜に優しく染み通るこの音のおかげだろうと思いながら、視線を巡らせる。東側の広縁の一角に腰を下ろし、初雪が舞う庭を見つめながら無心に横笛を吹いている、小柄な姿を見つめた。


 ふと、時が巻き戻る。

 それは、三朗が十歳、水守家が八手やつでの里に移住させられてから一年半が過ぎた、ある秋の日のことだった。


 ***


「開けろ!」


 邸の玄関の戸が、どんどんどん、と荒々しく叩かれた。

 その時、三朗は二緒子と共に、水守家の厨に居た。手分けして昼餉の支度を整え、後は膳を居間に運ぶだけというところで、唐突な怒鳴り声の訪いが入ったのだ。


 一瞬、姉と顔を見合わせてから、三朗は真っ先に厨を飛び出した。

 北側の縁側を回って真っすぐ玄関に駆けつけると、閉じてある引き戸の向こうには十人を下らない八手一族の気配があった。


 草履をひっかけて三和土たたきに下り、身構えながら慎重に錠を外す。

 途端に、表戸が外側から勢いよく引き開けられて、空いた空間から何かが玄関の内側へと突き飛ばされてきた。


四輝しき⁉」


 上がり框に居た二緒子が、悲鳴を上げる。

 咄嗟に弟の小さな身体を受け止め、抱きかかえて、三朗は爆ぜるように視線を上げた。


「何の真似ですか、これは!」


 二歳になったばかりの四輝が、八手一族の『繰糸くりいと』でぐるぐる巻きにされ、縛り上げられている。

 三朗は、咄嗟に右手に神剣を閃かせて『繰糸』を斬り払うと、裸足のまま三和土に飛び降りてきた二緒子に弟の身を委ねた。自身は、玄関先を占拠している者たちに向き合い、姉と弟を背に庇う。


「何の真似とは、こちらの台詞」


 答えたのは、その集団の中央に居る女性だった。


 年の頃は二十代の後半。細く吊り上がった眸と、栗色がかった癖のある髪。一般的な八手一族の女たちは小袖姿が多いが、彼女は人間の貴人の女たちのように辛子色の掛下を纏い、その上に緋色の打掛を重ねて、右手に広げた竹扇で口元を隠している。

 鼻筋の通った美貌の持ち主だが、水守家の姉弟を見下ろす目は冷酷だった。


 そのすぐ横には、同じ年ごろの別の女性が立っている。

 こちらは、上背のある豊満な肉体を、男性、それも八手一族の中でも上位の者が身に着ける、前合わせの上衣と裾が足首まで届く袴を纏い、腰には太刀を下げている。


 そして、二人の周囲には、筒袖の上衣にくくり袴姿の屈強な男たちが、十人近くも従っていた。手に手に心張棒のようなものを構え、あからさまに暴力的な雰囲気を醸し出している。


「今日が、我ら一族の新嘗の祭りであることは、当然、存じておろうな」


 打掛の女が言った。


「秋の豊穣を祖神そじんに感謝し、今後の更なる加護を願う、我ら一族の大事な祭りぞ。おのれらに多少なりとも良識というものがあるならば、部外者たるの分を心得、邪魔とならぬよう慎みおるべきであろう。にもかかわらず、その小童こわっぱが神社の脇の藪に潜んでいたは何故じゃ? 化け物めが、我らの聖域を土足で荒し、神事を邪魔立てするつもりだったか?」


 二緒子が、驚いたように腕の中の幼子に視線を向ける。

 三朗も同じだった。

 この里へ移住させられた日から、人であれ真那世まなせであれ、兄姉以外の他者を恐れている四輝が、知らない間に邸を抜け出していただけでも驚きなのに、一人で神社まで行っていたとは。


「――四輝?」

「な、何も、してない」


 姉の呼びかけに、泣くこともできないほど怯えた顔で、四輝は小さく首を振った。


「た、ただ、聞きたかった、だけ」

「聞きたかった? 何を?」

「綺麗な音。ぴーら、ぴーらら、って……」


 三朗と二緒子は顔を見合わせた。


「笛のこと? 神楽かぐらのお囃子の」

「そうみたいね」


 八手一族の祖神を祀る神社は、水守家の邸の斜向かいにある御館みたちから少し山腹を登った先の高台にある。

 よって、祭りの喧騒や奉納されている神楽の音などは、朝から水守家にも届いていたが。


 こくり、と息を呑んで、三朗と二緒子は、同時に、玄関先の闖入者たちに視線を向けた。


「その、四輝が、大事なお祭りを邪魔したなら、ごめんなさい」


 四輝を抱きしめたまま、三和土に両膝をついた二緒子が、深く腰を折った。


「でも、小さい子が楽の音に誘われただけなんです。悪気があった訳じゃありません。どうか、赦して下さい」

「お願いします」


 その傍らに立って、三朗も一緒になって頭を下げた。

 だが。


「赦せないねえ」


 そんな声と共に、女性の背後から一人の少年がひょいと顔をのぞかせた。

 年の頃は十歳前後。癖のある栗色がかった髪を首の後ろで一つに束ね、一見して高級品とわかる派手な緋色の水干を、寸分の乱れもなくぴったりと着こなしている。

 小柄で愛らしい童顔の持ち主だが、今、その顔にはどす黒い感情が染みのように広がっていた。


「余所者の化け物が聖域を、まして神聖なる祭りを侵すは、言語道断。そのちびを見つけた娘衆が悲鳴を上げて大騒ぎしたもんだから、重要な神饌しんせんの儀が危うく中断されるところだったんだぞ。詫び言程度で済む筈がないだろう?」

「――琳太郎りんたろう


 またお前か、という気分で、三朗は頭を下げた姿勢のまま、上目遣いにその顔を睨みつけた。


 少年の名は、多生たき琳太郎りんたろうといった。

 三朗と同い年で、移住と同時に放り込まれた八手の里の学堂では、学問でも武術でもほぼ常に学年で一位という優等生だ。

 そして、おそらく、学堂の子供たちの中で、誰よりも水守家を憎み、怨むに足る理由を持っている少年だった。


「ねえ、伯母上?」

「如何にも」


 けしかけるように見上げた少年の視線に、打掛姿の女性もまた冷たく嗤った。


「懲罰が必要じゃな」

「鞭打ち? 入牢? ああ、神楽が聞きたかったなら、祭りが終わるまで、縛り上げて神社の裏手にでも吊るしておく?」

「それも良いのう」


 楽し気な会話に、弾かれたように顔を上げた二緒子が、腕の中の四輝を全身で庇った。同時に、三朗はその前に飛び出して、両手を広げた。


「逆らう気か?」


 女性が、更に冷たく嗤った。


「ならば、おのれらもまとめて処罰するまでじゃぞ」


 軽く顎をしゃくる。それを受けて、周囲の男たちが、それぞれの手に握っている剣や長棒などを振り上げながら、玄関の中に踏み込んできた。


「姉上と四輝に近づくな!」


 この里へ来て一年半。

 嫌がらせなど日常茶飯事ではあったが、流石にここまで酷いものは初めてだった。

 こらえきれず、三朗が、右手に閃かせたままだった神剣を振りかざそうとした時だった。

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