2 鬼堂数馬という術者ー2

 拘束されているカモノハシのくちばしの隙間から、くぐもった絶叫が響く。

 断末魔の喘ぎが、消滅の際の足掻きが、撃ち抜かれた妖珠ようじゅから最期の妖力を噴出させた。


 存在の輪郭を崩しながらも、カモノハシが、ぶんっ、と短い首を振る。

 嘴を拘束していた甲斐源七郎かいげんしちろう伊吹椎菜いぶきしいなを跳ね上げ、更に、巨大な尾と身体を捻るようにして、二緒子におこの水流を、四肢を拘束していた八手一族の『繰糸くりいと』の全てを、振り払った。


「うおっ⁉」

「――きゃっ」


 二番組の戎士じゅうしたちは、不意を突かれて弾かれながらも、咄嗟に手元から『繰糸』を切り離して、吹き飛ばされることを避けた。


 だが、『えき』に出るようになってまだやっと半年の二緒子は、反応が遅れた。突発の危機に対応できず、そのまま引きずられ、振り回されて、悲鳴と共に虚空へと放り出される。


「二緒子!」


 走り寄った一也いちやが、飛びつくようにして妹を抱き止める。

 同時にその手に神剣が閃いて、横殴りに襲いかかってきた尾を打ち払った。


 それで均整を崩したカモノハシが、たたらを踏んで横転する。

 今度こそ片付いたか、と、皆が思った時だった。


 カモノハシの内側で、妖気が膨れ上がった。


「‼」


 紙風船が弾けるような音が響く。カモノハシの輪郭が溶けて、爆ぜるように四方八方へ放出されたのは、腐った藻のような色合いを帯びた粒子の塊だった。


「皆、下がれ!」


 ハッと表情を強張らせて、数馬が叫んだ。


毒気どくきだ! 触れるな!」


 二番組の戎士たちが慌てて後方へ跳ぶ。


 だが、爆ぜた毒気が放散する速度は、真那世まなせたちの退避の速度を上回った。


 数馬が、両手を挙げる。

 一也が、右手を胸前に立てる。

 二人の霊能の技が同時に発動して、神狩かがり一族の『盾』と神和かんなぎ一族の『壁』が出現する。


 数馬の『盾』がカモノハシの前脚を拘束していた戎士たちを、一也の『壁』が後ろ脚の方に居た残り半分の戎士たちと妹を、自分たちごとぎりぎりで囲い込んだ。


 防御術に打ち当たった毒気はそのまま砕け、端から塵となって大気に溶けていく。

 だが。


「――組長、副長!」


 何人かの戎士が、悲鳴じみた声を上げる。


 上空に跳ね上げられていた源七郎と椎菜には、数馬たちの防御は届かなかった。

 途中で『繰糸』を離しはしたが、体勢を崩し、背中から丘の斜面の一角に墜落していた椎菜の眼前に、どす黒い緑の粒子の塊が迫る。


「ちっ‼」


 舌打ちと共に、体勢を維持して着地していた源七郎の指から、『繰糸』が飛んだ。椎菜の腕を捉え様、力任せに引き寄せる。

 だが、その背後にも、別の毒気の塊が迫っていた。

 咄嗟に、源七郎が自らの身体で麾下を庇い込んだ刹那、その背に、毒気の塊が打ち当たった。


「っぐ!」

「組長!」


「――『伯王はくおう』!」


 椎菜の悲鳴に、数馬の声が重なる。

 三つ目の狼が、地を蹴った。

 毒気の塊の隙間を縫って斜面を駆け上がり、源七郎の襟首をくわえて、腕の中の椎菜ごと街道へと引き下ろす。


「二緒子、散らせるか⁉︎」

「! はいっ」


『盾』で戎士たちを護りながらの数馬の指示に、二緒子は再び神剣を振りかぶった。

 撃ち放った水流が『壁』を越えて躍り上がり、まだ残っている毒気の塊に噛みつく。捻じるように巻き込めば、相殺し合って、緑の靄が端から塵となって消えていく。


「――組長!」


 最後の粒子が大気に溶けたところで、戎士たちが一斉に走り出した。

 三つ目の狼が地面に下ろし、椎菜の腕に支えられた源七郎のもとに駆け寄っていく。


「っ、大丈夫、だ」


 荒い息を吐きながら、源七郎は、自分を抱える椎菜の手を退けて、身を起こそうとした。


「そんな訳がないでしょう!」


 そこへ、一也が鋭い声を上げた。


「毒気を持つ妖種に当たったのは初めてなのですか? 甘く見てはいけません!」

「その通りだ! 甲斐、動くな!」


 同じように声を張り上げたのは、数馬だった。


 その語気の烈しさに、源七郎が動きを止める。

 次の瞬間、その喉が不自然な音を立てた。不意の苦痛に襲われたように表情が強張り、右手が喉を、左手が胸部を掴む。

 そのまま、喘鳴と共に、横ざまに倒れ込んだ。


「毒気は、自然に治癒することはない。浄斎じょうさいの技できちんと解毒しなければ、死ぬ」

「そんな!」


 数馬の言葉に、椎菜が刺されたような悲鳴を上げ、周囲の戎士たちもぎょっとしたように息を呑んだ。


「組長が、し、死ぬって?」

「解毒しなければ、だ」


 短く断言して、数馬が前に出た。

 戎士たちを押しのけるようにして、源七郎の傍らに片膝をつき、声もなく痙攣し始めた身体の上に掌をかざす。


