9 透哉の願いー2

「そういったことがあった今でも、そなたは毘山びざんの法師になりたいと思っているか?」


 そう、子雲しうん透哉とうやに問いかけた。


「我らに拾われた後、そなたが毘山の直弟子になったのは、他に行く宛もやりたいこともなかったから、という理由だったであろう? だが今、そなたは、『人に仇なす異形を滅する』という望みを口にするようになった。しかし、それは高台宗こうだいしゅうではなく、神狩かがり一族でも叶う望みだ」

「え……」

「我ら高台宗の法師にとって、悪鬼羅刹あっきらせつ――秋津洲あきつしま古来の言い方で言えば妖種ようしゅ――を滅することは、この世の苦しみを解いて人々に『高台こうだい』へ至る『道』を示す為の、言わば手段の一つに過ぎない。一方、神狩一族にとって、妖種の滅殺は目的だ。となれば、そなたの望みには、神狩一族の在り方の方が合致していると言えなくもない」


 透哉が弾かれたように顔を上げた。


「子雲様……」

「たった二か月で三室みむろ殿の技を習得したなら、そなたは神狩一族の術者としても十分やっていけよう。毘山がそなたを裏切り、失望させたなら、むしろその方が――」

「いいえ!」


 弾かれたように、少年が叫んだ。


「俺は、その、確かに、ゆかりたちや三室殿との修行は楽しかったけど、でも、そんなことは考えていません! 俺は毘山に、子雲様の下に居たいと思っています!」


 上擦った声で叫ぶと、そのまま平伏する勢いで頭を下げた。


「勝手なことをして、本当に申し訳ありません。もう二度としませんから、どうか、追い出したりしないでください」


 深く下げられた頭に、身体の両脇で固められた拳に、必死の雰囲気が滲んでいる。無音の悲鳴が、大気を軋ませるようだった。


 子雲と英照えいしょうが、ちらと眸を見交わした。


「――ならば、約束して欲しい。今度このようなことがあれば、遠慮などせずに、私なり英照なりに相談する、と」


 吐息と共に、子雲が言った。


慈恵じけい様も同じことを仰る筈だ。我々には、門弟たちを護り、導く責任がある。高位の僧階にありながら、その地位や職責を濫用する者が居るなら、それを正す責任もだ。知らされたとて、迷惑などと思いはしない。いや、むしろ知らずにいた方が、己れを赦せずにいるところだ」

「つまりな、透哉、お前さんも、気遣いの方向性が完全に逆じゃ」


 腕を組んで、英照が溜息を吐いた。


「僧正様や師兄を煩わせるまいと黙って我慢を続け、その我慢が効かなくなったからと他所に憂さ晴らしを求めても、何も解決せん。特に、わしやお前さんのように、血筋だの家柄だのという盾を持たぬ者は、どれほど莫迦々しくとも、規律として決まっていることは守っておかねばならん。あのハゲのような輩に、付け入る隙を与えぬようにな」

「――三戒さんかい破り常習犯のあなたが言っても、あまり説得力はないけどね」

「三戒は、『欲望に溺れるな』という自律の奨励の例に過ぎん。女、酒、賭博が一番道を踏み外しやすいというだけの話で、何が何でも絶対に禁止、という教義上の禁忌ではない」


 ぼそりと指摘した紫に、英照はむしろ胸を張って見せた。


「つまり、節度を保って嗜む分には構わんのじゃ。大体、三戒を禁忌になぞしてみい。高台宗の法師は半分以上居なくなってしまうわ」


 拳を固めて力説してから、一転してまじめな顔になる。


「じゃが、その言い分が通るのは、成人と卒堂を済ませて、自分で自分の責任が取れる一人前になってからのこと」


 身体的にも精神的にも未熟な子供が、下手に過激な誘惑に触れて溺れてしまっては、大変なことになる。

 故に、修行中の見習い法師たちに対しては、三戒を含め、多くの制約が課されている。


「じゃから、わしは見習いの時分に、三戒はもちろん、他の規律も破ったことはないぞ。そうすることが正しいと思っていたというよりは、規律の類を他者を攻撃する為の材料としか思っていない連中が現実に居る以上、そんな莫迦どもに足元を掬われるのが嫌だっただけじゃ」

「はい……。ごめんなさい」


 今にも消え入りそうな声で、透哉はさらに頭を下げた。


「もう、紫たちとも逢わないようにしますから」

「――ええーっ‼」

詩子うたこ、煩い」


 大声を上げた『姉』を嗜めて、紫が腕を組んだ。


「仕方ないでしょ。現場を押さえられちゃった訳だし、神祇頭じんぎのかみに話が行ったら、私たちも当分は監視の目が強くなって、秋月の荘から出られなくなるわよ」

「――紫姫、確かに色々と問題はあったが、あなた方の行動が透哉への思いやりだったことはわかった」


 子雲が、紫に視線を向けた。


賀雀院がじゃくいんの失態に関しては、言葉もない。だから、私も英照も居なかった間、あなた方が透哉を気遣い、この子を独りにせずにいてくれたことには、感謝する」

「やっぱり話せるわねえ、子雲様は」


 紫がにこりと笑った。


「しかし、『夜這い』は頂けない」


 だが、子雲はぴしりと釘を刺す。


「透哉との付き合いを咎めはしないが、それならば、これまで同様、きちんと日中、表門から訪ねて来られよ。勿論、神祇頭殿や秋月殿らのご了承を前提の上で、だ」

「神祇頭なんかどうでもいいけど――って、え? 来てもいいの?」


 紫が目を瞬き、透哉もハッと顔を上げた。


「でも、毘山の直弟子が神狩一族の技を教わってたなんて、ばれたら騒ぎにならない?」

「騒ぐものは騒ぐだろうが、高台の御教えを本道と弁えた上でのことなら、他派の思想や技を知ること自体は、悪いことではない。かつて、慈恵僧正様もそう仰って、私がある神狩一族の術者と親しくなった時も、咎め立てはなさらなかった」


