8 透哉の願いー1

「――申し訳ありません、子雲しうん師父しふ英照えいしょう師兄しけい


 義遠ぎえんたちの姿が見えなくなり、霊気も感じられなくなったところで、透哉とうやが身を縮めるようにして、頭を下げた。


「ご迷惑をおかけしました」

「全くじゃ」


 溜息と共に、英照が、固めた拳をこつんと透哉の頭に当てた。


慈恵じけい様に帰山の挨拶を済ませて賀雀院がじゃくいんまで戻ってきたら、魚名うおなが義遠律師の取り巻き法師どもに連れられて、奴さんの庵へ入って行くのを見たのでな。何じゃらほいと思って軒下に忍び寄ってみれば、お前が宿坊を抜け出して山の方へ行った、と言う。危うく腰を抜かすところだったぞ」


「魚名って誰?」


 額に張り付けられていたお札をはがして、ゆかり柾木まさきと共に古木の後ろから出て行った。


「清水魚名。右大将清水朝狩あさかり卿の子で、透哉と同じ、子雲師兄の教場の弟子じゃよ」

「――清水?」


 紫の双眸が、ふと煌めいた。


「大納言今泉広庭いまいずみひろにわ卿の腰巾着の? その息子が、あのハゲに密告したの?」

「義遠律師は、その今泉大納言の弟じゃからな。実家の名を出されたら、魚名では逆らえんよ」

「でも、高台宗こうだいしゅうの教義によれば、僧門の内側は、そういう俗世のうんたらかんたらとは縁を切った者たちの聖なる地、なんじゃなかった?」


 紫が、皮肉げな笑みを灯らせる。


「だから、浄界じょうかいって言うんでしょ?」

「同じ思想を地盤としていようと、正義や価値観の幅というものは人によって違うからのう。ま、高台宗に限らず、どこの何の集団でも、掲げる理想を理想のままにせず、現実に近づけようと努力しておる者もおれば、都合の良い時だけ振りかざすお題目としか思っておらん勘違い野郎もおるものさ」


 英照が肩を竦めた。


「で、そういう輩の迷惑を被るのは、いつも下の者じゃ。魚名も然り。義遠律師の庵から出てきたところをとっ捕まえたら、やっと帰って来てくれたんですか、って泣き出してなあ。慈恵様がご病臥中で、子雲師兄が毘山びざんを離れていた間、あのハゲが何をやらかしたか、全部話してくれた。奴に言われるまま、透哉に嫌がらせをしたり、密偵の真似事をしていたりしたことも、全部な」

「魚名、が?」


 透哉が目を見開いた。


「本当は嫌だったようじゃぞ。魚名だけじゃなく、教場の他の連中もな。だから、このところお前さんが何度か宿坊を抜け出しておるのは知っておったが、皆で口裏を合わせて、今日までは何とか誤魔化しておったらしい」

「えっ?」

「ただ、今夜はお前さん方が結界も張らずにぼかすかやっておった所為で、勘のいい奴が気付いたようでな。問い詰められては、流石にどうにもならんかったようじゃ」


「調子のいい奴ね」


 透哉は息を呑んだが、紫の方は冷笑した。


「本当は嫌だったけど、強い者に言われたから仕方なく嫌がらせに加担した。その罪悪感を紛らわせる為にこそこそ庇ってみたりもしたけど、気付かれたら仕方ないから密告した。そんなの、あっちにもこっちにもいい顔をしたいってだけじゃない」

「弱い立場の者の悩みや苦しみをそのように言うのは、あまり感心せんな」


 英照の口調が少し厳しくなった。


「保身を顧みず強者に逆らえる者など、そうは居らん。それでも、魚名たちがこそこそとでも今日まで透哉を庇っておらなんだら、とんでもないことになっておったぞ。わかっておるのか?」

「嫌がらせが酷くなった?」

「それで済むか。義遠律師に密会現場を押さえられておったら、お前さんたちは毘山の直弟子を誑かした羅刹女らせつじょ扱いされて神祇頭じんぎのかみに突き出されておったろうし、透哉は最悪、見習いの籍を剥奪されて、放逐の憂き目に遭っておったぞ」

「あのハゲにそこまで出来る?」


 ぎくりと両眼を見開いた透哉をちらりと見やって、紫は小首を傾げた。


「私たちはともかく、透哉は子雲様の教場の弟子なんだから」

「忘れたか? 律師には、他所の教場の弟子であっても、素行不良を見つけたなら取り締まり、懲罰を課したり、矯正の余地なしとして毘山からの放逐を上の者たちに進言したりできる権限がある」


