10 手を差し伸べたのは

「では、英照えいしょうゆかり姫と三室みむろ殿を麓までお連れしてくれ」


 お説教が終わったところで、子雲しうんが言った。


透哉とうやは、私が宿坊まで送ろう」

「見張りなんて付けなくても、ちゃんと戻るわよ?」


 紫が両腕を組んだ。


「そこまで信用ない?」

「そうではなくて――」

「お前さんらの熱烈な『逢瀬』の気配が、西岳せいがくまで伝わっておらぬとも限らんじゃろう」


 首を振りかけた子雲の横で、英照が言った。


賀雀院がじゃくいんの方は、わしらが出てくる前に触れを回しておいたから、義遠ぎえん律師以外の者が出て来る恐れはなかろうが、西岳の永泰院えいたいいんから様子を見に来ていたら何とする。永泰院の舜寛しゅんかん僧都そうずは、あのハゲのようにそうそう簡単に誤魔化されてはくれんぞ」


 紫が、なるほど、という顔になった。


「つまり、永泰院の連中に見つかったら、英照殿を差し出しておいて、私たちは逃げたらいいのね?」

「差し出すとは何じゃ⁉ そうならんように、わしが抜け道を案内すると言うとるんじゃ」

「あー、なるほど。夜遊び名人御用達の抜け道なら、誰にも見つからなさそうね」

「おお、大船に乗ったつもりでついてくると良いぞ」


「――紫姫、次に来られた時、その道順を詳しく教えてくれ」


 ふんぞり返った英照を、子雲が横目で睨んだ。


「後日、『迷宮』にしておくのでな」

「ええっ。それは酷いぞ、師兄しけい!」


 英照が飛び上がった。


「『迷宮』って、結界で切り取った空間の内部を積み木遊びみたいに組み換えて文字通りの迷路にしちゃうって技よね」


 紫が目を輝かせた。


「本来は、妖種ようしゅを誘い込んで、閉じ込めておく為のものでしょ? 人の場合でも、自力で迷路を読み解けず、術者にも出してもらえなかったら、衰弱死するまで迷い続けるしかないっていう、えげつない術」

「そうじゃ。『護法童子ごほうどうじ』と並んで、高台宗こうだいしゅうの法術の中でも最難度の術ゆえ、毘山びざんでも使いこなせる者はごく少数。中でも、師兄は一番の使い手じゃから」


 頷いた英照が、わなわなと両手を震わせた。


「せっかく夜遊びに繰り出しても、その『迷宮』を毎回毎回突破していたら、遊ぶ時間なぞ無くなってしまう!」

「気にするのはそこ?」


 閉じ込められっぱなしになったらどうしよう、ではないところが。


「――英照殿らしいと言えば、らしいけどな」

「――まあ、子雲様が、英照殿が衰弱死するまで閉じ込めておくとも思えませんから」

「――何それ、面白そう。詩子うたこもやってみたい!」

「そうよねえ。『迷宮』もまだ見せてもらったことがないわよね」

「おう。じゃあ、今度、一緒に入ってみるか?」


 遊び場と勘違いしている気楽さで、英照が言った。


「師兄の『迷宮』はお前さんたちの結界と同じくらいおっそろしく緻密で複雑怪奇じゃが、どうしても生来の几帳面さと善良さが滲んで、きちんと理屈を辿って時間をかけたら読み解けるようになっておるからな。これが慈恵じけい僧正様になると、意外と腹黒いところが顕れて、結構陰険な造りになっておるのじゃが」

「それ褒めてるの? 貶してるの?」

「何を言う! 褒めとるに決まっとるではないか! わしの師父と師兄じゃぞ?」

「だって、子雲様、良かったわね」

「――ならば、腕によりをかけて構築しておくとしよう」


 どっと疲れたという顔になった子雲を、透哉と柾木まさきが気の毒そうに見やった。


「では、紫姫、三室殿、私たちはここで失礼する。透哉、戻るぞ」

「あ――はい」


 子雲の促しに、透哉は、やはり素直に頷いた。


「じゃあ、紫たち、三室殿も、また。色々、ありがとう」


 片手を挙げて挨拶を寄越し、師の後を追っていく。ちょっと様子を伺うような表情で一歩後ろにつき、森の中の道なき道を歩き始める。


「透哉、明日の午後なら時間が取れるから、第三修練場へ来なさい」


 そんな透哉をちらりと見やって、子雲が言った。


「次の修行までに他の者たちに追いつけるよう、『じょうえん炎』の補講をしておこう」

「え? あ――はい!」


 どこかまだ不安げだった顔が、子雲がの言葉にぱっと輝いた。


「あ、でも、明日の午後は、俺、大講堂の掃除当番で」

「――そのくらい、わしが代わってやる」


 後ろから、英照が呼びかけた。


「あのハゲでも文句の付けようがないぐらいぴっかぴかにしておいてやるから、お前さんは、この三か月分の修行をしっかりつけてもらえ。きつくても音を上げるなよ」

「だ、誰が! 俺は、いつもぼやいてばかりの師兄とは違いますから!」


 憤然と応じてから、最後に小声で、『ありがとうございます』と付け加える。

 その眼差しからは急速に憂いや翳りが薄らぎ、代わりに、ほっと安心したような明るい表情が滲んでいた。


「嬉しそうな顔しちゃって」

「――透哉って、本当に子雲様が好きだよな」

「――英照殿には塩対応ですのにね」

「――あはははは」

「塩対応は余計じゃが」


 紫と『姉』たちの言葉に、英照が肩を竦めた。


「奥東方の村で助けてからしばらく、あの子は喋りもしなければ笑いもしなかった。こちらの指示は理解してその通りに動くが、指示しなければ何もしない。あの髪の色といい、よほど恐ろしい目に遭ったのじゃろうなあ。まあ、その時のことは、未だにわしにも師兄にも話さんが」