 言いながら、子雲の手が、法衣の袂から真四角に切った紙を抜き出した。


「あら、それ」


 紫が目を丸くした。


 子雲は、それを口元に近付けて何かを呟いてから、手早く鶴の形に折り、ひょいと空に放った。

 すると、折り紙の鶴は、自ら羽を動かして英照の前まで飛んで行き、彼が反射的に伸ばした手の上に止まった。


 途端に。


『問題児の自覚があるなら少しは行状を改めんか! この莫迦弟子が!』


 折り鶴は小さな光を放って弾けると、子雲自身の声で、四方八方に大音声を響かせた。


「何でここでわしが叱られとるんじゃ?」

「日頃の行いだわねえ」


 片手で耳を押さえてひっくり返り、盛大なぼやき声を上げた英照に一瞥を投げてから、紫は視線を巡らせた。


「今の、神狩一族の『言霊ことだま』よね、子雲様。自分でも他人でも、とにかく声を記録して、指示した相手のもとまで飛ばした後、再現させる術」

「二十年ほど前、まだ賀雀院の律師であられた頃の慈恵様を、度々訊ねて来られる神狩の術者が居てな」


 当時、子雲は今の透哉と同じ年ごろで、慈恵の教場に在籍する見習い法師の一人だった。そこで件の術者と何度か対面し、透哉同様、高台宗とは異なる流派の術理に興味を示した。

 するとその術者も、柾木まさき同様、この程度なら秘儀の漏洩には当たらないからと言って、この『言霊』の術を教えてくれたのだという。


「おかげで、伝言――特に、一度ふらりと出て行ったらろくに繋ぎも寄越さない莫迦との連絡手段として重宝している」

「三日ほど花街にしけこんでいた時、いきなり枕元でさっきみたいに怒鳴られた時は、本気で天井まで飛び上がったものじゃ……」


 よっこらしょと立ち上がりながら、しみじみと溜息を吐いた英照を、柾木が心底気の毒そうな顔で見やった。


「慈恵様を訊ねてって、『術試合』に?」

「いや、その御方は高台の教えに興味を持って、慈恵様の説法を聞きに来ておられたのだ」

「そんな神狩の術者がいたの?」


 紫が目をぱちくりとさせた。


「神狩の術者にとって、『神』とは、一族の開祖たる時任速比古ときとうはやひこのことだから。今更、異国の神々や、その神々に唯一近付いたという高台宗の開祖――仏の救いなど求めはしない、って者が大半なのに」


 ただ、今や高台宗の教義は、帝や貴族たちの間における基礎教養になっている。

 だから、常盤台ときわだいに官吏の席を持つ神狩一族は、最低限の知識としてそれらを蓄えてはいる。


「けど、それなら、瑞籬宮みずがきのみやの書庫から教本の類を借りてくれば済む話。信者でもないのに、わざわざ洛中からこの毘山まで説法を聞きに来るなんて」

「何を正義とし、何を信じるかは、人それぞれだ。だが、それは、異なる思想、異なる価値観を知る必要はない、ということではない。むしろ、自分が信じるものだけに固執しすぎることは、視野を狭め、他者への非寛容を増大させる」


 紫を見やった子雲の双眸が、ふと細められた。


「他者を知ることは、教典の熟読や法術の修行以上に得難き学びとなるものなのだよ。だから、透哉とそなたが互いに良い影響を得るなら、交わりを断とうとは思わない」


 だが――と、少しだけ眦を険しくして、透哉に視線を移す。


「日中の講義や法術の修行、雑役をこなしながら、夜中に別系統の技の修行などしていては、そなたはいつ休むのだ。高台の御教えを本道とするならば、寄り道で身体を壊しては、元も子もない」

「え? あ……」

「今回の件は、義遠ぎえん律師を始め、賀雀院の非の方が大であれば、そなたの規律違反については不問とする。だが、自らの意志で毘山に留まるなら、二度目はないぞ」

「は、はいっ」


 透哉がぴょこりと背を伸ばし、直立不動の姿勢を取った。


「紫姫もだ。如何に九条家最強の術者であろうと、そなたもまだ、よく食べ、よく学び、そして、よく眠るべき年頃だ。今更、貴族の子女たる者がどうこうなどとは言わぬが、少しは自重されよ。あまり滅茶苦茶な生活をしていては、損なわれるのは御身自身だ」

「わかったわよ」


 それが、上から押さえつける類の物言いであれば、少年はともかく、少女は反発しただろう。

 だが、厳しい口調の底には、他者が聞いてもそれとわかる本心からの忠告の気配がある。規律違反を咎めるより何より、子供たちの体調や健康をこそ心配しているのだ、と。

 だからこそ、紫もまた、そっぽを向きながらではあっても、頷いた。


「相変わらず、お節介なんだから」


 尤も、一言付け加えるのも忘れない。


「如何にも。高台宗の教義とは突き詰めれば『衆生救済』なのだから、究極のお節介だ」


 そして、子雲がそれをさらっと受け流すのも、いつものことだった。

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