 最終的に放逐の是非を決めるのは座主である僧正の判断になるが、一度その進言がなされれば、告発された見習いは、それぞれの院のまとめ役である僧都そうずたちに呼び出され、審問を受けることになる。


「講義や修行をさぼっただの門限を破っただのならまだしも、教場の律師の留守中に夜中に宿坊から抜け出し、不法侵入の女性と密会していた現場を押さえられたとあってはなあ。僧都たちが揃って、毘山の直弟子に相応しからずと烙印を押せば、慈恵様でも庇いようがない」

「だから、変な言い方しないでよ! 何も疚しいことはしてないって!」

「問題はお前さんたちの主観ではないわ! 義遠律師のような――要は、門弟たちの素行を見張る目的が、過ちを正して道を示すことではなく、ただ単に立場を利用して気に入らん者を痛めつけることになっておる人間が、この状況をどう考えるか、いや、どう利用しようとするか、ということじゃ!」


「ええと、一応、その為に私が居るのですが」


 柾木が、遠慮がちに片手を挙げた。


「そこは、疚しいことはないという証人として同行するのではなく、姫君方の『夜這い』そのものを止めさせて欲しかったのう、三室みむろ殿」


 じろ、と英照が柾木を睨んだ。


「大体、毘山の山門が閉じた後で勝手に侵入していたこと自体、既に『疚しい』ことじゃろが」


 毘山の表玄関である山門は、日の出と共に開けられ、日の入りと共に閉められる。

 門扉が開いている間は、老若男女貴賤を問わず出入り自由であるが、門扉が閉じられた後は、法師たちによる結界が、敷地全体を覆うように張り巡らされることになっている。


 よって、夜間にどうしても毘山を訪ねたい者は、山門で不寝番をしている戦法師たちに訪問先と目的を明らかにして、入れて貰わなければならないのだが。


「試みにお尋ねしますが、姫様方が規律通りに山門をお訪ねしたとして、『見習い法師を夜遊びに連れ出す為』という理由は、認められましょうか」

「――無理があるな」

「そうでしょう?」

「じゃから、結界を破って侵入したという方が、何倍も無理があるわ!」

「姫様方なら、張り手たちに気取られぬよう、結界を構築する構造体を破壊することなく、微細な隙間をちょっと広げて忍び込むことが可能ですから」

「相変わらず大したもんじゃ! しかし、できることは、やって良いことではないんじゃぞ!」


「柾木を怒らないでよ。私たちがどうしてもってお願いしたんだから」


 紫が割って入った。


「わかったわよ。確かに、結界破りは悪かったわよ。けど、じゃあ、英照殿も子雲様も居ない間、透哉を放っておけば良かったって言うの?」


 両腕を組み、まるっきり悪びれることなく、肩をそびやかせる。


「大体、あの時、私たちが行き会わせていなかったら、透哉はとっくに毘山から放り出されていたわよ」

「あの時?」

「去年の秋、英照殿に透哉と引き合わされたでしょ。その後、九条家から迎えが来ちゃったものだから、私たちは一度、洛中に戻ったじゃない」


 そこで、紫たちは待ち構えていた兄からねっとりとお説教を食らった後、大叔父、つまり、母方の祖母である苑江そのえの弟で、央城神狩おうきかがりの重鎮の一人でもある秋月永嗣あきづきながつぐが治める秋月の荘への蟄居を命じられた。


 その秋月の荘は、央城の北の郊外、つまり、どちらかと言えば、洛中より毘山に近い位置にある。


 しかし、鬼堂家が、母、天音あまねに手を伸ばしてくる可能性について触れられ、『君の所為なんだから、母君の身辺警護をよろしくね』などと言われてしまえば、紫としても反論のしようがない。

 そこで、五か月ほどは、秋月の邸からすら殆ど出ず、母の傍で大人しく過ごしていたのだが。


「お母様の傍に居られるのは嬉しいけど、ずっとお邸の中じゃ流石に息が詰まっちゃう――と思っていたら、秋月の荘に妖種ようしゅが出てね。捕まえてみたら、これがお母様の護衛にうってつけの『使』になってくれたのよ。『金華きんか』って名前にしたから、そのうち紹介するわね」