「あ――話してないんだ」

「ん?」

「ううん。何でもない」

「そんな透哉を、師兄はしばらく手元に引き取って、親子のように面倒を見ていたからのう。それでも、あいつがああやって喋ったり、少しでも笑ったりするようになるまでには、一年近くかかったが」

「親子――か」


 両腕を組んで、紫はふと英照の視線を追った。後ろをついて来る少年に、威厳と優しさとが同居している表情で受け答えをしている男の顔を見やる。


「そう言われれば、背格好とか雰囲気とか、ちょっと似てるかしらね……」

「ん?」

「何でもないったら。さ、すっかり遅くなっちゃったし、こっちもさっさと行きましょ」

「――紫姫」


 踵を返した少女の背に、少しばかり硬質化した青年の声が弾けた。


「お前さんたちは、わしが引き合わせた時より前から、透哉のことを知っておったな?」


 歩き出そうとしていた紫の足が、ぴたりと止まった。


「何のこと?」

「透哉は、初めて法術の指南を受けた時から、霊力の使い方が図抜けて上手かった。大講堂始まって以来の秀才と謳われたこのわしですら三月はかかった霊力の物質化を、あいつはたった三日で実現させおったからな。まあ、じゃからこそ、あのハゲや、身分意識に凝り固まっておる貴族家出身の門弟たちにやっかまれて、目をつけられた訳じゃが」

「つまり、透哉はあなた以上の天才だったってこと?」

「いや、それはちと違うな」


 少しばかり皮肉気に言った紫に、英照は大まじめに首を振った。


「もともと優秀であることも、それを努力で底上げすることができる子なのも確かじゃが、あれは、以前にどこぞで霊力の使い方を基礎からきちんと学んだことがあるのじゃと、わしも師兄も踏んでおった。実際、当たりじゃったな。さっき透哉がお前さんらに使ったあれ――空間を固定する技――あれは、高台宗は勿論、おぬしら神狩かがり一族の技でもなかろ?」

「ってことは、少し前から見ていたのね?」

「まあな」


 肩越しに睨んだ紫に頷いて、英照は口調を改める。


「お前さんたち、透哉がどこぞの術者の子であることを知っておったのではないか? 以前に逢ったことがあるとか」

「違うわ。初対面よ」


 嘘ではない。


「どうして、そんな風に思ったの?」

「わしは、お前さんたちを過小評価はしとらんつもりじゃからな」


 英照が、片手で後ろ髪をかき回した。


「透哉は、まだまだ不安定なところが多くて、感情の方がいっぱいいっぱいになると目の前のことしか見えなくなる。じゃから、気が回らなかったのも無理はないが、お前さんたちの方は、密会現場を義遠律師に押さえられれば、透哉はまず間違いなく毘山から放り出されることになると、わかっておったろう? そして、もし本気でその事態を避けようと思うなら、お前さん方は、ちゃんと得意の結界を張っておった筈」

「だから、それは」

「詩子姫に『待て』をさせるのが大変なのは、わしも知っておるがな。それでも、行動の決定権はお前さんが握っておる筈じゃろ、紫姫」


 人の良い笑顔の奥で、眼光が針先のように窄まった。


「今夜に限って結界を張らずにいたのは、お前さんの判断の筈じゃ。それは、むしろそうなることを狙っておったからか? 透哉を放逐に追い込んで、神狩一族に引き入れるつもりじゃった?」

「人聞きの悪いことを言わないでよ」


 息を吐いて、紫は英照に背を向けたまま、首を振った。


「勿論、本当にそんなことになっちゃって、透哉がうちに来たいって言うなら、喜んで迎えてあげるけど。そんな罠にはめるような真似、する訳がないでしょ。今夜は、本当にうっかりしただけよ」

「――信じたいと思っておるよ」


 再び、英照が大きく息を吐いた。


「わしは、神狩一族や九条家の事情に口を突っ込む気はない。そんな義理も権利もないからな。ただ、お前さんたちとは良い関係で居たいと思っておるし、お前さんたちの方も、わしらに対して同じように思ってくれておると信じておる。じゃから、透哉に――方法としては問題があったが――手を差し延べたのは、純粋にあいつの孤独を慮ってくれたのじゃと信じたい。あいつを懐柔して利用するような意図はなかった、とな」


 黙りこくっている柾木が、ちらりと紫を見やる。


「周囲に異物扱いされて、遠巻きにされて、独りでぽつんとしている時の気持ちなら、私たちはよく知っているから」


 振り返らぬまま、紫は言った。


「それに、私たちは、英照殿も子雲様も好きよ。神祇頭じんぎのかみや九条のお兄様より、よっぽどね。だから、そのお二人の大事な弟子である透哉を勝手に利用するなんて、やる訳ないでしょ」

「そうか。なら、今の話は忘れてくれ」


 ゆっくりと頷いて、英照は、ぱんぱんと両手を軽く打ち合わせた。


「では、行くか。山あり谷ありの悪路じゃが、お姫様の足で、ちゃんとついて来られるかのう?」


 いつも通りの明るい口調で言いながら、先に立つ。


「――莫迦にしないでよ」


 その背をつかの間見つめてから、紫も同じようにいつもの口調で応じ、歩き出した。

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