「な、何をするんです⁉ 数馬様、組長に何を⁉」

「毒素を『浄化』する」


 裏返った声を上げた椎菜に、数馬が短く答える。

 その手に淡い金の光が滲んで、霊力の粒子が音もなく源七郎の身に降り注ぎ始めた。


 息を詰めて、二緒子はその光景を見つめた。

 二緒子の眸には、源七郎の全身にどす黒い緑の靄が纏わりついている様が、はっきりと見えている。それが、皮膚から沁み込み、体内を侵し始めた様子も、だ。


 その非物質の毒素が、数馬の霊気で薄められ、散らされていく。

 それは、二緒子の眸から見ても、かなりの修行を積まなければ到達できないとわかる速度であり、練度だった。


 しかし、妖珠を砕かれて尚反撃したカモノハシもどきの妖力も、相当な強さだった。

 しかも、直撃を被っているから、浴びた毒気の量が多い。数馬の卓越した力と技を以てしても、なかなか解毒が進まない。


「っ、う」


 路上で身体を丸めて、毒気の浸食に耐えている源七郎が、低く呻く。


「組長! しっかりして下さい!」


 その横で、椎菜が悲鳴のような声を上げる。

 普段は氷の彫像のような顔が歪んで、今にも泣き出しそうになっている。


 身体を苛む痛みに苦しむ者と、それを見守ることしかできない心の痛みに苦しむ者。

 それを視界に映して、二緒子は反射的に、足を踏み出していた。


「何だ、おい」

「組長に近付くな!」


 途端に、噛みつくような声が上がった。

 二番組の戎士たちの何人かが音を立てる勢いで立ち上がり、二緒子の前に立ち塞がった。


「二緒子も、浄斎じょうさいの技が使えます」


 真っ向から浴びた不信と警戒に立ち竦んだ時、一也が二緒子と彼らの間に割って入った。


「一人より二人の方が早く解毒できる。甲斐様を助けたいなら、道を空けてください」


 浄斎の技とは、妖種の毒気や人の呪詛など、たましいを侵蝕して肉体に害を広げていく類の、非物理の毒素を無効化する為のもので、霊能の術者集団なら必ず一つや二つは持っている。

 神和一族でのそれは『祓い』と称され、神狩一族では『浄化』と呼ばれている。


「――信用できるか」


 だが、二番組の戎士たちは動かない。

 その背後で、源七郎に張り付いたままの椎菜が、引き攣った声で言った。


斗和田とわだの化け物が。助けるふりをしてとどめを刺すつもりじゃないと、誰に言える!」

「なら、剣を抜いて、私に向けておかれるといい。そして、もし二緒子が不審な行動をした時は、私をお刺しなさい」


 一也が溜息を吐いた。


「我々を信じないのは勝手ですが、物理的な毒物であれ非物理の毒気であれ、解毒は時間との勝負です。たましいが取り返しようもなく侵されてしまったら、甲斐様は、命は取りとめても、残りの生涯を廃人として過ごすことになる。それでも良いのですか?」


 椎菜が、びくりと表情を強張らせる。


「一也の言う通りだ」


 そこへ、数馬の声が飛んだ。


「揉めている場合ではない。来い、二緒子。浄斎の心得があるなら、手を貸してくれ」

「は、はいっ」


 絶対的上位者からの鶴の一声に、二番組の戎士たちが渋々といった様子で道を空ける。


 一也と共にその間をすり抜けると、二緒子は数馬の隣に膝を揃え、源七郎の身に両手をかざした。

 神和一族最高位の巫女だった母直伝の術式を素早く組み上げて、その手に朱色の燐光を纏わせると、数馬が一瞬、驚いたように目を瞠った。


「どうなさったんですか、数馬様。やっぱり、こいつ……」


 食い入るように様子を見ていた椎菜が、腰帯に提げている剣に手を掛ける。

 二緒子の後ろに位置を占めた一也が、溜息を吐いて、同じように剣の柄に手を置いた。


「違う、伊吹。見事な技だと思っただけだ」


 数馬が、そんな一也を目線だけで抑えて、勝手に不安と猜疑とを膨らませている椎菜に視線を向けた。


「これなら、甲斐は助かる。だから、これ以上騒ぐな」


 ぴしりとした口調に、ようやく椎菜が静かになる。

 ホッとして、二緒子は目の前の為すべきことに意識を集中させた。


 霊力は『想い』の力なので、どうしても本人の気質に左右されるところがある。

 だから、二緒子は、真那世にしては強い霊力を持ってはいたが、それを戦いの為の術として用いるのは、どうしても苦手だった。

 だから、未だに『念縛』はもとより、『壁』も上手くは創れない。


 だが、誰かの苦しみを癒し、救う為の術であれば、何の躊躇も制約もなく、霊力を解放させることができる。


 二緒子の両手の輝きが増す。

 それが数馬の霊力と重なって、浄斎の勢いが増す。

 源七郎を襲った緑の靄の全てが消えるまで、そう時間はかからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る