 また、年が改まってすぐ、鍵崎亨かぎさきとおるが予定通りの国へ赴き、鬼堂家や真垣まがきの様子を九条家に伝えてきた。

 それによれば、鬼堂家は鬼堂家で色々と体制を立て直すのに必死で、今のところ天音に触手を伸ばしてくるような余裕は無さそうだ、ということだった。


「それで、久しぶりに英照殿に『力比べ』の相手をしてもらおうと思って、賀雀院にお邪魔したの。あ、勿論、ちゃんと昼間、表の山門から訪ねたわよ」


 それが、今から二か月ほど前のことである。


「そしたら、英照殿は年末に南方の寺院領へ派遣されて、まだ当分戻らないって言われて。慈恵様は、年明け早々に風邪をこじらせて、ご病臥中。子雲様も、急遽、その慈恵様の代理で新年の祭事の為に西国の末寺を回ることになった貞海ていかい僧都のお供に選ばれたものだから、やっぱりお留守」

「――他にうちらの相手をしてくれるような物好きは居ないし、仕方ないから帰ろうとした時に、透哉が複数の見習い法師たちに殴る蹴るされていたところに行き会ったんだよ」

「――しかも、あのハゲ様ときたら、その場に居るのに止めないんですよ。それどころか、暴行している弟子たちをけしかけてさえいたんです」

「――ハゲ様は止めろよ、如子ゆきこ。笑えてくるから。とにかく、その場は柾木が割って入って、止めてくれたんだけど」

「――あんまり酷かったものですから、慈恵様に言いましょうって申し上げたんです。けど、透哉さんたら、余計なことはしなくていいって仰ったんですよ。病人を煩わせて、悪化したりしたらいけないから、と」

「じゃあ、子雲様か英照殿に伝言を送ろうか、って言ったのよ」


 紫が、希与子きよこと如子の説明の後を引き取った。


「こんなことになっているって知ったら、あのお二人ならきっと何とかしてくれるから、って。でも、それも却下されてね。師父も師兄も大事なお役目に出ているのだから、迷惑をかけたくない。自分が我慢すればいい話だからって」


 子雲と英照が、揃って透哉を見た。


「でもねえ、見るからに疲れて、心にひびが入ったような顔をしてたのよね。大体、柾木が止めに入らなきゃ、透哉、あの場であのハゲを殴ってたわよ、きっと」

「――それは、紫たちの勘違いだ」


 俯いたまま、透哉がぼそりと言った。


「確かに、あの時は、腹が立ちすぎてちょっと訳がわからなくなりかけてたけど、止められなくてもやらなかったよ」

「嘘。焦点が散っちゃってたくせに」

「――無理ないよ。あのハゲ、うちらでも気分が悪くなるようなことを言ってたからさ」

「――『下民の分際で僧階そうかいを得ようなどとは片腹痛い』でしたかしら」

「――『その程度の秩序も弁えないとは、親もさぞ無分別なろくでなしだったのだろうな』とも言ってたっけ」

「――『戦に巻き込まれたそうだが、死んで正解だったな』とも仰っていましたわ」


 瞬間、透哉の奥歯が軋むような音を立て、双眸に暗い翳りが渦を巻いた。


「でも、それでも、見習いが律師を殴ったら、そこで終わりでしょ。だから、憂さは別の方法で晴らしたら? って、言ったのよ」

「――お前さんたちが、透哉を気遣ってくれたことはわかった」


 俯いたままの少年を見やって、英照が片手で後ろ髪を掻き回した。


「じゃが、その結果が夜中の不法侵入じゃ、気遣いの方向が一周回って明後日の方向に飛んでいっているとは思わんかったか?」

「だって、毘山の直弟子は、大講堂での講義に修行に日々の雑役が目白押しで、昼間に抜け出すような暇はないでしょ? 気晴らしをするなら、夜しかないじゃない。でも、最初は、本当にちょっと散歩するだけのつもりだったのよ」

「――でも、そこで寝ぼけ熊に出くわしちゃってさ」

「――それそのものは、柾木さんが一発で仕留めてくれたのですけれど」

「――そこで、透哉のおめめがきらきらになってねえ」

「それで柾木が、三室家の身体強化の術は、別に門外不出の秘儀って訳じゃないし、学びたいなら教えてあげてもいいって言ったから」


 強くなりたいという強い願いを抱きながら、二、三か月もの間、下らない男の下らない嫌がらせに遭って、その為の知識や技術を学ばせてもらえないという状況に置かれていた訳である。

 そんな透哉にしてみれば、学びたいなら学ばせてくれるという柾木の申し出は、さぞありがたく、一種の救いともなったことだろう。


「夜間の脱走も、結界を破って侵入した私たちと逢っていたことも、規律違反の素行不良と言われればその通りだろうけど、最初に透哉を裏切ったのはあのハゲと、あいつを諫めることも止めることもしなかった賀雀院の連中だからね」


 両手を腰に当てて堂々と言った紫に、英照が溜息を吐いた。


「透哉」


 その横で、子雲が静かな眼差しを少年に向けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る